迎えに来たのは、犬の形をした何かだ。
朝になると、ドライブインの裏に立っていたのだ。灰色の肌に剥き出しの脳、口のあたりに縫い目があって、一言も喋らない。全員が揃ったのを見ると、ただ山のほうへ歩き出す。案内をつける、と電話の向こうであの医者が言っていたのは、これのことらしい。
坂がきつい。
舗装が切れてからもう三十分は登っているのに、前を行く脳無は一度も振り返らず、足音も立てずに林道を上がっていく。四本の足で歩くものに二本の足でついていくのは不公平だと思いながら、マグネは吊った左腕を胸に寄せて、右手で杖代わりの枝を突く。
「なあマグ姉!まだか!もう着くか!着かねえぞ!まだか!」
「あたしに聞かないでよ。前のに聞きなさい」
顎で前を示すと、トゥワイスは脳無の背中を見て、少し考えて、やめておく。
「……喋んねえもんな、あいつ」
「口、縫ってあるものね」
「縫ってなくても喋んなさそうだよな!喋りそう!いや喋んねえ!」
すぐ後ろでスピナーが息を切らしていて、その横でトガが鼻歌を歌いながら、落ちていた松ぼっくりを蹴っている。コンプレスは帽子を手に持って扇ぎ、荼毘は列の最後尾で、煙草をくわえたまま火をつけずに歩くだけだ。山火事になるからやめろと、出発前にあの子に言われたのだ。
あの子は列の真ん中あたりを黙って歩いていて、半歩後ろに執事がついている。弔ちゃんは脳無のすぐ後ろ、先頭だ。
「ねえねえ、番犬ってどんな子なんですかね」
トガが、松ぼっくりを蹴るのをやめて言う。
「先生の一番古い番犬って、あのお医者さん言ってましたよね。かぁいいといいなぁ」
「先生の番犬だぞ!チワワだろ!いやセントバーナードだろ!チワワだ!」
「チワワではないだろうね」
コンプレスが帽子で顔を扇ぎながら言う。
「あの方が長年手元に置いていた犬だ。少なくとも、手のひらには乗らない」
「……でけえのかな」
スピナーの声が、少しだけ小さい。
「でかくて、強くて、先生にしか懐かない、みたいな。そういうやつ、なんかいそうじゃねえか」
「犬なら焼けば済む」
最後尾から荼毘が口を挟む。
「焼いちゃだめでしょ。これから仲間になるかもしれないのに」
「仲間になるかどうかは向こうが決めんだろ」
マグネが言い返そうとしたところで、列の真ん中から声がした。
「番犬は、飼い主にしか尻尾を振らない」
あの子だ。前を見たまま、帳面も開かずに。
「飼い主がいなくなった番犬が次に誰に振るかは、番犬が決める……荼毘の言うとおりだ」
「……ほら見ろ」
「あんたたちねぇ……」
弔ちゃんの背中は、何も言わずに先を歩いていく。
少しのあいだ、誰も喋らない。足の下で枯れ枝が折れる音と、どこかで鳴く鳥の声だけが響く。
「……なあ」
スピナーがぼそっと言う。
「黒霧さんが会いに行ったのって、そいつなんだよな」
トゥワイスの足が止まりかけて、また動く。
あの夜の焚き火のことを、マグネは覚えている。先生に長く仕えてきた者がいる、居場所は自分しか知らない、まず自分が行って話を通してくる。黒霧はそう言って、遠くまでは一日一回しか飛べない体で、一人で行った。
それきり戻らなかった。
捕まったことだけは、ニュースで知った。どこで、どうやって、誰に捕まったのかは、どの局もはっきりとは言っていない。
「……一日一回だった」
あの子が言う。
「行きに一回……話が拗れたら、帰りは翌日になる。その間は一人になる。……あの夜、そう言った」
誰に向けたのでもない声だ。帳面の数字を読み上げるのと同じ声で、それでもマグネには、少しだけ違って聞こえる。
「言ったのに、止めなかった」
「止めて聞く人じゃなかったでしょ」
マグネは返す。
「務めだって言ったのよ、あの人。務めって言われたら、誰も止められないわ……あんたが一番わかってるでしょうに」
あの子は答えない。半歩後ろで、執事が何も言わずに目を伏せる。
「黒霧さんの酒さぁ!」
トゥワイスが急に大きな声を出した。
「あの人の作る酒、薄かったよな!濃かった!いや薄かった!」
「あれは薄めてたのよ、トゥワイスが飲みすぎるから」
「マジかよ!知らなかった!もちろん知ってたぜ!いや初耳だけど!?」
「あたしが初めてバーに行った日ね、あの人、黙っておしぼり出してくれたのよ。ヴィランのバーでおしぼりよ?あたし笑っちゃって」
「私には〜ストローくれました」
トガが続く。
「赤いのが飲みたいって言ったら、トマトジュースにストロー差してくれました。ちょっと違ったけど、かぁいいストローでした」
「私には帽子掛けを用意してくれたよ」
コンプレスが、手の中の帽子を見下ろしている。
「誰も頼んでいないのにね。次の日には、カウンターの端に釘が一本打ってあった」
「……俺には」
スピナーが言いかけて、首を傾げる。
「……なんかあったっけ」
「ないの?」
「ねえかも……いや、椅子の高さ直してくれた。尻尾が挟まるって言ったら」
「あるじゃない」
「あったわ」
荼毘は何も言わない。言わないまま、火のついていない煙草を指で挟んで口から外し、しばらく眺めてから、またくわえた。
前を歩く弔ちゃんの背中は、さっきから一度も振り返らない。それでも歩く速さが、ほんの少しだけ落ちているのがわかる。
あの夜、戻ってこいよと言ったのは弔ちゃんだった。
弔ちゃんの口からあんな言葉を聞いたのは、あれが初めてだ。
「なあ死柄木!」
トゥワイスが先頭に向かって叫ぶ。
「黒霧さん!その番犬のとこにいたりしてな!いねえか!いるかも!」
弔ちゃんは振り返らない。
首に手をやって、掻いて、その手を下ろす。
「……いねえよ」
低い声だ。それきり、また前を歩いていく。
トゥワイスが口を開けて、閉じてからうつむいた。マグネはその背中を、杖を持ったほうの手の甲で軽く叩く。
坂の上のほうで脳無が足を止めている。木々の向こうがそこだけ妙に明るい。