「連れてくる…だと?」
少年は自分の耳を疑った。
「ここに…あの男を」
「黒霧に頼んだ。もう出てる」
死柄木はカウンターに頬杖をついて、こともなげに言った。
「……反対だ」
「知ってる」
「三日かけて塞いだ場所だぞ。正体もわからない人斬りを自分から中に入れるのか、馬鹿げている。」
「面白そうだろ」
少年は口を開けて閉じた。
この男は時々こういうことをする。積み上げたものを、面白いという理由だけで蹴り倒す。
「……クラウディオ」
「はい」
「奥の扉を開けておけ。逃げられるようにしておく」
「かしこまりました」
「おい」死柄木が顔をしかめた。「俺の客だぞ」
「客が刃物を持ってこないという保証は?」
死柄木は答えなかった。
答えられなかったという顔だった。
---
黒い靄が広がったのは、それから十分後だった。
店の中に立った男はぼろ布を巻きつけたような姿をしていた。目だけが異様に鋭く体のあちこちに刃物を差している。血の匂いが、雨よりも濃く入ってきた。
ヒーロー殺し・ステイン。
少年はカウンターの端に下がり、クラウディオがその半歩前に立った。誰にも見えない位置で袖口が少しだけ動く。
「……お前がヴィラン連合の頭か」
ステインは、死柄木をじろりと見下ろした。
「死柄木弔だ」
「俺を呼んだ理由を聞こう」
「一緒にやらないかって話だ…」
死柄木は椅子の上で膝を抱えた。
「あんた有名だろ。ヒーローを何人も殺してテレビでも騒がれてる。人も集まるだろ、そういうのが欲しい」
「人集め…か」
ステインの目が細くなった。
「お前は何のために壊す」
「は?」
「何のためにこの社会を壊す。何を正すために、何を守るために、何を憎んで壊す」
死柄木の指が首筋を掻いた。
一度。二度。
「……気に入らねえから」
「それだけか」
「それだけって何だよ。気に入らねえもんは壊す。当たり前だろ」
空気が変わった。
少年はそれが変わる瞬間をはっきり感じた。
ステインの手が腰の刃物に伸びる。
「――信念のない破壊は、ただの癇癪だ」
刃が抜かれた。
黒霧が名前を呼び、死柄木が椅子から転げ落ちる。刃先が、さっきまで死柄木の頭があった場所を裂いた。
少年の隣で空気が鳴った。
クラウディオの袖口から、糸が走りかけて――
「いい」
少年が短く言った。
糸が途中で止まった。ステインの首筋まで、あと数十センチのところで。
「ですが」
「止めるな」
床を転がる死柄木を見ていた。
刃を向けられて、答えられずに床で喘いでいる男を。
「あれは、あいつの問題だ」
クラウディオは何も言わず、糸を引いた。
誰にも気づかれないうちに、光は消えていた。
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「答えろ」
ステインは床の死柄木の胸を踏みつけていた。
「お前は何がしたい。何を憎んでいる。それも言えぬ者に、人を集める資格はない」
「……っ、うるせぇ……やっと怪我が治って来たのに…急にこれかよ…!」
「言え」
刃が死柄木の喉元に寄せられる。
死柄木の目が何度も泳いだ。答えを探していた。自分の中に
そんなものがあるかどうかも知らないまま。
やがて絞り出すように。
「……オールマイトだ」
刃が止まった。
「あいつが気に入らねえ。あいつが立ってるから、全部が回ってる。あいつが笑ってるから、みんな安心してる。……全部気に入らねえ」
「ほう」
「壊す。あいつもあいつが守ってるもんも…全部」
ステインはしばらく死柄木を見下ろしていた。
それから刃を引いた。
「未熟だ。だが…何もないわけではないらしい」
足がどけられる。死柄木は咳き込みながら、床の上で身を起こした。
「……で…やるのかよ」
「同志になった覚えはない。だが当面は利用し合おう」
ステインはそう言って店の中をぐるりと見回した。
そして視線が止まった。
カウンターの端に立つ小柄な影に。
---
「…子どもか」
少年は答えなかった。
ステインの目が少年の顔から、コートから後ろに控えた男へと移っていく。
「なぜ、ここにいる」
「……匿ってもらうためだ」
「匿う?」
「働く代わりに、居場所をもらっている…取引だ」
ステインは鼻から短く息を吐いた。
「取引か。実に合理的だな」
その声には何の熱もなかった。軽蔑ですらない。値打ちのないものを、値打ちがないと確認しただけの声だった。
少年の指がわずかに動いた。
「そちらの男は」
「クラウディオと申します」
執事は静かに頭を下げた。
「お前も取引か」
「いえ」
「では、何のためにここにいる」
「坊ちゃんをお守りするためです」
ステインの目がはじめて動いた。
わずかに細められ、それから男の全身を測るように上下する。
「見返りは」
「ございません」
「主に命じられたか」
「いいえ。私が決めたことです」
沈黙が落ちた。
ステインは、しばらくクラウディオを見ていた。
「……お前は…本物だ」
少年がはっと顔を上げた。
「だが…命を懸ける先を間違えている」
ステインは刃を鞘に戻しながら言った。
「その献身は社会にも弱者にも向いていない。たった一人に向けられた無私など、主のための私欲と何が違う」
「承知の上でございます」
クラウディオは顔色一つ変えなかった。
「わかっていて、なお立つのか」
「はい」
「……度し難いな」
ステインは吐き捨てて、視線を少年に戻した。
「小僧。お前は逃げてきたのか」
少年は、少しだけ迷ってから答えた。
「そうだ」
「何から逃げた」
「……メキシコで麻薬を扱っている家…エル・トローノだ」
隠す意味はないと判断した。この男に嘘をつけば必ず気づかれる。
「その家が、二百年かけて血を選んで繋いできた、強い個性を残すために、誰と誰を結ばせるかを決める仕組みがある。俺はその、いちばん先にいる子どもとして生まれた。」
少年は事実だけを並べた。声に色をつけなかった。
「十歳で次の当主に内定した。前例のない早さだったからな。周りの家が席を取り合い始めた。俺の隣に誰を置くか、次にどの血を入れるか。そういう争いだ。」
「それで」
「壊れそうだったから…出てきた。」
ステインの眉が寄った。
「誰も止めなかったのか」
「誰も規則を破っていなかった、前例がないから誰も止められなかったんだ。」
少年は淡々と続けた。
「幹部たちもため息はついていた。でも、止める理由がなかった。規則の中で起きていることは、誰にも止められない。」
店の中が静かになった。
「……腐りきっているな」
ステインは低く言った。
「本来の目的を忘れた制度は、必ず人を食う。お前の家も、この国のヒーローも、同じ病だ」
少年は答えなかった。
ステインの目が真正面から少年を射抜いた。
「だが小僧。お前は――」
「……おい」
割り込んだのは、死柄木だった。
床から立ち上がり首を掻きながら、心底不愉快そうな顔で。
「そいつはどうでもいいだろ。あんた…俺と話してたよな」
「……」
「俺の話をしてんだよ。関係ねえガキに構ってんじゃねえ」
ステインはしばらく死柄木を見た。
それから、ふんと息を吐いて、少年に背を向けた。
去り際に一言だけ落としていった。
「逃げただけだ」
少年は動かなかった。
「腐った制度を見て、腐っていると気づいて、お前はそこから逃げた。それだけだ…何も変えていない」
黒い靄が広がる。
男の姿はその中に消えていった。
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その夜。
少年は段ボールの寝台に仰向けになっていた。
天井の染みはいつもと同じ形をしていた。
「……逃げただけ…だとさ」
「はい」
「間違ってない」
「……」
「十三で逃げた。何も変えてない。制度も…家も…あのままだ」
クラウディオは少年のコートを畳む手を止めなかった。
「言い返せなかった」
「言い返す必要が…ございましたか」
「ない。あいつの言う通りだからな」
少年は腕で目を覆った。
「……なあ」
「はい」
「お前、本物だって言われてたな」
クラウディオの手が、一瞬だけ止まった。
「あの方の基準ではそうなのでしょう」
「向ける先を間違えてるとも言われてた」
「はい」
「気にしてないのか」
「はい」
即答だった。
少年は腕の下で少しだけ眉を寄せた。
この男はいつもそうだ。自分の生き方について何を言われても、一度も揺れない。
それがどういう意味なのか、少年にはうまく掴めなかった。何かが引っかかるのに、その形がわからない。
わからないまま、少年は目を閉じた。
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カウンターの明かりだけがまだ点いていた。
死柄木は椅子に座ったまま自分の手を見つめていた。
オールマイト。
声に出したのは初めてだった。
ずっと壊したいと思っていた。気に入らないから壊す、それだけだと思っていた。刃を突きつけられて、何も出てこなくて、それでも最後に出てきたのがあの名前だった。
あれが答えなのか。
それともあの場しのぎで出しただけの言葉なのか。
死柄木は答えの出ない手をしばらく眺めていた。
物置の方を一度だけ見る。
灯りは、もう消えていた。
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翌朝、死柄木はいつもより口数が少なかった。
ゲーム機を触らず、カウンターに座って、何も言わずに壁を見ている。
少年はそれを横目で見て、心の中で処理した。
ステインに斬られかけて、答えられなくて、恥をかいた。だから落ち込んでいる。
そういうことだろう…と。
それ以上考えなかった。