倒れている木は、一本や二本ではない。斜面の一角が何かに押し潰されたように平らになっていて、その縁の杉に色の抜けた黄色いテープが一本、結ばれたまま残っている。
立入禁止。
雨と日に晒された文字はもうほとんど読めず、端が裂けて、風に揺れるばかりだ。
テープの前で、死柄木が足を止めた。黒霧がどこで捕まったのか。
今知った。
死柄木は首に手をやって、掻かずに下ろす。
「……ここか」
それだけ言って、テープの横を通り過ぎていく。アルテミスはテープを一度だけ振り返った。戻ってこいよと言った夜の火の音を、なぜか覚えている。
平らになった斜面の奥に、山がもう一つある。
そう見えた。苔と土と落ち葉をかぶって地面と見分けがつかないそれが、ゆっくりと上下に動く。
息をしているのだ。
「……おい、嘘だろ」
スピナーが後ずさると同時に、山が寝返りを打つ。土が滑り落ちて、木の根が千切れていく。その下から現れたのは、人の顔の形をしているのに車ほどもある顔だ。瞼が上がって、濁った目がゆっくりとこちらを探し、死柄木のところで止まる。
「……探した……やっと見つけた……!!」
地の底から響くような声だ。
「お前が……オールフォーワンを継ぐ者か……」
ギガントマキア。オールフォーワンの最も古い番犬だと、電話の医者は言っていた。
死柄木が一歩前へ踏み出す。
「これが……先生の残してくれた力か……」
巨体の顔が歪んで、拳が地面を打つ。一度、二度。そのたびに、足の裏から骨まで揺れが上がってくる。
「ァァァァァァ!!主よぉぉぉぉぉ!何故だぁぁぁぁ!!!!」
泣き叫んでいるのだ。
「彼は弱すぎるぅぅぅぅぅ!!!!!!」
虚を突かれた顔のまま、死柄木は巨体を見上げて動かない。
「は……弱い……?」
「何なのよ!あんたねぇ!昔のボスが凄かったからって、今の弔ちゃんをコケにするんじゃないわよ!」
割り込んだのはマグネだ。死柄木の前に立ちはだかって、愛用の巨大磁石を大上段に構えて仁王立ちだ。
「強いとか弱いとか、そんな物差しだけであたしたちのボスを測らないで頂戴……!弔ちゃんはあたしたちの、ヴィラン連合のボスなんだからッ!」
マキアにはS極を、手元の磁石にはN極を乗せて、出力を最大まで跳ねあげる。ガツン、と引き合う力が結ばれた。マグネは腰を落として、片腕をこれ以上ないほどに引き絞る。
「……動かない……ッ!?」
巨体は一ミリも傾かない。磁石を握る指の骨だけが、ミシミシと軋む。引き寄せられているのは、自分のほうだ。
「ぐぁぁぁぁ!!主よぉぉぉぉぉ!!!!!」
濁った大きな目が初めてマグネを捉えて、次の瞬間、視界を埋め尽くすほどの拳が振り上げられる。家一軒分の岩塊。
「ッ――しまっ――!」
「……っ!引石健磁を上に!ギガントマキアを下に!」
「マグ姉ェェェエエエッ!!」
トゥワイスの悲鳴と一緒に拳が落ちて、濃い土煙が斜面を覆う。
煙が流れていく。拳はマグネの頭の上に振り下ろされたまま、ビクともしない。それ以上、一ミリも下りてこない。
「引けっ!マグネ!!」
マグネが磁石を抱えて、転がるように飛び退く。
「……ごめんなさい、あたしまた先走っちゃったわ……」
「……二回目だぞ……肩も怪我してるだろう」
マグネに張った枠を外す。張り直すなら、一枠で足りる。死柄木を上に、ギガントマキアを下にすればいい。それだけで、この巨体は死柄木に指一本触れられない。
「……余計なことすんなよ」
「…………」
「こいつは俺の力でやる」
死柄木が首に手をやって……掻かない。
「お前のチートで勝っても……なんも面白くねぇだろ」
アルテミスの目は、その背中から動かない。枠を張れば勝てる。勝ったあと、この番犬が見るのは自分だ。
試されているのは連合ではない。アルテミスでもない。
――死柄木弔だ。
その頭が、手を出すなと言った。
一歩、下がっておく。勝つ方法が目の前にあるのに使わないのは、思っていたより奇妙な感覚だ。それでいいと思えた。
隣のクラウディオも半歩引く。
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最初の一撃で、死柄木は斜面を転がり落ちた。
巨体の腕が振り下ろされただけで地面ごと抉れて、死柄木は土と一緒に十メートルほど転がり、倒木に背中を打ちつけて止まる。
「死柄木!」
トゥワイスが叫ぶなかで、死柄木は身を起こす。口の端から血を垂らしたまま首を掻いて、また歩き出す。
「……結局は火力が全部だろ」
荼毘がマキアを見上げて、昏く笑う。次の瞬間、全身から炎が噴き出した。
「灰になりな!デカブツ!」
蒼い火柱が、真正面から巨体を包み込む。
「おい……まじかよ……やったか!」
「……おいスピナー……フラグ立てんな」
死柄木の声が地を這う。
「えっ!?フラグって……」
死柄木が、前髪の隙間から睨む。燃え盛る渦の向こうで、マキアは苦悶の声一つ上げずにあくびをしていた。
「あ……本当に全然効いてねえ……!」
顔を青くするスピナーの横で、死柄木の舌打ちが響く。
「ほら見ろ……お前が余計なこと言うから余計に絶望感増したじゃねえか……クソが」
巨大磁石を杖代わりにしたまま、マグネがスピナーの頭に容赦なくチョップを叩き込む。
「痛ぇッ!?マ、マグ姉!?」
「あんたねぇスピナーちゃん!戦場であのセリフは禁句だって、義務教育で習わなかったのォ!?」
キッと睨みつける。
「漫画の読みすぎよ!敵への炎が激しく燃え上がったときと、煙で姿が見えなくなったときの『やったか!?』は、敵がピンピンして出てくる確定演出なの!弔ちゃんの言う通りよ!余計なフラグ建築してんじゃないわよ!」
「漫画の読みすぎなのマグ姉だろ!!」
「何よ!」
「俺そこまで考えて言ってねえよ!!そもそも何で俺なんだよ!?荼毘だろ!?荼毘が焼いて効かなかったんだろ!?」
荼毘はマキアから目を外さないまま、口元だけを僅かに吊り上げる。
「……お前が『やったか』とか言うからだろ」
「関係ねぇだろ!?」
数歩後ろからそれを見ていて、不思議と嫌な気分ではない。
「坊ちゃん……面白うございますか?」
言われて、口元が緩んでいることに気づく。
「まぁ……面白いかもしれない」
「アルテミスくん、今笑いました?」
トガが横から顔を覗き込む。
「……笑っていない」
「笑いましたよね!ミスター!見ました?」
「見たとも」
コンプレスが、帽子のつばを指で押し上げて頷く。
「客席の顔を見るのが手品師の仕事だからね。今のは確かに笑っていた……口の端が二ミリ」
「測るな」
「二ミリでもかぁいいです!もう一回やってください」
「やらない」
「アンコールは有料かな?少年」
「……見物料を取る」
「払います!いくらですか!」
「払うな」
トガがポケットを探って、飴玉を差し出す。受け取らずにいると、コンプレスが横から指先でつまんで、手のひらを返す。開いた手には何もない。
「おや……代金は無事に金庫へ」
フードのポケットが、少しだけ重い。
「……勝手に入れるな」
後ろでクラウディオが、聞こえないふりをして目を伏せていた。
---
電話が鳴った。死柄木のポケットではなく、案内の脳無の首から下がった小さな端末だ。
『いやぁ、はじまったのう』
のんびりとした、機嫌のいい医者の声だ。
『こっちへおいで。場所は用意してある』
アルテミスは端末に向かって言う。
「どうやって行く。あのデカブツのせいでここから離れられない」
『まぁまぁ……少々待っとれ』
黒いものが湧き出す。
「え!ちょ!なにこれ!なにこれ!おえぇぇぇ……!汚い、クサイ!なにこれ最悪!!」
トガが涙目で絶叫して、服にまとわりつく泥を振り払おうともがく。
「ゲホッ!ゲホッ!なんだこれ!ヘドロの匂いだ!いや最高の香水だッ!鼻がひん曲がる!!」
トゥワイスがパニックになって、マグネの背中にしがみつく。
「弔ちゃんこれ……先生の個性よッ!」
マグネが鼻を押さえて叫ぶ。神野のときのあの泥だ。なぜか、あのときより匂いがきつい。
息を止めるしかない。
一秒……二秒……三秒。
体が引きずられて、上も下もわからないまま歯を食いしばる。
五秒……六秒。
無機質な機械音と消毒液の匂いのする広い部屋の床に、ヴィラン連合の一同が盛大に吐き出された。
「くさーい!!」
トガが床の上で手足をばたつかせている。
「くさいくさいくさい!なにこれ!ドブ!ドブの匂い!」
「くっせぇ!良い匂いだ!くっせぇ!」
「ちょっと、あたし肩縫ったばっかりなのよ!?」
マグネが吊った腕を庇いながら本気で怒っている横で、荼毘は無言で床に唾を吐く。コンプレスは帽子を脱いで中を覗き込み、黙ってかぶり直す。スピナーは四つん這いのまま、しばらく動かない。
黒いものはもうどこにも残っておらず、服も肌も濡れてすらいない。クラウディオだけが床に足をつけて立っていて、上着にも袖にも皺一つない。
「そうだ……アルテミスくんの匂いいっぱいくんくんしたら、このクソみたいな匂い消えるかも……!」
「ちょっとトガちゃん!?何考えて――」
マグネの制止より早く、トガが床を蹴る。次の瞬間には、頭に顔を埋められていた。
「……ッお前……!やめろ……!離せ!」
鼻を押しつけて、ものすごい勢いで吸い込む。
「はぁぁあ……っ!生き返ったぁ……!!」
「……いい加減にしろ……ッ!!」
「おい……ドクター」
死柄木が首筋をボリボリと掻きむしる。
「……このクソガキどものコント見せるために、わざわざあんな臭え泥で呼んだのか?用があるなら早くしろ」
部屋の奥で椅子が軋んで、白衣の老人が立ち上がる。
「……う……うむ……わしとしてはマキアの抜き打ちから助けてやったつもりなんじゃがのう」
眼鏡の奥の目が、トガの腕の中でもがいている頭の上で止まる。
「……それで、君が」
老人は機嫌よく笑った。
「オールフォーワンが奪えなかった子じゃな?」