「オールフォーワンが奪えなかった子じゃな」
老人は心底嬉しそうに言う。
白衣に分厚い眼鏡、鼻の下には手入れの行き届いていない口髭。背はアルテミスと然程変わらず、白衣の袖口には茶色く乾いた染みが一つ残っていて、それが薬品なのかそうでないのかは見ただけではわからない。この男が先生の医者なのだと、言われなければ誰も思わないだろう。
「わしは殻木じゃ……ここの院長をやっとる」
「院長?ここ……病院なのかよ」
スピナーが聞き返す。
「蛇腔総合病院じゃ、表向きは……の……上の階では毎日ふつうに患者を診とるよ。風邪も、骨折も、お産もな」
「……で、地下に脳無がいると」
「おるよ」
「普通に一番やべぇやつじゃねぇか」
「医者かよ!死体をいじるマッドサイエンティストだろ!?命を救う神様だな!」
トゥワイスが叫んで、誰も相手にしない。
アルテミスは白い廊下の奥に目をやった。
金、薬、人。病院なら全部を表の帳簿で動かせて、死体が出ても不自然ではなく、患者の出入りに紛れて誰が来て誰が消えても目立たない。上の階で赤ん坊が生まれている同じ建物の下で、何が作られていても。
よくできた仕組みだ。家の人間なら、きっとそう言って褒めるだろう。
自分も今、そう思った。
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「それでじゃ……アルテミス君」
殻木が目の前まで来て、膝を折る。目の高さが揃う。子どもに話しかける高さであり、標本を覗き込む高さでもあった。
「ちょっとでいいんじゃ。調べさせてくれんかのう?」
「断る」
「血を一滴だけ」
「ダメだ」
「髪の毛一本でも」
「ダメだと言っている」
殻木は少しも気を悪くした様子がなく、むしろ断られるたびに嬉しそうになっていく。
「ええのう……その目……オールフォーワンにもそう言うたんじゃろう。聞いとるよ」
眼鏡の奥の目が、顔の上をゆっくりと這っていく。額から眉へ、眉から目へ、値札を探すような動き方で。
「ふむ……君は"個性"を下に置いとるな。あのお方ご本人ではなく」
答えない。答えなかったことが、そのまま答えだ。
「ほっほ、正解か……そうじゃろうな。あのお方ご本人を下に置くには……認識される為の名前が要る……君の個性はそういうもんじゃろう?」
殻木は立ち上がって、膝の埃を払う。
「本当の名を知っとる者は、もうわしくらいしかおらんよ」
冗談のような口ぶりで、笑いながら言うから、誰も気に留めない。
その一行を棚に入れて、閉じなかった。
殻木の手がもう一度こちらへ伸びかけたところで、白い手袋が割って入る。クラウディオが半歩だけ間に入っていた。何も言わず、ただそこに立つだけだ。
伸ばしかけた手を、殻木はそのまま引っ込めて、かわりにクラウディオの肩越しに、マグネの吊った左腕の、包帯の下の縫い目のあたりに目を移す。
「……ほう」
老人の声色が、わずかに変わっていく。
「その肩……誰が縫った」
「……私です」
「見事な処置じゃ。糸の運びに迷いがない、どこで覚えた」
「昔のことです」
それだけ言って頭を下げても、クラウディオの足は一歩も退かない。
殻木はしばらく、その執事から目を離さない。医者が医者を見る目で、職人が他所の職人の道具を見る目でもあった。
「ほっほ……あの方はいい拾い物をしたもんじゃ。いや、拾ったのはあの方じゃなかったかの」
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地下は病院の匂いがしない。
消毒液でも薬でもなく、もっと甘くて重い、水槽の底に溜まった水の匂いだ。長い通路の両側に円筒の槽がずらりと並んで、緑がかった液体の中に一体ずつ何かが浮いている。
人の形だ。
神野で見た脳無とは違って、剥き出しの脳はあっても体つきは人に近い。筋肉の付き方も、手の指の数も、目を閉じた寝顔も。
「おおー!すっげぇなんだこいつ。寝てんのか?起きてんのか?」
トゥワイスが一つの槽に顔を近づけて、指でガラスをこつこつと叩く。
中の脳無が、目を開ける。
「……触るな」
喋った。
トゥワイスは五メートル後ろに飛び退いてスピナーにぶつかり、二人まとめて床に転がった。
「喋ったぁ!?喋ってねぇ!?喋ったぁ!!」
「ハイエンド脳無じゃ。考えるし喋る。ちゃんと礼儀も教えとる……完成形の脳無と言ったところじゃな」
「今の礼儀か!?」
「ねえねえ!お医者さん!」
トガは槽のガラスに頬をくっつけたままだ。
「この子たちの血って、おいしい?」
「ほう、いい質問じゃ。成分で言えばじゃな――」
「答えなくていいわよ!気持ち悪い」
マグネの声が割り込む。
そのあいだも、アルテミスは並んだ槽を端から数えている。
「一体あたりの原価は」
殻木が振り返って、眼鏡の奥の目がぱっと輝く。
「ほう!話のわかる子じゃ。どれ、そこの個体で言うとじゃな」
老人が指を折って数えだす。
「素体が一人。個性の提供者が四人。調整の途中で潰れたのが、確か十一人じゃったか。いや十二人か。安定するまでが長くてのう」
片手の指が全部折れて、もう片方の手に移って、そっちも折れて、それでも老人は、楽しそうに数え続けているのだ。
金の話が返ってくると思って訊いた。返ってきたのは人数で、それが両手で足りない。
十七人。この槽一つに。
槽は通路の奥まで続く。
そこから先は、数えなかった。
隣では荼毘が、一つの槽を見上げているところだ。中の脳無は他のものより一回り大きく、背中に何か畳まれたような影が浮かぶ。
「……こいつ……一体貸せ」
「何に使うんじゃ」
「試したい奴がいる」
誰をとは言わない。
荼毘の横顔を窺う。この男の打算だけはいつも読めない。金でも組織でもなく、どこか一か所だけに向いているのはわかるのに、その先が見えない。燃え残った釘の先みたいに、そこだけが尖っている。
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殻木の要求は単純なものだった。
「ここに置いてやる。飯も出す。怪我も診る。移動もあの泥で面倒をみる、そのかわり」
老人が槽の列を指す。
「こいつらの調整に付き合ってもらう。動いとる相手と戦わせんと、数字が取れんのじゃ」
誰も値切れない。居場所がなく、金もなく、断る材料が一つもない。
アルテミスが前に出る。
「条件を詰める」
「ほう」
「協力の範囲は模擬戦のみ。こちらの誰かが死ぬ強度は出さない。負傷はそちらが治療する。期間は死柄木の試験が終わるまで。見返りは今言ったものに加えて情報。外の動きをこちらにも回すこと」
殻木はうんうんと頷きながら聞くばかりだ。
「それから……もう一つ」
老人の眼鏡を、真っ直ぐに見る。
「俺を調べないことだ。血も髪も爪も。それを条件に入れる」
「かまわんよ」
即答で、少しだけ眉が寄る。
「……随分あっさりしている」
「急ぐ理由がないからのう」
殻木の顔は、にこにこと笑ったままだ。
神野で同じように笑う男と契約を結んだことがある。あの男も、急ぐ理由がないという顔をしていた。
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夜になって、殻木が白い部屋に椅子を一つ運んできた。
「さて……弔」
死柄木は壁にもたれて床に座っている。連合の連中はそれぞれ好きな場所に散らばって、聞いていないふりだ。
「マキアはのう……強さしか認めん。わしが命じたところで、あれは君を主とは呼ばんよ」
「……知ってる。弱すぎるんだろ、言われたよ」
「根に持っとるのう」
老人は膝の上で指を組む。
「じゃから条件は一つじゃ……力でマキアを屈服させてみせい。わしは手を出さん。あれが自分から膝を折るまで、遠くから見とるだけじゃ」
「見返りは」
アルテミスが言うと、殻木は嬉しそうに目を細める。
「話のわかる子じゃ……弔がマキアを掌中に収めたら、わしの研究の全てをくれてやろう。個性も脳無も、何十年分を丸ごとじゃ。君が望む破壊に耐えうる体を、その手にやろう」
死柄木は返事をしない。
「……先生んとこ来る前のことは、穴だらけでな」
誰に言ったのかはわからない。
「こいつら着けてると気持ち悪くて仕方ねえのに……外すと眠れねえ」
指が、顔の手の指を一本なぞる。
「覚えてねえのに……腹の底に重てえのがずっと沈んでる。そっから湧いてくんだよ際限なく。ヒーローが消えても……裏で一番になっても……たぶん減らねえ。何やっても腹が晴れねえ」
殻木は黙って耳を傾けるだけだ。眼鏡の奥の目が、槽の前で人数を数えたときと同じ色だ。
「好きなもんが一個も思いつかねえ。息してるもん見てるだけで、首が痒くなる」
トゥワイスが寝転んだまま天井を見ていて、スピナーが刀の鍔をいじる手を止めて、マグネは吊った腕を抱えたまま何も言わない。
「じゃあもう壊そう……一旦全部……!」
全部。
アルテミスはその言葉を棚に入れて、閉じなかった。
「全部が更地になったら、さぞ見晴らしがいいだろうな」
どうでもよさそうな声のあとで、死柄木が顔を上げる。
「だからドクター……あんたも乗れ」
そっちだけは低い。
「どこまで壊れるか、一番前で見せてやる」
殻木は長いあいだ黙っていて、やがて肩が震えだす。
「ええのう……!ええのう弔」
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班分けは、その夜のうちに決まった。
「マキアのとこには……勿論俺が行く、俺が次の主になってやるよ」
死柄木が言う。
「コンプレスとトゥワイスも来い……マグネは肩が治ってからだ」
「なんでよ……あたし行けるわよ」
「二回先走った奴を連れてくか」
「……っ」
マグネがこっちを睨んでから、目を逸らす。
「俺も行く」
スピナーが言う。
「お前は留守番だ」
「なんでだよ」
「……留守番、頼む」
二度目は少しだけ声が低くて、スピナーは何か言いかけてやめ、それ以上は何も言わない。
「ハイエンドの相手は……荼毘」
「ああ」
「それと――」
「俺が行く」
アルテミスが言う。
「取引をしたのは俺だ……裏方は俺がやる」
死柄木は少し黙って、首を掻く。
「……好きにしろ」
半歩後ろに立っている男のほうを向く。
「クラウディオ」
「はい」
「お前は、生活のほうに回れ」
クラウディオの呼吸が、ほんの一拍だけ止まる。九年、この男に「そばを離れろ」と言ったことは一度もない。
「……坊ちゃんは」
「裏方だ。荼毘と組む」
「……かしこまりました」
「やったー!執事さんと一緒ー!」
トガが両手を上げる。
「俺もいるけどな……」
スピナーがぼそりと言う。
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翌朝、案内の脳無の口の縫い目がほどける。
「ちょっと待って、またあれ!?またあれかよ!?香水だな!!ヘドロだよ!!」
トゥワイスの悲鳴ごと、黒いものがマキア班を呑み込んで消える。
白い部屋が急に広くなる。
数える……荼毘、マグネ、トガ、スピナー、クラウディオ。自分を入れて、六人。
減った数を数えるのは、初めてではない。
戻ってくる数を数えるのは、初めてだった。