カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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38話 原価

「オールフォーワンが奪えなかった子じゃな」

 

 老人は心底嬉しそうに言う。

 

 白衣に分厚い眼鏡、鼻の下には手入れの行き届いていない口髭。背はアルテミスと然程変わらず、白衣の袖口には茶色く乾いた染みが一つ残っていて、それが薬品なのかそうでないのかは見ただけではわからない。この男が先生の医者なのだと、言われなければ誰も思わないだろう。

 

「わしは殻木じゃ……ここの院長をやっとる」

 

「院長?ここ……病院なのかよ」

 

 スピナーが聞き返す。

 

「蛇腔総合病院じゃ、表向きは……の……上の階では毎日ふつうに患者を診とるよ。風邪も、骨折も、お産もな」

 

「……で、地下に脳無がいると」

 

「おるよ」

 

「普通に一番やべぇやつじゃねぇか」

 

「医者かよ!死体をいじるマッドサイエンティストだろ!?命を救う神様だな!」

 

 トゥワイスが叫んで、誰も相手にしない。

 

 アルテミスは白い廊下の奥に目をやった。

 

 金、薬、人。病院なら全部を表の帳簿で動かせて、死体が出ても不自然ではなく、患者の出入りに紛れて誰が来て誰が消えても目立たない。上の階で赤ん坊が生まれている同じ建物の下で、何が作られていても。

 

 よくできた仕組みだ。家の人間なら、きっとそう言って褒めるだろう。

 

 自分も今、そう思った。

 

---

 

「それでじゃ……アルテミス君」

 

 殻木が目の前まで来て、膝を折る。目の高さが揃う。子どもに話しかける高さであり、標本を覗き込む高さでもあった。

 

「ちょっとでいいんじゃ。調べさせてくれんかのう?」

 

「断る」

 

「血を一滴だけ」

 

「ダメだ」

 

「髪の毛一本でも」

 

「ダメだと言っている」

 

 殻木は少しも気を悪くした様子がなく、むしろ断られるたびに嬉しそうになっていく。

 

「ええのう……その目……オールフォーワンにもそう言うたんじゃろう。聞いとるよ」

 

 眼鏡の奥の目が、顔の上をゆっくりと這っていく。額から眉へ、眉から目へ、値札を探すような動き方で。

 

「ふむ……君は"個性"を下に置いとるな。あのお方ご本人ではなく」

 

 答えない。答えなかったことが、そのまま答えだ。

 

「ほっほ、正解か……そうじゃろうな。あのお方ご本人を下に置くには……認識される為の名前が要る……君の個性はそういうもんじゃろう?」

 

 殻木は立ち上がって、膝の埃を払う。

 

「本当の名を知っとる者は、もうわしくらいしかおらんよ」

 

 冗談のような口ぶりで、笑いながら言うから、誰も気に留めない。

 

 その一行を棚に入れて、閉じなかった。

 

 殻木の手がもう一度こちらへ伸びかけたところで、白い手袋が割って入る。クラウディオが半歩だけ間に入っていた。何も言わず、ただそこに立つだけだ。

 

 伸ばしかけた手を、殻木はそのまま引っ込めて、かわりにクラウディオの肩越しに、マグネの吊った左腕の、包帯の下の縫い目のあたりに目を移す。

 

「……ほう」

 

 老人の声色が、わずかに変わっていく。

 

「その肩……誰が縫った」

 

「……私です」

 

「見事な処置じゃ。糸の運びに迷いがない、どこで覚えた」

 

「昔のことです」

 

 それだけ言って頭を下げても、クラウディオの足は一歩も退かない。

 

 殻木はしばらく、その執事から目を離さない。医者が医者を見る目で、職人が他所の職人の道具を見る目でもあった。

 

「ほっほ……あの方はいい拾い物をしたもんじゃ。いや、拾ったのはあの方じゃなかったかの」

 

---

 

 地下は病院の匂いがしない。

 

 消毒液でも薬でもなく、もっと甘くて重い、水槽の底に溜まった水の匂いだ。長い通路の両側に円筒の槽がずらりと並んで、緑がかった液体の中に一体ずつ何かが浮いている。

 

 人の形だ。

 

 神野で見た脳無とは違って、剥き出しの脳はあっても体つきは人に近い。筋肉の付き方も、手の指の数も、目を閉じた寝顔も。

 

「おおー!すっげぇなんだこいつ。寝てんのか?起きてんのか?」

 

 トゥワイスが一つの槽に顔を近づけて、指でガラスをこつこつと叩く。

 

 中の脳無が、目を開ける。

 

「……触るな」

 

 喋った。

 

 トゥワイスは五メートル後ろに飛び退いてスピナーにぶつかり、二人まとめて床に転がった。

 

「喋ったぁ!?喋ってねぇ!?喋ったぁ!!」

 

「ハイエンド脳無じゃ。考えるし喋る。ちゃんと礼儀も教えとる……完成形の脳無と言ったところじゃな」

 

「今の礼儀か!?」

 

「ねえねえ!お医者さん!」

 

 トガは槽のガラスに頬をくっつけたままだ。

 

「この子たちの血って、おいしい?」

 

「ほう、いい質問じゃ。成分で言えばじゃな――」

 

「答えなくていいわよ!気持ち悪い」

 

 マグネの声が割り込む。

 

 そのあいだも、アルテミスは並んだ槽を端から数えている。

 

「一体あたりの原価は」

 

 殻木が振り返って、眼鏡の奥の目がぱっと輝く。

 

「ほう!話のわかる子じゃ。どれ、そこの個体で言うとじゃな」

 

 老人が指を折って数えだす。

 

「素体が一人。個性の提供者が四人。調整の途中で潰れたのが、確か十一人じゃったか。いや十二人か。安定するまでが長くてのう」

 

 片手の指が全部折れて、もう片方の手に移って、そっちも折れて、それでも老人は、楽しそうに数え続けているのだ。

 

 金の話が返ってくると思って訊いた。返ってきたのは人数で、それが両手で足りない。

 

 十七人。この槽一つに。

 

 槽は通路の奥まで続く。

 

 そこから先は、数えなかった。

 

 隣では荼毘が、一つの槽を見上げているところだ。中の脳無は他のものより一回り大きく、背中に何か畳まれたような影が浮かぶ。

 

「……こいつ……一体貸せ」

 

「何に使うんじゃ」

 

「試したい奴がいる」

 

 誰をとは言わない。

 

 荼毘の横顔を窺う。この男の打算だけはいつも読めない。金でも組織でもなく、どこか一か所だけに向いているのはわかるのに、その先が見えない。燃え残った釘の先みたいに、そこだけが尖っている。

 

---

 

 殻木の要求は単純なものだった。

 

「ここに置いてやる。飯も出す。怪我も診る。移動もあの泥で面倒をみる、そのかわり」

 

 老人が槽の列を指す。

 

「こいつらの調整に付き合ってもらう。動いとる相手と戦わせんと、数字が取れんのじゃ」

 

 誰も値切れない。居場所がなく、金もなく、断る材料が一つもない。

 

 アルテミスが前に出る。

 

「条件を詰める」

 

「ほう」

 

「協力の範囲は模擬戦のみ。こちらの誰かが死ぬ強度は出さない。負傷はそちらが治療する。期間は死柄木の試験が終わるまで。見返りは今言ったものに加えて情報。外の動きをこちらにも回すこと」

 

 殻木はうんうんと頷きながら聞くばかりだ。

 

「それから……もう一つ」

 

 老人の眼鏡を、真っ直ぐに見る。

 

「俺を調べないことだ。血も髪も爪も。それを条件に入れる」

 

「かまわんよ」

 

 即答で、少しだけ眉が寄る。

 

「……随分あっさりしている」

 

「急ぐ理由がないからのう」

 

 殻木の顔は、にこにこと笑ったままだ。

 

 神野で同じように笑う男と契約を結んだことがある。あの男も、急ぐ理由がないという顔をしていた。

 

---

 

 夜になって、殻木が白い部屋に椅子を一つ運んできた。

 

「さて……弔」

 

 死柄木は壁にもたれて床に座っている。連合の連中はそれぞれ好きな場所に散らばって、聞いていないふりだ。

 

「マキアはのう……強さしか認めん。わしが命じたところで、あれは君を主とは呼ばんよ」

 

「……知ってる。弱すぎるんだろ、言われたよ」

 

「根に持っとるのう」

 

 老人は膝の上で指を組む。

 

「じゃから条件は一つじゃ……力でマキアを屈服させてみせい。わしは手を出さん。あれが自分から膝を折るまで、遠くから見とるだけじゃ」

 

「見返りは」

 

 アルテミスが言うと、殻木は嬉しそうに目を細める。

 

「話のわかる子じゃ……弔がマキアを掌中に収めたら、わしの研究の全てをくれてやろう。個性も脳無も、何十年分を丸ごとじゃ。君が望む破壊に耐えうる体を、その手にやろう」

 

 死柄木は返事をしない。

 

「……先生んとこ来る前のことは、穴だらけでな」

 

 誰に言ったのかはわからない。

 

「こいつら着けてると気持ち悪くて仕方ねえのに……外すと眠れねえ」

 

 指が、顔の手の指を一本なぞる。

 

「覚えてねえのに……腹の底に重てえのがずっと沈んでる。そっから湧いてくんだよ際限なく。ヒーローが消えても……裏で一番になっても……たぶん減らねえ。何やっても腹が晴れねえ」

 

 殻木は黙って耳を傾けるだけだ。眼鏡の奥の目が、槽の前で人数を数えたときと同じ色だ。

 

「好きなもんが一個も思いつかねえ。息してるもん見てるだけで、首が痒くなる」

 

 トゥワイスが寝転んだまま天井を見ていて、スピナーが刀の鍔をいじる手を止めて、マグネは吊った腕を抱えたまま何も言わない。

 

「じゃあもう壊そう……一旦全部……!」

 

 全部。

 

 アルテミスはその言葉を棚に入れて、閉じなかった。

 

「全部が更地になったら、さぞ見晴らしがいいだろうな」

 

 どうでもよさそうな声のあとで、死柄木が顔を上げる。

 

「だからドクター……あんたも乗れ」

 

 そっちだけは低い。

 

「どこまで壊れるか、一番前で見せてやる」

 

 殻木は長いあいだ黙っていて、やがて肩が震えだす。

 

「ええのう……!ええのう弔」

 

---

 

 班分けは、その夜のうちに決まった。

 

「マキアのとこには……勿論俺が行く、俺が次の主になってやるよ」

 

 死柄木が言う。

 

「コンプレスとトゥワイスも来い……マグネは肩が治ってからだ」

 

「なんでよ……あたし行けるわよ」

 

「二回先走った奴を連れてくか」

 

「……っ」

 

 マグネがこっちを睨んでから、目を逸らす。

 

「俺も行く」

 

 スピナーが言う。

 

「お前は留守番だ」

 

「なんでだよ」

 

「……留守番、頼む」

 

 二度目は少しだけ声が低くて、スピナーは何か言いかけてやめ、それ以上は何も言わない。

 

「ハイエンドの相手は……荼毘」

 

「ああ」

 

「それと――」

 

「俺が行く」

 

 アルテミスが言う。

 

「取引をしたのは俺だ……裏方は俺がやる」

 

 死柄木は少し黙って、首を掻く。

 

「……好きにしろ」

 

 半歩後ろに立っている男のほうを向く。

 

「クラウディオ」

 

「はい」

 

「お前は、生活のほうに回れ」

 

 クラウディオの呼吸が、ほんの一拍だけ止まる。九年、この男に「そばを離れろ」と言ったことは一度もない。

 

「……坊ちゃんは」

 

「裏方だ。荼毘と組む」

 

「……かしこまりました」

 

「やったー!執事さんと一緒ー!」

 

 トガが両手を上げる。

 

「俺もいるけどな……」

 

 スピナーがぼそりと言う。

 

---

 

 翌朝、案内の脳無の口の縫い目がほどける。

 

「ちょっと待って、またあれ!?またあれかよ!?香水だな!!ヘドロだよ!!」

 

 トゥワイスの悲鳴ごと、黒いものがマキア班を呑み込んで消える。

 

 白い部屋が急に広くなる。

 

 数える……荼毘、マグネ、トガ、スピナー、クラウディオ。自分を入れて、六人。

 

 減った数を数えるのは、初めてではない。

 

 戻ってくる数を数えるのは、初めてだった。

 

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