地下の一番奥には白い部屋がある。
床も壁も天井も焦げ跡だらけで、何度も焼かれて何度も塗り直されて、それでも消えきらない黒い染みがそこらじゅうに散らばる。
「ほれ……次じゃ」
殻木が手元の端末を叩くと壁の一部が開いて、大きめの脳無が一体、歩いて出てくる。
荼毘がポケットから手を出した瞬間、青い炎が部屋の半分を呑み込んだ。
脳無は焼けながらも、前へ進む。皮膚が焦げて剥がれて、その下から新しい皮膚が盛り上がって、三歩目にはもう焦げ跡が消えた。
「……しぶといな、名前負けしてねぇ」
「そうじゃろう」
殻木は嬉しそうに言葉を継ぐ。
「今までの脳無は命令がなけりゃ動けん人形じゃった……ハイエンドは違う、考えるし覚える。同じ火を二度食らったら、二度目は避け方を工夫する。そのための数字を今取っとるんじゃ」
殻木の隣で帳面を開いて、一つずつ書き留めていく。
一体目が照射四秒、再生三秒弱。踏み込み二歩目で加速、左に半歩。二体目は照射三秒、一体目の避け方を真似て左に一歩、そこに火を置かれて丸焼け、再生六秒。三体目、照射二秒、今度は右。
覚えている……一体目が覚えたことを、二体目も三体目も知っているのだ。帳面の上では、ハイエンドが一行ごとに賢くなっていく。
その横にもう一行書きかける。
荼毘、右手甲、縫い目から発煙。
焼いているのは相手だけではない。炎を出すたびにこの男の体も少しずつ焦げていて、三体目を焼き終えるころには首筋の皮膚まで黒ずんでいた。二行目を書こうとして、ペン先が止まった。ハイエンドの数字は殻木に渡す。この数字は、誰に渡すのかがわからない。
書きかけの一行の上に、線を一本引いた。
休憩のあいだに言う。
「その火は……自分も焼いてるだろう」
壁にもたれたまま、荼毘が返す。
「……だから何だ」
「損な使い方だ。一体焼くごとに、お前の皮膚が一割ずつ焦げてる。十体で全身だ」
「数えてんじゃねえよ」
「数えるのが仕事だ」
「なら俺は数えんな」
「それは無理だ」
そう返すと、荼毘は少しだけ鼻で笑う。それで終わりで、それでも帳面は閉じない。
「この前……一体貸せと言っていた」
「ああ」
「何に使う」
荼毘はしばらく黙って、部屋の隅の焦げた壁の染みを見つめて動かない。
「……ちょっと、挨拶にな」
誰にとは言わない。
人が何かを欲しがるとき、その先には必ず何かがある。金か、地位か、安全か、誰かの席か。先を読めば相手の値段がわかって、九年そうやってきた。この男の欲しいものがどこか一か所にだけ向いていることはわかるのに、その一か所がどうしても見えない。
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「おい!トガ!戻れって!」
スピナーは上の階の廊下を全力で走っている。
前を走っているのは看護師で、正確には看護師の白衣を着たトガだ。洗濯室から勝手に持ってきたらしく、帽子まできちんとかぶってマスクもつけているのに、走り方だけが両手を後ろに引いたいつもの危険なフォームで、どう見ても看護師ではない。
「大丈夫だってー!顔隠してるもん!」
「そういう問題じゃねぇ!お前顔割れてんだぞ!」
「だからマスクしてるの!」
「だからそういう問題じゃねぇって!バレる基準は顔のパーツだけじゃねえんだよ!」
「スピナーくんだってマスクしてるじゃないですか!」
言われて、自分の顔に手をやる。出がけに執事に渡された病院の白いマスクは、トカゲの鼻先の半分くらいまでしか届いていない。
「これは……これは違うだろ!俺は隠れてねえし!」
「じゃあなんでしてるんですか!」
「渡されたからだよ!」
すれ違った本物の看護師が、二人を見て深くため息をついてから、何も見なかったことにして通り過ぎていく。この病院の職員は、たぶんそういう高度なスルー技術の教育を受けているのだろう。
トガが廊下の突き当たりの扉に飛び込む。扉の札は、血液保管庫だ。
「あった!あったよスピナーくん!」
「あったよじゃねぇ!」
息を切らせて扉に手をかけたところで、中からうっとりとした幸せそうな声が聞こえてきた。
「わぁ……いっぱい……いろんな色……」
「色は全部赤だろ!成分表を見るな!」
「ちがいます!ぜんぜんちがいます!A型はちょっと澄んでて、O型は元気な味がするんです!」
スピナーは頭を抱えるしかない。
そもそもなぜ自分がこいつの見張りなのか。朝、クラウディオに「トガ様をよろしくお願いいたします」と、修学旅行の班長を任せるような真剣な目で頭を下げられて、断る隙がなかった。
「……なんで俺なんだよ……トカゲは血が冷たいからかよ」
保管庫の中で、トガが輸血パックを三つ、戦利品の果物みたいに大事そうに抱えて振り返る。
「スピナーくんも飲む?」
「飲まねぇよ!腹壊すわ!」
そのとき、背後で静かな……それでいて妙に威圧感のある声が響く。
「失礼いたします」
クラウディオだ。いつ来たのか、足音は一つもしていない。
眉一つ動かさずに保管庫に入った執事は、トガの腕から輸血パックを「お預かりします」と手際よく受け取って、元の棚に元の向きで一つずつ戻していく。バーコードの向きまで完璧だ。
「えー!ちょっとくらいいいのに」
「スピナー様の困ったお顔は、もう十分ご覧になったかと」
「……ばれちゃった」
「トガ様。お昼は、トマトの煮込みでございます」
「……赤い?」
「大変赤うございます。三割増しの赤さとなっております」
「じゃあいいや」
トガはあっさり保管庫を出ていく。基準がよくわからない。
スピナーは呆然と、クラウディオを見つめるばかりだ。
「……あんた、それで釣れるって知ってたのか」
「知る……というよりは……慣れでございます」
保管庫の扉を閉めた執事は、廊下の向こうからよぼよぼとやってきた殻木に、直角の完璧な角度で頭を下げる。
「大変、失礼をいたしました」
「ほっほ……元気でええのう。若い血液は活気があってよろしい」
殻木は何も咎めない。
この老人の底の知れなさが一番怖いと、スピナーは思った。
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病棟の屋上で、マグネが磁石を振っている。
左腕はまだ吊ったままで、右腕一本で。鉄の塊が豪快に風を切って、振り下ろして、止めて、また振りかぶるたびに、吊った左肩が小さく引きつる。
「縫い目が開くぞい」
様子を見に来た殻木が、呆れたように言う。
「開いたら、また執事さんに縫ってもらうわよ。あの人、裁縫もプロ並みだし」
「あの男も暇じゃなかろうに」
「知ってるわよ」
マグネは重い磁石を肩に担いで、荒い息を吐く。
「二回も先走ったのよ、あたし……治崎とあのデカブツと」
「ふむ」
「三回目はねぇ……先走りたくないの。ちゃんと弔ちゃんの隣に立ってたいのよ。弔ちゃん、あたしらがいないとすぐボロ雑巾みたいになっちゃうから」
殻木は少しのあいだ黙り込む。
「……なら、なおさら今は休むことじゃな。医者の言うことは聞くもんじゃ」
「……わかってるわよ」
マグネはもう一度だけ磁石を振る。
今度は左肩は引きつらない。
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夜、部屋の扉を叩く音が二度……正確なリズムだ。
「失礼いたします」
クラウディオが盆に載せて持ってきた湯呑みの中身は白湯だ。帳面から顔は上げない。
「本日の報告を、よろしいでしょうか」
「……ああ」
「トガ様が午前中に血液保管庫へ一度。スピナー様が同行されました。損失はございません。昼食は完食。午後はスピナー様が廊下で二度、派手に転ばれました」
「二度」
「一度目はトガ様を追って。二度目はトガ様に追われて」
手が、ぴたりと止まる。
「……なぜ追われている」
「スピナー様の血が、爬虫類の味がするかどうか、一度ストローで確かめさせろと」
「………………」
「お断りになりました。マグネ様は屋上で磁石の素振りを四十二回。殻木様に止められて、四十三回目で終了されました」
「止められてから一回振ったのか」
「左様でございます」
「……らしいな」
「夕食後はトガ様とマグネ様とで、トランプのスピードをなさいました。スピナー様が三度負けて、四度目は勝負の前に負けを認められて、現在部屋の隅で落ち込んでおいでです」
「四度目は」
「戦わずして、でございます」
帳面は閉じない。ペンを置いたまま、続きを待っている。
今日一日、この男は朝から晩まで隣にいなかった。その一日のことを、スピナーの哀れな敗北数まで正確に、今一つも漏らさずに並べている。
報告を止める理由はない。
止めたくない、と思っている自分に少しだけ遅れて気づく。
「以上でございます」
「……そうか」
取った湯呑みはぬるい。報告がいつもより長かった分だけ冷めたのだ。
開いたままの扉を、誰かが節くれ立った指でこんこんと叩く。
荼毘だった。手にしたスマートフォンの画面が、まだ不気味に白く光っている。
「……No.2から連絡が来た」
湯呑みをそっと置く。
「ホークスか」
「ほかに誰がいんだよ」
荼毘は部屋に入ってこないで、扉の枠にもたれたまま画面をこっちに投げてよこす。受け止めた端末の画面には、短い文が一行だけ表示されていた。
――会って話したい……二人で。
「二人で……と書いてある」
「書いてあるな」
「お前とホークスの二人だ」
「そうとも読めるな」
画面に目を落とす。送信時刻は23:41、句読点は一つだけで、絵文字もない。テレビの中のあの男は、いつももっと軽い喋り方だ。
「No.2のヒーローが、指名手配犯に直接連絡してくる理由は三つある」
指を一本立てる。
「罠……お前を呼び出して、場所を押さえて、待ち伏せる」
二本目。
「探り……こっちの人数と居場所と金の出どころを、内側から見に来る」
三本目。
「本気……何かの理由で、本当にこっちに来たがっている」
「どれだ」
「全部だ」
荼毘の眉が動く。
「一つだけの理由で、No.2が自分の名前の付いた端末から連絡はしてこない……三つ全部が少しずつ混ざってる。どれが一番重いかは、顔を見ないとわからない」
「だから面白えんだろ」
荼毘が口元を歪めた。
「お前も来るか?面白いもんが見られるぜ」
「なぜ俺を連れていく……二人でと書いてある」
「俺が二人でって返事したわけじゃねえ」
荼毘は扉の枠から背中を離す。
「それに、お前の目は嘘を見るだろ」
少しのあいだ端末の白い画面を見ていた。たった一行の、句読点が一つだけの文。この一行の向こうで、あの赤い翼の男がどんな顔をして送信を押したのかはまだわからない。
わからないものは、見に行けばいい。
「行く」
迷わずに立ち上がって、端末を荼毘に投げ返す。
背中のほうで、クラウディオが盆を置く小さな音がした。何も言わないまま、壁に掛けてあった黒いコートを取って、肩に掛けられるように広げて待っている。
白湯はもう冷めきっていた。