山に来てもう何日も経つ。
首が痒い。
死柄木は倒木に背中を預けて、左手の四本の指で首筋を掻く。肋のあたりが、息を吸うたびに軋む。昨日のが治りきらないうちに、今日のが重なっているのだ。
斜面の上で巨体が寝返りを打つ。
マキアは戦って寝る。起きたらまた戦う。ほとんど何も食べない。それだけを毎日繰り返して、疲れた様子が一度もない。こっちが一発入れるあいだに、向こうは十発入れてくる。入れた一発も翌朝にはもう塞がって跡もない。
レベルが違う。
わかりきっていることを、毎朝もう一度わからされるのだ。
「死柄木!起きてる?起きてねぇ?起きてるよな!」
岩陰からトゥワイスの顔だけが覗く。
ここ数日トゥワイスは一度も殴られていない。殴られないように、ずっと逃げているのだ。拳が来れば転がり、蹴りが来れば木に飛びつき、巨体が近づけば斜面の反対側まで走っていく。
逃げ足だけなら、連合で一番速い。
死柄木は……それを責める気にはならない。
あいつは自分が本物かどうかわからない。大怪我をして、もし体が泥になって溶けたら、自分は本物じゃなかったことになる。それを確かめるのが、何より怖いのだろう。
だから当たらない。たぶん、当たれないのだ。
「起きてる」
「よかった!よくねぇ!今日も来るぞあいつ!」
「知ってる」
少し離れたところで、コンプレスが帽子を直している。
両腕で。
器用な男だ。ビー玉に食料を詰めて運び、倒れた木を小さくして退路を作って、マキアの足元に手品の煙を焚いて視界を奪う。どれも見事だ。
ただ、どれも巨体には届かない。煙は一息で散らされ、退路は一歩で踏み潰されて終わりだ。
「なるほど」
コンプレスは、自分の手のひらに目を落とす。
「どうにも、俺は役に立たないらしい……演者泣かせにも程があるね……なんて不条理な役者だろう」
---
翌日の昼、案内の脳無の口の縫い目がほどけた。
黒いものが吐き出されて、中から二人が転がり出す。
「くっさ!ちょっと、何回乗ってもくさいわねこれ!」
マグネだ。左腕はもう吊られていない。
「お待たせいたしました」
もう一人はクラウディオだ。背中に風呂敷包みを三つ背負っていて、一つは人がひとり入りそうなほど大きい。
「……なんだそれ」
「昼食でございます」
「多すぎんだろ」
「皆様の分と、あちらの方の分です」
クラウディオが、斜面の上で寝ている巨体のほうへ視線を移す。
死柄木は、しばらく黙り込む。
「まじかよ……あれに……食わせんのか」
「彼、ほとんど食べなくても動ける体らしいんだがね」
コンプレスが言う。山に来てから、巨体が何かを口にしたのを誰も見ていない。
「生活面を仰せつかっておりますので」
執事が一番大きな包みを解く。握り飯が山になっていて、一つ一つが人の頭ほどの大きさだ。
それを両腕に抱えて、斜面を登っていく。
眠っていたマキアの鼻が動いた。瞼が上がる。濁った目が、執事と、執事の腕の中の握り飯へと動く。
執事は巨体の鼻先で、深く頭を下げた。
「失礼いたします。昼食をお持ちいたしました」
マキアはしばらく、執事を見下ろしたまま動かない。
それから握り飯を一つ指でつまんで、口に放り込む。
もう一つ。もう一つ。
「……うまい」
「恐れ入ります。お口に合いましたでしょうか」
「……もっと」
「ただいま」
トゥワイスが、岩陰で口を開けたまま固まっている。
「……あいつ……手懐けてねぇ?手懐けてるよな!?」
「いやはや」
コンプレスが帽子を深くかぶり直す。
「要らないはずのものを平らげさせるとはね……まるで悪魔の所業だ」
「いえ」
クラウディオは袖口を直して、頭を下げる。
「あくまで、執事でございます」
---
昼過ぎには戦いが再開した。
マグネが加わって流れが変わる。
マキアの拳が死柄木の頭上を襲う。その寸前、死柄木の体が真横に引っぱられた。拳は地面だけを砕く。
「弔ちゃん!右!」
マグネの磁石の唸りが耳を打つ。極性を乗せた相手を自分のほうへ引き寄せて、拳の軌道から外す。次は逆に、反発で弾き飛ばして距離を取らせるのだ。
蹴りがトゥワイスに向かう。トゥワイスが転がるより早く、体ごと斜面の上へ弾き上げられた。
「うおおおお飛んでる!?飛んでねぇ!!飛んでる!!」
「黙って飛んでなさい!」
マグネ自身も、鉄の塊を振り回して前に出る。マキアの脛を、正面から叩く。巨体が、わずかに揺らいだ。
山に来てから、初めてのことだ。
死柄木は口の端の血を拭う。
使える。
あいつがいると、盤面が変わる。夕方はマキアの動きが変わった。
他の誰にも目をくれずに、死柄木だけを睨む。試しているのは、最初から一人だけだ。わかっていたことだった。
拳が振りかぶられる。
「おっと!それはいただけないね」
コンプレスが死柄木の横に飛び出す。手のひらに、ビー玉が一つ。圧縮しておいた倒木を、巨体の顔の前で解き放つつもりなのだろう。
届かなかった。
ビー玉が弾けるより早く、拳が降りてくる。死柄木を狙った拳の、その軌道の真ん中にコンプレスが立っている。
「コンプレス!」
マグネは斜面の反対側で、トゥワイスを引き寄せている最中だ。磁力の届く距離の外だ。
死柄木は考えなかった。
左手でコンプレスの襟を掴む。四本の指で。崩さないように。そのまま、自分の後ろへ引き倒した。
右手の指は、五本とも開いている。
右手の五本の指が、落ちてきた拳の関節に触れた。皮膚が崩れて、マキアの拳がわずかに逸れていく。それでも死柄木は衝撃に弾かれて、地面を転がった。肋の奥で骨が鳴る。
マキアが拳を引く。
崩れたところが、見ている間に塞がっていく。
巨体の目が、死柄木を見下ろす。
それから、死柄木の左手を見た。まだコンプレスの襟を掴んだままの、四本の指を。
しばらく、そこから目を離さない。
「……弱い」
マキアはそう言って背を向け、斜面の上へ戻っていく。寝床の苔の上に、どさりと横になった。
今日はそれで終わりだ。
---
夜、焚き火のそばで、クラウディオが死柄木の肋に添え木を当てている。
手には手袋がない。手の甲の古い傷は誰も見なかったことにした。
「恐らく二本……折れております」
「……だろうな」
「しばらく、戦いはお控えください」
「控えねぇ……控えたらあいつは認めねぇ」
執事は何も言わずに、包帯を巻く。
焚き火の向こうで、コンプレスが帽子を膝の上に置いて座っている。いつもの芝居がかった顔が、今夜は少しだけ崩れていた。
「……座長が団員を庇ってどうするんだい」
死柄木は首を掻こうとして、肋に響いて手を下ろす。
「お前が勝手に前へ出るからだろ」
「出なければ、君が潰されていた」
「だからって間に入るな」
「君も同じことをしたじゃないか」
「俺はいいんだよ」
「それは随分と勝手な話だね」
死柄木は答えない。
コンプレスは、帽子の縁を指でなぞる。
「……肋は?」
「折れてる」
「聞かなくてもわかるさ」
「なら聞くな」
「君が答えるからだろう」
コンプレスは軽く笑う。いつもの調子だが、笑い終わるのが少し早い。
死柄木は、焚き火の向こうを窺う。コンプレスの左腕は、まだわずかに震えている。本人は、帽子を持ち替えたせいにするつもりらしい。
「お前の腕は」
「私の腕がどうしたんだい」
「さっき、動きが遅かった」
「君の目が悪いんじゃないか?」
「そうかもな」
死柄木はそれ以上、追及しない。
コンプレスも死柄木の肋に視線を落としたまま、何も言わない。
「……座長が団員を庇ってどうするんだい」
同じ言葉を、今度は少し低い声で繰り返す。
「俺は壊れるだけだ」
コンプレスの指が止まった。
「……そういう言い方は、やめたほうがいい」
「何が」
「聞いているこちらが困る」
「困るなら……次から前に出るな」
「それは……君もだろう」
死柄木は首を掻こうとして、今度は途中でやめておく。
コンプレスはそれを見ている。見ていないふりをして、帽子を膝の上で整える。
「参ったね、観客のつもりでいたのに、いつの間にか舞台に上げられていた」
「最初から団員だろ、お前は」
コンプレスが顔を上げる。
死柄木の目は、焚き火から動かない。左手には、まだコンプレスの襟を掴んだ感触が残っている。四本の指で引いた。右手は五本で、マキアに触れた。
どちらも、とっさに動いた手だ。
けれど、左手に残った布は崩れていない。
「……次は、手品をもう少し早く出せ」
「君こそ……もう少し早く逃げたまえ」
「逃げたらお前が死ぬだろ」
言ってから、死柄木は口をつぐむ。
コンプレスも、すぐには返さない。
「……それは私の台詞だよ」
帽子を胸に当てる。いつもの芝居がかった仕草だ。けれど、手はしばらく下りない。
「善処するよ座長」
「信用できねぇ」
「お互い様だね」
少し離れたところで、クラウディオが包帯の残りを巻き取っている。何も聞かなかった顔で、道具を箱に戻していく。
死柄木はもう一度だけ左手を開く。
指の間に残っていた襟の布をコンプレスが見ている。
目が合うと、コンプレスは何も言わずに帽子をかぶった。
死柄木も手を下ろす。
その夜から、コンプレスは死柄木の左側に座るようになった。
某執事漫画へのリスペクトを込めて
あくまで、執事ですから