カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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41話 左側

 

 

 山に来てもう何日も経つ。

 

 首が痒い。

 

 死柄木は倒木に背中を預けて、左手の四本の指で首筋を掻く。肋のあたりが、息を吸うたびに軋む。昨日のが治りきらないうちに、今日のが重なっているのだ。

 

 斜面の上で巨体が寝返りを打つ。

 

 マキアは戦って寝る。起きたらまた戦う。ほとんど何も食べない。それだけを毎日繰り返して、疲れた様子が一度もない。こっちが一発入れるあいだに、向こうは十発入れてくる。入れた一発も翌朝にはもう塞がって跡もない。

 

 レベルが違う。

 

 わかりきっていることを、毎朝もう一度わからされるのだ。

 

「死柄木!起きてる?起きてねぇ?起きてるよな!」

 

 岩陰からトゥワイスの顔だけが覗く。

 

 ここ数日トゥワイスは一度も殴られていない。殴られないように、ずっと逃げているのだ。拳が来れば転がり、蹴りが来れば木に飛びつき、巨体が近づけば斜面の反対側まで走っていく。

 

 逃げ足だけなら、連合で一番速い。

 

 死柄木は……それを責める気にはならない。

 

 あいつは自分が本物かどうかわからない。大怪我をして、もし体が泥になって溶けたら、自分は本物じゃなかったことになる。それを確かめるのが、何より怖いのだろう。

 

 だから当たらない。たぶん、当たれないのだ。

 

「起きてる」

 

「よかった!よくねぇ!今日も来るぞあいつ!」

 

「知ってる」

 

 少し離れたところで、コンプレスが帽子を直している。

 

 両腕で。

 

 器用な男だ。ビー玉に食料を詰めて運び、倒れた木を小さくして退路を作って、マキアの足元に手品の煙を焚いて視界を奪う。どれも見事だ。

 

 ただ、どれも巨体には届かない。煙は一息で散らされ、退路は一歩で踏み潰されて終わりだ。

 

「なるほど」

 

 コンプレスは、自分の手のひらに目を落とす。

 

「どうにも、俺は役に立たないらしい……演者泣かせにも程があるね……なんて不条理な役者だろう」

 

---

 

 翌日の昼、案内の脳無の口の縫い目がほどけた。

 

 黒いものが吐き出されて、中から二人が転がり出す。

 

「くっさ!ちょっと、何回乗ってもくさいわねこれ!」

 

 マグネだ。左腕はもう吊られていない。

 

「お待たせいたしました」

 

 もう一人はクラウディオだ。背中に風呂敷包みを三つ背負っていて、一つは人がひとり入りそうなほど大きい。

 

「……なんだそれ」

 

「昼食でございます」

 

「多すぎんだろ」

 

「皆様の分と、あちらの方の分です」

 

 クラウディオが、斜面の上で寝ている巨体のほうへ視線を移す。

 

 死柄木は、しばらく黙り込む。

 

「まじかよ……あれに……食わせんのか」

 

「彼、ほとんど食べなくても動ける体らしいんだがね」

 

 コンプレスが言う。山に来てから、巨体が何かを口にしたのを誰も見ていない。

 

「生活面を仰せつかっておりますので」

 

 執事が一番大きな包みを解く。握り飯が山になっていて、一つ一つが人の頭ほどの大きさだ。

 

 それを両腕に抱えて、斜面を登っていく。

 

 眠っていたマキアの鼻が動いた。瞼が上がる。濁った目が、執事と、執事の腕の中の握り飯へと動く。

 

 執事は巨体の鼻先で、深く頭を下げた。

 

「失礼いたします。昼食をお持ちいたしました」

 

 マキアはしばらく、執事を見下ろしたまま動かない。

 

 それから握り飯を一つ指でつまんで、口に放り込む。

 

 もう一つ。もう一つ。

 

「……うまい」

 

「恐れ入ります。お口に合いましたでしょうか」

 

「……もっと」

 

「ただいま」

 

 トゥワイスが、岩陰で口を開けたまま固まっている。

 

「……あいつ……手懐けてねぇ?手懐けてるよな!?」

 

「いやはや」

 

 コンプレスが帽子を深くかぶり直す。

 

「要らないはずのものを平らげさせるとはね……まるで悪魔の所業だ」

 

「いえ」

 

 クラウディオは袖口を直して、頭を下げる。

 

「あくまで、執事でございます」

 

---

 

 昼過ぎには戦いが再開した。

 

 マグネが加わって流れが変わる。

 

 マキアの拳が死柄木の頭上を襲う。その寸前、死柄木の体が真横に引っぱられた。拳は地面だけを砕く。

 

「弔ちゃん!右!」

 

 マグネの磁石の唸りが耳を打つ。極性を乗せた相手を自分のほうへ引き寄せて、拳の軌道から外す。次は逆に、反発で弾き飛ばして距離を取らせるのだ。

 

 蹴りがトゥワイスに向かう。トゥワイスが転がるより早く、体ごと斜面の上へ弾き上げられた。

 

「うおおおお飛んでる!?飛んでねぇ!!飛んでる!!」

 

「黙って飛んでなさい!」

 

 マグネ自身も、鉄の塊を振り回して前に出る。マキアの脛を、正面から叩く。巨体が、わずかに揺らいだ。

 

 山に来てから、初めてのことだ。

 

 死柄木は口の端の血を拭う。

 

 使える。

 

 あいつがいると、盤面が変わる。夕方はマキアの動きが変わった。

 

 他の誰にも目をくれずに、死柄木だけを睨む。試しているのは、最初から一人だけだ。わかっていたことだった。

 

 拳が振りかぶられる。

 

「おっと!それはいただけないね」

 

 コンプレスが死柄木の横に飛び出す。手のひらに、ビー玉が一つ。圧縮しておいた倒木を、巨体の顔の前で解き放つつもりなのだろう。

 

 届かなかった。

 

 ビー玉が弾けるより早く、拳が降りてくる。死柄木を狙った拳の、その軌道の真ん中にコンプレスが立っている。

 

「コンプレス!」

 

 マグネは斜面の反対側で、トゥワイスを引き寄せている最中だ。磁力の届く距離の外だ。

 

 死柄木は考えなかった。

 

 左手でコンプレスの襟を掴む。四本の指で。崩さないように。そのまま、自分の後ろへ引き倒した。

 

 右手の指は、五本とも開いている。

 

 右手の五本の指が、落ちてきた拳の関節に触れた。皮膚が崩れて、マキアの拳がわずかに逸れていく。それでも死柄木は衝撃に弾かれて、地面を転がった。肋の奥で骨が鳴る。

 

 マキアが拳を引く。

 

 崩れたところが、見ている間に塞がっていく。

 

 巨体の目が、死柄木を見下ろす。

 

 それから、死柄木の左手を見た。まだコンプレスの襟を掴んだままの、四本の指を。

 

 しばらく、そこから目を離さない。

 

「……弱い」

 

 マキアはそう言って背を向け、斜面の上へ戻っていく。寝床の苔の上に、どさりと横になった。

 

 今日はそれで終わりだ。

 

---

 

 夜、焚き火のそばで、クラウディオが死柄木の肋に添え木を当てている。

 

 手には手袋がない。手の甲の古い傷は誰も見なかったことにした。

 

「恐らく二本……折れております」

 

「……だろうな」

 

「しばらく、戦いはお控えください」

 

「控えねぇ……控えたらあいつは認めねぇ」

 

 執事は何も言わずに、包帯を巻く。

 

 焚き火の向こうで、コンプレスが帽子を膝の上に置いて座っている。いつもの芝居がかった顔が、今夜は少しだけ崩れていた。

 

「……座長が団員を庇ってどうするんだい」

 

 死柄木は首を掻こうとして、肋に響いて手を下ろす。

 

「お前が勝手に前へ出るからだろ」

 

「出なければ、君が潰されていた」

 

「だからって間に入るな」

 

「君も同じことをしたじゃないか」

 

「俺はいいんだよ」

 

「それは随分と勝手な話だね」

 

 死柄木は答えない。

 

 コンプレスは、帽子の縁を指でなぞる。

 

「……肋は?」

 

「折れてる」

 

「聞かなくてもわかるさ」

 

「なら聞くな」

 

「君が答えるからだろう」

 

 コンプレスは軽く笑う。いつもの調子だが、笑い終わるのが少し早い。

 

 死柄木は、焚き火の向こうを窺う。コンプレスの左腕は、まだわずかに震えている。本人は、帽子を持ち替えたせいにするつもりらしい。

 

「お前の腕は」

 

「私の腕がどうしたんだい」

 

「さっき、動きが遅かった」

 

「君の目が悪いんじゃないか?」

 

「そうかもな」

 

 死柄木はそれ以上、追及しない。

 

 コンプレスも死柄木の肋に視線を落としたまま、何も言わない。

 

「……座長が団員を庇ってどうするんだい」

 

 同じ言葉を、今度は少し低い声で繰り返す。

 

「俺は壊れるだけだ」

 

 コンプレスの指が止まった。

 

「……そういう言い方は、やめたほうがいい」

 

「何が」

 

「聞いているこちらが困る」

 

「困るなら……次から前に出るな」

 

「それは……君もだろう」

 

 死柄木は首を掻こうとして、今度は途中でやめておく。

 

 コンプレスはそれを見ている。見ていないふりをして、帽子を膝の上で整える。

 

「参ったね、観客のつもりでいたのに、いつの間にか舞台に上げられていた」

 

「最初から団員だろ、お前は」

 

 コンプレスが顔を上げる。

 

 死柄木の目は、焚き火から動かない。左手には、まだコンプレスの襟を掴んだ感触が残っている。四本の指で引いた。右手は五本で、マキアに触れた。

 

 どちらも、とっさに動いた手だ。

 

 けれど、左手に残った布は崩れていない。

 

「……次は、手品をもう少し早く出せ」

 

「君こそ……もう少し早く逃げたまえ」

 

「逃げたらお前が死ぬだろ」

 

 言ってから、死柄木は口をつぐむ。

 

 コンプレスも、すぐには返さない。

 

「……それは私の台詞だよ」

 

 帽子を胸に当てる。いつもの芝居がかった仕草だ。けれど、手はしばらく下りない。

 

「善処するよ座長」

 

「信用できねぇ」

 

「お互い様だね」

 

 少し離れたところで、クラウディオが包帯の残りを巻き取っている。何も聞かなかった顔で、道具を箱に戻していく。

 

 死柄木はもう一度だけ左手を開く。

 

 指の間に残っていた襟の布をコンプレスが見ている。

 

 目が合うと、コンプレスは何も言わずに帽子をかぶった。

 

 死柄木も手を下ろす。

 

 その夜から、コンプレスは死柄木の左側に座るようになった。

 




某執事漫画へのリスペクトを込めて

あくまで、執事ですから
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