福岡の空は低い。
夕方の雲がビルの屋上すれすれまで垂れ込めて重い。フードを目深にかぶって、給水塔の陰に膝をつく。下の大通りまで二百メートルはあるだろう。中継カメラの画角からは外れている。
隣で荼毘が胡座をかいている。
背後には案内の脳無が一体、壁と同化するように立つ。帰りの泥はこちらの合図一つで開く手はずだ。
膝に載せた帳面は二冊だ。首には双眼鏡を提げてきた。
一冊はドクターの分で、ハイエンドの数字を取るためだ。
もう一冊は荼毘に頼まれたものだ。
「応援のヒーローが着くまでの時間を測っとけ」
出がけに荼毘はそう言った。
「あいつが公安に漏らしてりゃ、応援は早く来る。普段の福岡の出動時間は調べてある」
「平均で十一分だな」
「……もう調べてんのかよ」
「裏方だからな」
下の大通りを、二人のヒーローが並んで歩いていく。
赤い翼の男と、炎をまとった大男。
ホークスとエンデヴァーだ。
---
それは空から落ちてきた。
アスファルトが砕けて土煙が上がる。その中から人の形をしたものが身を起こす。背中に畳まれた翼のような影。
病院の地下で、荼毘が「一体貸せ」と見上げていた槽の中身だ。個体名はフード。
帳面の一冊目を開いて時刻を書く。二冊目にも同じ時刻を書き込む。
ハイエンドが何か喋ったが、ここまでは届かない。エンデヴァーが炎を噴き上げ、ホークスが羽根を散らす。
通りにいた人間たちが、悲鳴を上げて逃げまどう。
ホークスの羽根がその一人一人を拾っていく。
赤い羽根が何百枚も通りに散っていく。逃げ遅れた老人の背中に、転んだ子どもの襟に、動けなくなった女の腕に。羽根が触れた人間から順に、ふわりと浮いて戦いの外へ運ばれていく。
一人も取りこぼしていない。
舞台を整えろと言われた男だ。ちゃんと戦わせろ、途中で邪魔が入らないように、と。
あの男はその通りに動いているのだ。戦いの範囲を絞って、市民を外に出して、ハイエンドとエンデヴァーだけが残るように。
そしてその整え方は、誰も死なないためのものだ。
屋上で測れなかったものがここでは見えた。本物の部分は確かに本物だ。
押されているのはエンデヴァーのほうだ。
一冊目の帳面に数字を書き込んでいく。ハイエンドの再生にかかった秒数。炎の色から推定した温度。拳の速さ。二度目に同じ炎を食らったとき、ハイエンドが体をずらした角度。
覚えているのだ。ドクターの言った通りだ。
エンデヴァーの炎が、少しずつ当たらなくなっていく。
それだけではない。
ハイエンドの拳が振りかぶられる。エンデヴァーなら避けられる軌道なのに、避けなかった。
背後の路地の入口に、羽根に拾われる寸前の男が一人、まだ立っていたからだ。
拳を正面から受けて、エンデヴァーの体がアスファルトを削る。
帳面の端に小さく印を刻む。避けられた一撃を避けていない。
二度目の印はその三分後についた。三度目はさらに二分後。
あの男のことは知っている。
商店街で、マキシミリアーノに届かなかったNo.1だ。民間人があの男の目の前で死んだ。
同じことを二度とさせない。
そういう動き方だ。守りすぎて削られていくのだ。
四度目の印をつけたとき、隣で荼毘が息を詰めた。
帳面から顔を上げる。
荼毘が身を乗り出す。
膝の上で握った拳の、指の隙間から青い火が漏れている。本人は気づいていないようだ。火は拳の中で揺れて、消えて、また滲む。
下の通りでエンデヴァーが膝をついた。
ハイエンドがゆっくりと近づいていく。
荼毘の腰が浮く。
横顔を見ていると、荼毘は立ち上がりかけて止まった。
そのままもう一度座り込む。拳を膝に押しつける。漏れていた火が、握りつぶされるように消えていく。
下では、ホークスが最後の市民を羽根で運び出し終えるところだ。そして翼を広げて、エンデヴァーの横に降り立つ。
自分の見ているものの意味を、考えずにいられない。
この男はヒーローを焼きたい男だ。
その男が、No.1が倒れないことを待っている。
あの雑居ビルの屋上で誰でもいいと言った。あれは嘘だった。「誰」は最初からあの炎の男だったのだ。それは今わかった。
でもなぜなのかがわからない。
焼きたいなら今が一番いい。相手は倒れかけだ。ハイエンドの拳があと一度落ちれば終わりだ。それを待っていればいい。
なのにこの男は倒れないことを待っている。
理由がどこにも見当たらない。
エンデヴァーが立ち上がる。
ホークスの羽根が、ハイエンドの足を縫いとめた。一瞬だけ動きが止まる。
その一瞬に、エンデヴァーはハイエンドの体を掴んで空へ跳んだ。
炎が雲に届く。
低い雲の底が真っ赤に燃える。夕方の福岡の空に、もう一つ太陽ができたようだ。
帳面に時刻を書いて、それからしばらく書くのを忘れていた。
炎の塊が、ゆっくりと降りていく。
燃え尽きたハイエンドと、それを抱えたまま、まだ燃えているNo.1。
大通りに着地して、エンデヴァーは片膝をついたまま拳を空に突き上げた。
遠くから歓声が湧く。
隣で荼毘の肩が一度だけ下がった。
長く止めていた息を吐いたときの下がり方だ。
応援のヒーローが大通りに着いたのは、それから数分後だ。
二冊目の帳面に目を落とす。ハイエンドが落ちてきた時刻から、十一分と少し。福岡の平均とほとんど変わらない。
「……で」
荼毘が立ち上がりながら言う。
「どうだった」
「応援が着いたのは十一分後だ。平均と変わらない。事前に呼んでいた形跡はない」
「合格か」
「数字の上ではな」
荼毘はこちらの顔を一度だけ見て、それから下の通りへ視線を戻す。
「挨拶に行ってくる」
「……撤収は合図してからだ。三分以内に戻れ」
「わかってる」
荼毘は屋上の縁から、非常階段のほうへ消えていく。
双眼鏡は覗かない。
覗けば荼毘の顔が見える。何を言っているかはわからなくても、どんな顔をしているかは見えてしまう。
見なかった。
かわりに、一冊目の帳面を閉じて膝の上で揃えておく。
下の通りで一瞬だけ青い火が上がった。
すぐに消える。
歓声がどよめきに変わった。
---
膝が、アスファルトから離れない。
エンデヴァーは突き上げた拳をゆっくりと下ろす。腕が重い。顔の左半分が焼けるように痛む。自分の炎ではない傷が体中にある。
歓声が耳に届く。
どこか遠くで、誰かが名前を呼ぶ。
羽根に運ばれていった者たち。路地の入口に残っていた男。転んだ子ども。動けなかった女。一人ずつ思い出せる限り。
今日この通りで死んだ者は。
いない。
あの商店街から、ずっと数え続けてきた数が今日だけは増えなかった。
「……おめでとう……!エンデヴァー……!」
声が煙の向こうから来た。
黒い外套の男だ。
継ぎ接ぎの皮膚。焼け爛れた首筋。ポケットに両手を入れたまま、燃え残った瓦礫を跨いで、ゆっくりと近づいてくる。
エンデヴァーは立とうとしたが、膝が言うことを聞かない。
「……何者だ」
「ファンだよ!」
男はエンデヴァーの五メートル手前で立ち止まった。
「いい炎だったな!ちゃんと勝ってくれて……助かった!」
「……ヴィラン連合の」
「覚えててくれて嬉しいなぁ」
男が笑う。
笑っているのに、目だけがまったく笑っていない。
「これから、もっと上に行けよ」
男が言う。
「オールマイトの次はエンデヴァー……みんなそう言う!今日みんなそう思った」
「……何が言いたい」
「上まで行け……」
男の指先に青い火が灯る。
「落ちるときは……高いほうがいいだろ」
エンデヴァーはその火を見ていた。
青い炎。自分の赤とは違う、温度の高い冷たい色の炎だ。
なぜか目が離せない。
赤い翼が二人のあいだに降りた。ホークスだ。エンデヴァーを背に男と向き合っている。
「エンデヴァーさん……動かないで」
「よお……No.2」
男が言う。
「今日はずいぶん頑張ったじゃねぇか……ナイスサポートだぜ」
ホークスは答えない。
大通りの向こうで市民を誘導していた応援のヒーローたちが、こちらに気づいて駆けだす。
荼毘が指先の火を消す。
「また会いに来る、死ぬんじゃねぇぞ」
背を向けて燃え残ったビルの陰へ歩いていく。
「追え!」
誰かが叫んだ。何人かが、男の消えた非常階段のほうへ駆けていく。
エンデヴァーは膝をついたまま、男の背中を見ていた。青い火の残像がまだ目の奥に残っている。
---
二分を過ぎたところで非常階段が鳴る。駆け上がってくる足音は一つではない。
先頭が荼毘。その下から、いくつもの足音と怒鳴り声が追ってくる。応援に着いたばかりのヒーローたちだ。
立ち上がって脳無のほうを振り向く。
「……半分だけ開けろ」
脳無の口の縫い目が少しだけ裂けた。
荼毘が屋上に飛び出してくる。手の甲の縫い目から煙が細く昇っていく。
「走れ!」
泥の縁まで十メートル。
階段口からヒーローが一人飛び出す。その後ろにもう二人。
計算する。
今泥を広げれば、あの三人まで届く。ヒーローを三人、病院まで連れて帰ることになる。広げるのを遅らせれば荼毘が捕まる。
どちらも帳簿に載せられない損だ。
「伏せろ」
荼毘が屋上に身を投げる。
その頭上を、赤い羽根が一枚、弾丸のように通り過ぎた。
羽根は荼毘の髪を一筋だけ切り落として、給水塔の鉄板に突き刺さる。甲高い音が響く。
追ってきたヒーローたちの足が、その音に一瞬だけ止まった。
外れた。
違う。外したのだ。
あの男の羽根が、伏せて止まった人間の頭を外すはずがない。
下の通りは見ない。見なくてもどこから撃たれたのかはわかる。捕まえようとしたように見せて、追っ手の足だけを止めたのだ。
その一瞬で距離が開く。
「今だ」
脳無の口が裂ける。黒いものが自分と荼毘の足元にだけ広がって、膝まで這い上がってきた。
給水塔に刺さった羽根が、夕方の風に揺れて止まない。
黒いものが視界を塗り潰した。
---
「……やっぱりくせぇ」
病院の白い床に転がり出て、荼毘が最初に言ったのがそれだ。
「おかえりー!荼毘くんちょっと焦げてません?」
トガが廊下の向こうから走ってくる。その後ろで、スピナーが「生きてた……」と壁にもたれて動かない。
クラウディオが立っていた。
出るときに見送った通用口のちょうど内側だ。いつからそこにいたのかは、訊かなくてもわかる気がする。
「おかえりなさいませ、お二人とも」
執事の目が、こちらを頭から足の先まで一度だけ往復する。袖、膝、手の甲、フードの縁。
「怪我はない」
訊かれる前に先に言っておく。
「……左様でございますか」
「過保護かよ」
荼毘が床に座り込んだまま言う。
「恐れ入ります」
クラウディオに持たされていた小さな缶を懐から出し、荼毘に放ってやる。
「……なんだこれ」
「火傷の薬だ。クラウディオが持たせた」
「いらねぇ」
そう言って荼毘は缶をポケットに押し込んだ。
「数字は!数字は取れたかの!」
白衣の老人が、廊下の奥から小走りでやってくる。眼鏡の奥の目が子どもみたいな輝きだ。
一冊目の帳面を差し出す。
殻木はそれを両手で受け取って、その場で頁をめくりだす。再生の秒数、炎の温度、二度目の炎を避けた角度。老人の口から、うんうんと唸るような声が漏れる。
「いい数字じゃ。実にいい」
何も言わない。
帳面の端を一筋だけ破り取ってある。避けなかった一撃の四つの印。
それだけは渡さなかった。