カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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42.5話 落とし物

 

 病院の屋上は風がよく通る。

 

 手すりに腰を引っかけて福岡の夜景を見下ろすホークスの真下、病棟の三階でNo.1が寝ている。顔の左半分を包帯で巻かれて、それでも見舞いに来た自分に「市民は」とだけ訊いて、死者はゼロですと答えたら、そうか、と言って目を閉じた。

 

 今日は誰も死ななかった。それは本当だ。

 

 自分の翼を一枚だけ抜いて指の間で回しながら、給水塔に刺さった羽根のことを考える。外したのは自分で、追っ手の足を止めて荼毘を泥に逃がした。あそこで捕まえていたら連合の中への道は二度と開かない。わかっていてやった。

 

 その屋上に、もう一人いた。

 

 給水塔の陰でフードを目深にかぶって、膝の上に帳面を二冊広げていた子ども。撃つ瞬間も一度もこっちを見なかったのに、どこから撃たれたかわかっている顔だった。

 

 アルテミス・エル・トローノ。十三歳。

 

 説得して保護まで誘導してください、力ずくは不可。会長の声が耳の奥に残っている。

 

 回していた羽根を止める。

 

 前に一度、挨拶のつもりで、居場所を掴んでおくつもりで、あの子の肩に羽根を一枚乗せようとしたことがある。羽根は触れる寸前で力を失って足元に落ちて、あの子はそれを拾って落とし物だと差し出してきた。

 

 触れない。

 

 速すぎる男が指一本ぶん手前で止められた。それが何なのかはまだわからないまま、あの子の顔だけを覚えている。

 

 ポケットの中で端末が震えた。

 

---

 

 呼び出されたのは港に近い倉庫の屋上だった。

 

 先に来ていた荼毘が縁に腰掛けて煙草を吸っていて、その隣に黒いコートの小さな影がフードをかぶって膝を抱えている。膝の上には、やっぱり帳面がある。

 

 その半歩後ろに背の高い男が立っている。黒い燕尾に白い手袋、長い黒髪を後ろで一つに結んだ執事が夜の倉庫の屋上に一人。場違いにもほどがあるのに立ち方だけは少しも浮いていなくて、主の後ろに立つ位置を体のほうが知っている立ち方だった。

 

 あれが例の執事か。報告書に一行だけあった、神野の映像であの子の隣にいた男。

 

「どうも……早いですね」

 

「お前が遅えんだよ」

 

 荼毘が煙を吐く。

 

「福岡の件な……こいつが言うには合格だとよ」

 

 帳面から顔を上げたあの子の灰色の目が、こっちを見てすぐに帳面に戻った。

 

「応援が着くまで十一分……平均と変わらない。事前に呼んだ形跡はない」

 

「そりゃどうも。採点されてたんだ、俺」

 

「ああ」

 

 短い答えに、悪びれる様子は少しもない。

 

「で、次だ」

 

 荼毘が言った。

 

「ベストジーニストを殺せ」

 

 風が止まった気がした。

 

 笑顔は崩さない。崩さないことには慣れていて、背中の羽根が一枚勝手に縮みそうになるのだけを押さえる。

 

「……それはまた、大物ね」

 

「No.4だろ。お前と同じ上のほうのヒーローだ。ヒーローがヒーローを殺したら……もう戻れねぇ。踏み絵ってのはそういうもんだ」

 

「福岡のは、踏み絵じゃなかったのかよ」

 

「あれは様子見だ」

 

 荼毘は笑った。

 

「こっちが本番」

 

---

 

「確認の方法から決める」

 

 あの子が帳面の新しい頁を開いて、ペンを走らせている。

 

「映像は不可だ、作れる。報道も不可。後から書き換えられる。死体で受け取る」

 

 ホークスはその横顔を見ている。

 

「受け渡しの場所はこちらで指定する。人目のない屋内。冷やす必要はない。顔で判別できる」

 

 帳簿の数字を読み上げているのと同じ、明日の食費を計算しているのとまったく同じ温度の淡々とした声。

 

「ベストジーニストの個性は繊維の操作だ。遠距離で糸を張られると、羽根が絡め取られる可能性がある。正面からは分が悪い。不意を打つなら、間合いの内側で……一撃で」

 

 ペン先が止まる。

 

「首か心臓……どちらでもいい。苦しませるかどうかは、確認には関係ない」

 

 人の殺し方の段取りを、十三歳が帳簿をつける手つきで組んでいる。

 

 喉まで出かかったものを笑顔の裏に押し戻す。ここで顔色を変えたら終わるから、変えるのはあとでいい。

 

「やけに詳しいね、金庫番くん」

 

 いつもの軽い声が出せたことに、自分で少しだけ寒くなる。

 

 顔を上げたあの子の灰色の目がまっすぐこっちを見て、褒められたのか探られたのかを測っているように少しだけ首を傾げた。

 

「……初めてじゃない」

 

 それだけ言って、また帳面に目を落とす。

 

 その後ろの執事は表情を変えていない。背筋も手袋の指先も少しも動かないまま、目だけが一度、主の頭から足元へ落ちて、そこで止まった。

 

 この男は知っている。あの子がいつ、どこで誰を相手に「初めて」を済ませたのかを知っていて何も言わないし、言わないことをたぶん自分に課している。

 

「続ける。できなかったらこの話はなかったことになる。なかったことになったら……お前は連合の外だ」

 

 何も言えなかった。

 

 隣で荼毘が煙草の灰を落とす。

 

「……聞いたな、じゃあさっさと仕事をしてこい」

 

 それだけ言ってまた煙を吐く荼毘の視線は夜の港に向いたままで、隣で帳面をめくる子どものほうを一度も見ない。見ないようにしているのか見る必要がないのか、ホークスにはわからなかった。

 

---

 

 話が終わって荼毘が立ち上がり、あの子も帳面を閉じて立ち上がる。

 

 ホークスは羽根を一枚抜いて、あの子の背中に向けてそっと流した。今度は居場所を掴むためではなく、ただ触れられるかどうかを確かめたかった。

 

 肩に届く前に白い手袋が動いて、細い光が一本夜の中を走る。糸が羽根の根元に絡んで宙で止めて、そのあいだも執事は主の背中を見たまま一度もこちらを振り返らない。糸がほどけると、羽根はあの子の肩の手前で力を失ってひらりと屋上に落ちた。

 

 止める必要はなかったはずだ。どうせ届かないのに、あの執事は届く前に止めた。届かないとわかっているものまで全部止める男なのだ。

 

 あの子は振り返らない。落ちたことに気づいているのかいないのかもわからないまま、荼毘のあとについて屋上の階段口へ歩いていき、執事が半歩後ろに続く。

 

「金庫番くん」

 

 気づけば呼び止めていた。足を止めたあの子が振り返る。

 

「……前にも言ったけどさ。困ったことあったら、言いなよ」

 

 あの子はしばらくこっちを見ていた。

 

「困っていない」

 

 前と同じ答え。

 

 階段口の暗がりに入る直前、執事だけが一度こちらを振り返って、深く腰から頭を下げた。礼の角度だったけれど、何の礼なのかはわからない。

 

 三つの影が消える。

 

---

 

 屋上に一人残って、ホークスは落ちた羽根を拾う。

 

 初めてじゃない。

 

 言い訳をするでもなく強がるでもなく、帳面の端に書いてある数字を一つ読み上げるみたいに、あの子はそう言った。

 

 十三歳。

 

 自分が六つのときのことを思い出す。

 

 父親が人を殺して、母親が家の中で泣いていて、自分は窓の外の空ばかり見ていた。事故の現場で羽根を広げて人を拾った日に大人たちが来て、君には才能がある、と言われて、新しい名前と新しい部屋と新しい生き方を渡された。

 

 拾われて育てられて、何のために拾われたのかを知ったのはずっとあとだ。

 

 あの子も同じように決めつけられて育てられたのだろう。帳簿のつけ方と人の殺し方を同じ机の上で教わって、どちらも仕事だと言われて。その隣にあの執事がいて、止められなかった大人が、止められなかった分だけ届かない羽根まで止めている。

 

 俺にはまだ空があった。

 

 あの子には帳面しかなかったのかもしれない。

 

 拾った羽根を背中に戻すと、何事もなかったように翼の中に収まる。

 

 ベストジーニストの顔とあの子の顔が交互に浮かぶ。どちらか一つを選べと言われたら、ヒーローとしての答えは決まっている。決まっているはずだった。

 

 港のほうで汽笛が一つ鳴った。

 

 ホークスは翼を広げる。どこへ向かうかはまだ決めていない。

 

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