どのチャンネルも、同じ映像を流している。
雲の底を焼く炎と拳を突き上げる大男。画面の下に、白い文字で「No.1」と出ている。
「すっげぇ……」
病院の休憩室のテレビの前で、スピナーが口を開けている。
「スピナーくん……あれ、私たちの敵なんですけど」
トガが呆れた顔で言う。
「わかってるよ!」
「目がキラキラしてたよ、スピナーくん」
「してねぇ!」
トガがけらけら笑う。
荼毘は部屋の隅の長椅子に寝転んで、天井を見たまま動かない。テレビのほうには、一度も顔を向けない。
クラウディオが、荼毘の脱ぎ捨てた上着を拾い上げて畳む。
ポケットから、小さな缶が転がり出た。
執事はそれを拾って、手の中で一度だけ重さを確かめる。昨日渡したときより軽い。蓋もほんの少しだけ緩い。
執事は何も言わずに缶をポケットに戻して、上着を長椅子の背に掛けておく。
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帳面を三冊並べてある。
一冊目は地下の出入り。二冊目は連合の食費と医療費。三冊目は、病院の表の帳簿の写しだ。
合わない。
病院の表の収益だけでは、地下の槽を維持する金が出ない。そこに連合九人分の飯と薬と、泥の脳無の運用が乗っている。どこかから、別の金が流れ込んでいるのだ。
そして、その金を出している側に見返りがほとんどない。
ハイエンドの調整に付き合う、それだけだ。その程度の労働に払う額ではない。
取引として成立していない。
帳面を閉じて地下へ降りた。
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殻木は槽の前の机で、何かを書いている。
「おおアルテミスくん、どうしたかの」
「なぜ……金を出す」
老人のペンが止まった。
「連合に出している額は、調整の手伝いの対価として多すぎる。見返りが釣り合っていない。取引として成立していない」
「細かいのう」
「金の話だろう、細かくて当然だ」
殻木は眼鏡を外して、白衣の裾で拭く。
「弔を完成させろと先生に言われとる……それが一つ目の理由じゃ」
完成。
人に向ける言葉ではない。家でさんざん聞いた言葉と、同じ種類だ。最高傑作。到達点。器。
ただ、この老人の言う完成が具体的に何を指すのかは、わからない。
「それだけでは……帳簿が合わない」
「そうじゃろうな」
殻木は眼鏡をかけ直して、こちらを見た。
「金を出しとるのはわしの勝手でな。七十年前にの」
老人がペンを机に置く。
「わしは一つ論文を出した。個性は代を重ねるごとに混ざり合って、複雑になって強くなる。じゃが……それを入れとく体のほうは、そう簡単には変わらん」
「……」
「個性はソフトウェアで、体はハードウェアじゃ。ソフトばかり膨らんでハードが追いつかん。いつか体のほうが耐えられんようになる。メモリが足りなくなる……そういう話じゃ」
殻木が少し笑う。
「笑われたよ。オカルトじゃと。根拠のない危険思想じゃと。学会を追われて、名前も研究もぜんぶ失くした」
「……」
「拾ってくれたのがあの方じゃった」
老人が背後の槽を仰ぐ。
「それからずっと、あの方の下で研究を続けとる」
黙って聞く。
「あの方も昔……噂くらいは聞いとったらしいがの。メキシコにそういう家がある、と。長い間、個性を掛け合わせ続けとる一族が」
「……家を……知っていたのか」
「噂だけじゃ……わざわざ海を渡る理由がなかった。あの方には、ずっと追いかけとるもんがあったからのう。他のことは、ぜんぶ後回しじゃ」
少しだけ言葉が出ない。
二百年、自分たちこそ世界の頂点だと信じて血を磨いてきた家が、あの男にとっては海を渡る価値もない噂話だったのだ。
「……家の者が聞いたら……怒るだろうな」
「ほっほ。じゃろうな」
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「あの白い髪の男の仕事、検死と戦闘の記録を見たわい」
殻木が言う
「商店街の遺体じゃ……うちにも何体か回ってきた。吸って、老いさせて、エネルギーを利用する、それだけの個性じゃった」
「……」
「二百年かけて血を選び続け、磨いてあれか……とな。正直、拍子抜けしたわい」
あの男のことは知っている。
治崎を干した。人を何人も殺した。席持ちの大人たちでさえ、あの男の前では目を伏せたままだ。
「……家の者の大半は……あれの前で口がきけない」
「比べるものを知らんからじゃよ」
殻木の返事は、あっさりしたものだ。
「二百年程度の真っ当な品種改良じゃ、平均が上がるだけじゃ。あの男みたいにのう、強い……じゃが常識的な強さじゃ」
「……」
「頂上の先に行きたけりゃ、外れ値を狙うしかない。狙って出せるもんじゃないがの」
老人の目がこちらに向く。
「君のような」
何も言わない。
家は自分を二百年かけて作ったと言っていた。二百年の設計の答えだと。最高傑作だと。あの四か月も、全部その前提の上にあったのだ。
この老人は、作れるものではないと言う。たまたま端に出た一点だと。
悪い気はしない。
それが少し気味が悪い。
「君のは放出系、身体変化や異形系の個性とは違う。個性の上に個性を置く……ソフトの重さの話じゃないのう、もっと根っこのところに触っとる」
殻木の目が、眼鏡の奥で細まっていく。
「君は……わしが正しかったことの証明なんじゃよ。だからの」
老人が机の上で指を組む。
「金を出しとる、君を飢えさせるわけにはいかんじゃろう」
その言葉の意味を帳面の上で並べ直す。
連合の飯と屋根、薬に脳無。
全部……自分という外れ値を、この老人の手の届くところに置いておくための金だ。
「……調べないという条件は、呑んだはずだ」
「呑んだとも!わしは君を調べんよ」
殻木がにこにこと笑う。
「わしが見たいのは……君の次じゃからの」
「……次」
「外れ値の子が、外れ値を産むのか。頂上を越えた先で、体は持つのか。それが見たいんじゃ、急ぐ理由はないからの。何年でも待てる」
老人の顔から目を離さない。
言っているのは家と同じことだ。
許嫁も、あの四か月も、全部「次」のため。自分が逃げてきたのは、次を作るための部品として扱われることからだ。
同じ問いを、今度は味方の屋根の下で、善意の顔で向けられている。
家の大人たちだけではない。
席持ちの家に同い年の男の子がいる。屋敷で自分をテミと呼ぶのは、あいつだけだ、席の話も血の話もしない。数字の話をすれば最後まで聞いて、わからないところはわからないと言う。家の中で、たった一人の味方だと思っていた。
許嫁が決まって、ひと月ほど経った頃だ。
中庭の噴水の縁に並んで座っていたとき、あいつが急に言った。
「ねえ……テミ」
水面を見たまま、笑っていた。
「僕たちの間には、子どもはできないけどさ。いつかテミに子どもが生まれて、僕にも生まれて……その子たちが結ばれれば、ちゃんと血が繋がるよね」
いい考えでしょう、という顔だった。
自分が何を言っているのか、あいつはわかっていなかった。わかっていないまま、家の言葉で一番大事なことを言っていた。
あいつは悪くない。悪くないから言い返せなかった。
返事はしなかった。あの日から、あいつの前で数字の話をするのをやめた。
「次を決めるのは……家じゃない、あなたでもない」
殻木の笑顔が、ほんの少しだけ止まる。
「……ほう」
「掛け合わせで決められる次は……もう作らせない」
老人はしばらく黙り込む。
それからまた笑う。さっきまでより、少しだけ薄い笑い方だ。
「それもまた……一つの答えじゃのう。まあどのみち、体のほうが先に耐えられんようになるかもしれんしな」
そう言って、老人の目が一瞬だけこちらの背後に動いた。
「おい、ジジイ」
背後の扉のところに、荼毘が立っている。
「品種改良だの外れ値だの、気持ち悪ぃ話をガキに聞かせんな」
「ほっほ、そうじゃったの」
殻木はあっさりと引く。引き方が早すぎる。
二人を見る。荼毘は殻木を見ていて、殻木は荼毘を見ている。ほんの一瞬、何かが二人のあいだを通った。それが何なのかはわからない。
「……それと」
荼毘が、面倒くさそうに頭を掻く。
「トガのやつが血を吸う機械が壊れたってうるせぇ。直せ」
「おお……あれか!古い型じゃったからのう。新しいのを作ってやろう」
「さっさとしろよ……俺が使い走りさせられてんだよ」
荼毘が踵を返す。
その背中を黙って見送るしかない。
さっきの老人の目は、確かに荼毘のほうへ動いた。体のほうが先に耐えられなくなると言ったときに。
自分の火で自分を焼く男。
その先を考えようとして、材料が足りないことに気づく。
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休憩室に戻ると、トガとスピナーがトランプをしている。
「アルテミスくん〜やる?スピナーくん今日まだ一回も勝ってないの」
「言うなよ!」
クラウディオが、テーブルに湯呑みを並べている。
部屋の入口で足が止まった。
この部屋の電気と湯呑みの茶。トガの新しい機械にスピナーの咳止め。山で肋を折った死柄木の添え木。マグネの包帯。コンプレスとトゥワイスの飯。
全部同じ金から出ている。
自分の値段で九人が食えている。家では、自分の値段は家のために使われるものだった。
ここでは同じ値段でこの連中が食えている。
悪くない使い道だと思ってしまった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
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