泥花市の手前の河川敷で、黒いものが九人を草の上に吐き出す。
「おえっ……くっさぁ……やっぱりこれ全然慣れないのです……!」
「くっせぇ!もう毎日でも乗れるぜ!こんなの慣れるわけねぇっつーの!」
トガとトゥワイスの声が朝の土手に響くなかで、起き上がって腕時計を見た。残り一時間五十五分。
土手の上に街が見えた。マンションが並んで、商店街の看板が並んで、遠くに高い塔が一本立っていて、煙も炎もサイレンもない。
「……あれが、敵の陣地か」
スピナーが言う。
「普通の街じゃねぇか」
「普通の街だから、陣地なんだ」
トガが横に並ぶ。腰に提げているのは殻木が作った、血を吸って溜めておくための筒だ。
「アルテミスくんの!ちゃんと入ってるよ」
トガが指で叩いた筒の中で赤いものが揺れる。昨夜クラウディオが腕から取ったもので、家は二百年も血を一滴も外に零さなかった。それを今、自分からこの娘の腰に提げさせている。
「使い方はお前が決めろ」
「うん」
トガはそれ以上何も訊かない。かわりに筒を両手で持って、耳に当てて振り出す。
「……何をしている」
「音、するかなって」
「しない」
「しました!ちゃぷって」
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街に入っても人の姿はほとんどない。
商店街のシャッターは半分ほど上がっていて、店先に野菜が並んでいるのに店番がいない。自転車が停まっているのに乗り手がいない。八百屋の値札の大根は一本九十八円で、書き直した跡がない。今朝、普通に店を開けて、普通にいなくなったらしい。
そのかわりに窓だ。二階の窓、三階の窓、マンションのベランダ、どの窓にもカーテンが引いてあって、そのどれもがほんの少しだけ揺れている。風は吹いていない。
窓を数えはじめて途中でやめた。数えるまでもない。この街の家には、全部中に人がいる。
「よぉーこそ!」
声が道路の上を滑ってくる。派手なヒーローコスチュームの男が、スケートでもするように地面の上を滑ってくる。足は動いていないのに体だけが前へ進む。
「ヴィラン連合の皆さん!お待ちしてましたよぉ!案内役です!」
「……ヒーローじゃねぇか」
スピナーが半歩下がる。
「表向きはね!」
男が胸のヒーロー登録証を指で弾いてみせる。
「ここ泥花市はですね!我々の街なんですよ!表の看板がヒーローでも、警察でも、市役所でも、中身はみーんな同じ!」
「いい街じゃん!最悪だな!」
「でしょう!?」
トゥワイスと案内役が、なぜか意気投合したように頷き合う。
男の胸の登録証は本物で、この国のヒーローの中にまで向こう側の人間がいて、それがどれだけいるのかわからないことが一番まずい。
「今日は再臨祭!皆さんはそのお祭りのぉぉ……主賓!」
「……生贄の間違いだろ」
荼毘が言う。
「どっちでもいい!」
「よくねえだろ」
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商店街の真ん中で男が一人待っていた。
神経質そうな髪の長い男だ。仕立てのいいスーツの襟を指で直しながらこちらを見て、名乗る必要がないという顔をしている。
「君が……アルテミス・エル・トローノか」
目の前で足を止めて、上から下まで眺めて、小さく鼻を鳴らす。
「データで見るより小さいな」
「……」
「エル・トローノ……メキシコ北部を拠点とする麻薬組織。当代の当主の弟で失踪中。組織の公式見解は執事による誘拐だが、実際は自発的な逃亡だろう。家の中で何があったのかも、おおよそ把握している」
襟を指で直す。
「私の仕事は情報だ……君程度の過去なら、三日もあれば丸裸だ」
男の目がこちらの肩越しに後ろへ流れる。
「以前の拠点の電気と水道は、去年の暮れに登記されたばかりの、社員のいない会社の名義に移されていた。向かいのビルの三階は、同じ日に家賃が前払いされている。……あれは君の仕事だろう。悪くない……私が気づくまでに二日かかった」
淡々とした声だった。褒めているのか、首に手をかけているのか、その区別がつかない声。
ここまでは全部正しい。
「八斎會からか」
眼鏡の縁で男の指が止まる。
「……何の話だ」
「裏に落ちた名前を拾うなら……あそこしかない。俺の家名を知っていた裏の人間はあの組だけだ。よく調べてある。出どころが一つしかないのが惜しいだけだ」
男の指が眼鏡から髪へ移った。
「惜しい……?」
一度髪を掻く。
「惜しいだと……?」
二度、三度と、指の動きがどんどん速くなっていく。
「私の調査に欠けなどない!情報源が一つであることは精度の問題ではない、効率の問題だ!最短の経路で最も確度の高い一次情報に到達し、そこから必要十分な推論を組み立てた!それの何が惜しい!?何がだ!?子供が!数字も読めん子供が!私の仕事に!口を!」
「うわ!急に怒った」
トガが後ろから顔を出す。
「めっちゃ怒ってる!紳士的な人だ!子供にムキになってるぜ!」
「なんだあいつ……」
スピナーがもう半歩下がって、マグネの背中にぶつかる。
男の息が荒い。額に乱れて落ちた髪をそのままに、襟を直して、髪を撫でつけて、一つずつ元の形に戻していく。最後に、ずれてもいないカフスを一度だけ指でつまんだ。
「……失礼」
声はさっきまでの温度だ。
「最高指導者がお望みでなければ、今ここでその口を縫い付けてやるところだ」
「そうか」
「君は客人だ……あの方がそう決められた。だから私も従う。せいぜい大人しくしていたまえ……今のところはな」
踵を返した男が脇の路地へ早足で消えていく。
頭はいいし情報も正確だ。ただ、自分の仕事に一つでも欠けを指摘されると、それだけで計算が止まってしまう。あの手の人間は家にもいた。帳簿の一行の誤りを誰よりも許せなくて、誰よりもその一行を隠そうとする人間。
覚えておく。
そして、あの男は最後まで名乗らなかった。家名も、過去も、店の名義まで調べ上げた男だ。こちらの個性が何を必要とするかも、知らないはずがない。
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街じゅうのスピーカーが同時に鳴った。電柱の上の防災無線だ。
『諸君』
電話で聞いた、あの低くよく通る声。
『再臨祭へ……ようこそ』
カーテンの揺れが一斉に止まる。
『百年前に我らの祖は、個性の自由を掲げて戦った。そして、この国に負けた。だが我らは、消えなかった。百年、普通の顔をして、この国の中で生き延びてきた』
声が熱を帯びていく。
『今日我らは表に出る。その最初の祝いとして、我らの名を汚す者たちを、ここで解体する』
少しだけ間があく。
『それから、カルテルの若……君は我らの客人だ。誰も君を傷つけない。ゆっくりと待っていてくれたまえ』
死柄木が首を掻く。
「……気持ち悪ぃな」
「客人にしてはずいぶんな出迎えだ」
コンプレスが帽子のつばを指で押し上げる。
「主賓と生贄と客人……この街は肩書きを配るのが好きらしいね」
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商店街の出口に背広の男が立っている。
口元を片手で覆った、見覚えのある顔だ。テレビの国会中継で何度か映っていた、小さな政党の党首で、演説がうまいと評判の議員だ。
男が口元の手を下ろす。
「ヴィラン連合の皆さん!そして、この街の同志の皆さん!」
声が通りを満たしていく。大きな声ではないのに耳の奥に直接入ってきて、通りの両側の家々の中から、何かが息を詰める気配がする。窓の向こうで、誰かがこの声に耳を澄ませているらしい。
「私たちは長い間……抑圧されてきました。個性を持って生まれて自由に行使することを、まるで罪のように扱われてきた。使えば罰せられ、目立てば疎まれ、異形に生まれれば、生まれたことそのものを嫌われてきたのです」
スピナーの肩が小さく動く。
「それで本当に……自由な社会と言えるのでしょうか?」
男が両手を広げる。
「ですが今日!ここに一人の少年がいます」
手のひらがまっすぐこちらを向く。
「二百年続いた血の檻を、自らの足で破った少年です!生まれで全てを決められることを拒み、家を捨て、自由を選んだ!彼こそが、私たちの解放の生きた証ではないでしょうか!」
家々の中で何かがざわめく。
「……なあ」
スピナーが横で小さく言う。
「あいつ……ちょっと、いいこと言ってねぇか」
答えない。壇上に立つ人間のこういう顔を、家で何度も見てきた。議場で、席の取り合いの前に、全員がああいう顔で正しいことを言っていた。
「看板なら」
通りのざわめきが引く。
「もう一つ背負わされて、逃げてきたところだ」
男の表情がわずかに止まった。
「エル・トローノの跡取り。それが一つ目の看板だった。あなたは今、俺に二つ目を背負わせようとしている。解放の証という看板を」
「……君は、私たちの理想そのものです。それを看板と呼ぶのは、少し寂しいですね」
「その言葉はどこへ行き着く。党首なら……票か」
「票」
男が少しだけ笑う。演説のときの笑い方ではなかった。
「党は器です。あの方の言葉を表に運ぶための、器にすぎない。票が要るなら集めますし、要らなくなれば明日にでも割って捨てます」
口元に指先が触れる。
「……私がこの声を授かったのは、あの方の言葉を一人でも多くの耳に届けるためだと、ずっと信じてきましたので」
嘘をついている顔ではない。頭の中の帳簿で、票の一行に線を引く。
「それと、その声」
視線を男の口元へ移す。
「その声で奮い立った兵は、声が止めば元に戻る。あなたが売っているのは解放じゃない。あなたなしでは立てない兵だ」
誰もすぐには口を開かない。少し後ろで、コンプレスが帽子のつばをさらに押し上げる。
「いやはや……政治家の先生は声が大きい。若君は間がいい。どちらも舞台としては上等だ」
「でもよ」
スピナーが袖を引く。
「言ってることは本当だろ……異形が嫌われてきたのも、個性で罰せられてきたのも」
「言葉は本当だ。たぶん、本人も本気だ」
「じゃあ」
「本気で振るわれる声ほど、止まらない」
スピナーは何も言わない。袖を引いていた指だけがしばらく離れない。
男はしばらくこちらを見て、やがて口元に薄く笑みを浮かべた。演説のときとは違う、温度のない笑い方。
「なるほど……君は少々弁が立つらしい」
声が一段低くなる。家々には届かない、こちらにだけ向けた声。
「想定の範囲内だ、大義を解さない者に、最初から説得など期待していない。それに……看板を拒む君は、名前で人を縛る個性をお持ちだそうですね」
口元の指が、こちらを指すように少しだけ動く。
「背負わされるのを嫌う人間ほど、人に背負わせるのが上手い。君がどう思おうと関係はない。あの方が君を望んでおられる……私の仕事は、あの方の歩む道を整えることだ」
返す言葉を探しているうちに、男がゆっくりと口元に手を当てる。
「では!言葉はここまでにしましょう」
この男も名乗らない。テレビで顔は見ていても、名前を覚えるほど、この国の政治に興味を持ったことがなかった。
案内役も情報屋も……今日ここで会った誰一人、名前を置いていかない。
手を下ろしたとき声はもう別物だ。
「同志の皆さん!」
通りが揺れる。
「今こそ!私たちの自由を証明しようではありませんか!」
通りの両側の家の扉が一斉に開いた。
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扉という扉から人が溢れ出してくる。
エプロン姿の女。部屋着の学生。さっきまで杖をついていたはずの老人。全員の目の色が変わっている。声に背中を押された体から、個性の気配が噴き上がる。前から。後ろから。横の路地から。
「散るな!」
死柄木の声が届く前に、人の波が連合の真ん中を割る。誰かに肩を押されて、流れに呑まれた。
左の路地へ、コンプレスとマグネ。磁力が唸って、何人かが宙を舞う。
塔のほうへ、死柄木とスピナー。スピナーの手が死柄木の背中を掴んで離さない。
右の通りで、青い炎が上がる。荼毘だ。その横に白い手袋がちらつく。クラウディオが波に逆らって、こちらへ来ようとしている。二十メートル。それがすぐに二十五になる。
「坊ちゃん!」
その声も波に呑まれる。トゥワイスの姿はもうどこにも見えない。
手首を誰かが掴んだ。
「アルテミスくん!」
トガだった。小さな手が手首を握ったまま、人の波の隙間を縫って走る。路地に飛び込んで、もう一本、さらに一本。
気がつくと住宅地の真ん中だ。
静かだ。さっきまでの喧騒が遠くで唸っていて、ここには誰もいない。洗濯物が揺れて、郵便受けに新聞が挟まったままだ。
「……はぐれちゃったね」
トガが息を切らしながら言う。
周りを見回す。家が並んで、塀が並んで、路地が三本交差していて、どれにも誰もいない。誰もいないことが気に入らない。この街の家は全部中に人がいた。それなのにこの一角だけは、窓のカーテンが一枚も揺れていない。
人の波は自分たちをここへ流した。押し出したのではなく、運んだように。
割られたのだ。戦える者は戦える者同士で潰しにかかって、残ったのは十三歳と女子高生が一人。
護衛が一人だけの若。
「アルテミスくん」
トガが腰の筒を両手でぎゅっと握っている。
「私!ちゃんと守りますね」
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路地の奥の二階の窓。レースのカーテンの陰で、望遠のレンズが二人を追っている。シャッターが一度だけ切られて、女はカメラを下ろして小さく笑う。
「いい絵ね」
窓の下の路地のアスファルトには、彼女が朝のうちに指先で触れて回った跡が、いくつも残っていた。