カーテンが一枚も揺れていない。
この街の家には全部中に人がいて、商店街でも通りでも、どの窓も風もないのに揺れていた。ここだけが違う。自分たちのために、空けてある。
遠くで低い音が響いて、空の一角が青く光ってはすぐに消える。荼毘だろう。反対の方角で二度、三度と続く、鉄の塊がぶつかるような鈍い音は、多分マグネの磁石だ。戦える者は戦える者同士で、みんな戦っている。
ここにだけ何の音も来ない。
「ねぇアルテミスくん」
トガが袖を引く。
「執事さん……いないね。アルテミスくんのそばに執事さんいないの、私初めて見るかも」
「……死穢八斎會を忘れたのか」
「あっ……忘れてました〜」
これで何度目だろう。八斎會の地下で一度、病院の地下で毎日少しずつ、そして今。慣れることはたぶんない。
自分の中の枠を数える。あの男の個性に一つ、ホークスに一つ、空きは一つ。この区画のどこかにいる誰かの名前を、自分は一つも知らない。
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二階の窓が開いた。
女が一人、ベランダの手すりを越えて軽く路地に降りてくる。首からカメラを提げている。同時に周りの家の扉が開いて、七人、八人、十人と、路地の三方を戦士たちが塞いだ。
「おはよう、ずいぶん早く気づいたのね」
女はカメラのストラップを指で弄びながら言う。
「……お前は誰だ」
「記者よ」
女がにっこり笑う。
「名前は……記事の最後に書くものでしょう?」
それからこちらへ一歩近づく。
「ずっとあなたに会いたかったの。アルテミス・エル・トローノ君」
女がカメラを持ち上げて、シャッターが一度切られた。
「二百年間……強い血と強い血を掛け合わせる個性婚をし続けて、最後に生まれた最高傑作。その子が血の檻を自分の足で破って、解放の側に立った……ねぇ……わかる?これ以上の見出しはないのよ」
「……」
「あなたは生きて象徴になるの。十万人が、あなたの顔を掲げる。この街の外の何百万人もの抑圧された人たちも。だから、聞かせてください。家を出たその瞬間、どんな気持ちでしたか?解放された……と思いましたか?」
女の顔から目を逸らさない。この顔は知っている。家の大人たちが自分を見るときの顔と同じだ。二百年の到達点、最高傑作、生きて掲げられるもの。
「解放じゃない」
「……あら」
「逃げただけだ」
いつか、刃を喉に当てられて言われた言葉だ。あのときは言い返せなかったが、今は自分の口で言える。
「家の仕組みは何も変わっていない。俺がいなくなっただけだ。二百年続いたものは、今もあの家で続いている」
女の笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
「それを解放と書くなら……あなたの記事は嘘になる」
女はしばらくこちらを見ていて、それからまた笑う。
「謙虚なのね。でもいいわ。記事は本人の言葉だけでできてるわけじゃないの」
女がトガのほうを向く。
「渡我被身子さん」
トガが首を傾げる。
「あなたのこともちゃんと調べてありますよ。小さい頃から、血が好きだった。ですが……それは普通じゃないって言われましたね。だから普通の子のふりをして、普通に笑って、普通に生きようとしたんですよね?ずっと苦しかったでしょう」
トガは何も言わない。腰の筒を握る指に、少しだけ力が入る。
「最初の事件のとき、あなたは好きな子の血がほしかった。好きだから、その子になりたかった。それを、この社会は異常だと言った……それであなたを外に追い出した」
女の声が少しだけ柔らぐ。
「あなたの物語は、ここで完成する」
「……完成?」
「普通を強いられ、社会に排斥されて、最後は殺された女の子。超人社会の闇が一人の少女をどこまで追い詰めたか。それが一番美しい結末よ」
女のレンズがトガに向く。
「名前は記事の最後に書くもの。あなたの名前がこの記事の最後の一行」
シャッターが、もう一度切られる。
トガは笑った。いつもの、口の端が裂けるような笑い方だ。
「ねぇ」
トガが腰のナイフを抜く。
「私の普通を、あなたが書かないで欲しいのです」
「……」
「血が好きなのも、好きな人になりたいのも、全部私の普通。苦しかったのは、普通じゃなかったからじゃない、普通じゃないって、言われ続けたからなのです」
トガの目が細くなる。
「それを……最後に殺してきれいにまとめないでください」
トガが地面を蹴った。
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速い。女の懐まで一息で、ナイフが喉元を狙う。
女は避けない。代わりに隣から現れた男がトガの体を真横から殴りつけて、小さな体が宙に浮き、路地の脇の家の窓ガラスを突き破る。
「トガ!」
家の中で爆発が起きて、窓から黒い煙が噴き出す。
「あの家もね、朝のうちに触っておいたの」
女はストラップを指に巻き直しながら言う。
「トガヒミコ……彼女はここで終わり。あなたはこちらへ」
煙を噴く窓を睨んで、計算する。この区画は全部が罠で、あの家の中にもまだ何かが仕込まれているかもしれない。入れば自分も巻き込まれる。自分は確保の対象で、あの女は自分を傷つけたくないはずだから、ここに立っている限り派手には動けない。
入らないのが正しい。それでも、煙の中へ走った。
「ちょっと――」
女の声が背中で聞こえた。
家の中は半分崩れかけで、居間の天井が落ちてソファが燃えている。煙で目が痛い。トガは台所の床に倒れて、額から血を流しながら脇腹を押さえていた。
「……アルテミスくん」
トガが目を開ける。
「なんで来たの」
「……いなくなると困る」
「ふーん」
トガが笑う。
「計算?」
「計算だ」
「そっかぁ、嬉しい♥」
笑みの消えないトガの腰の筒に目をやる。朝、河川敷で渡した血が、中で揺れている。
「使え」
「……いいの?」
「あの女は、俺を傷つけられない。塔の上の男が、街じゅうの前でそう言ってしまったからな」
視線を煙の向こうの窓へ流す。
「同じ顔が二つあれば、どちらも撃てない」
トガはこちらの顔をじっと見て、それから筒の蓋を親指で弾く。
「使い方は、私が決めていいんだよね」
「ああ」
「じゃあ、こう使う」
飲んだ。
トガの体が縮んで、髪が短く黒くなっていき、手が細く白く変わる。カーディガンの上に黒いコートが重なって、自分の顔が、自分ではしない笑い方をしているのが見えた。
「……顔は戻せ」
「はーい」
表情がすっと消えて、鏡を見ているようだ。
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煙の中から若が出てきた。
二人。
キュリオスは、カメラのレンズを覗くときの目で二人を見比べる。同じ顔、同じ背丈、同じ黒いコート。片方が左の裾に指をかければ、もう片方も左の裾に指をかける。煤のつき方までほとんど同じだ。
変身だとはすぐにわかった。渡我被身子は血を飲んだ相手になれる個性だと、資料で読んでいる。わからないのは、どちらがそれなのか、だ。
「……やってくれるわね」
女は取材の手帳を開く。
「じゃあ、若に質問です。お兄さまのお名前は?」
答えは来ない。二人とも、口を閉じたままだ。
本物なら即答できる問いだ。偽物は、本物の答えを聞いてから同じことを言うしかない。先に口を開いたほうが本物で、半拍遅れたほうが偽物になる。それを片方は最初から知っていて、もう片方に何も喋るなと言ってあるのだろう。
――そう……賢いのね。
キュリオスは手帳を閉じた。
撃てない。誰も君を傷つけないと、あの方が街じゅうに向けて言った防災無線の声は、まだ耳に新しい。そしてこの記事の主役は、生きて、十万人に掲げられる顔でなければならない。片方を吹き飛ばして、それが本物だったら。
なら吹き飛ばさなければいい。
この区画は、朝のうちに歩いて回った。アスファルト、ブロック塀、電柱の根元、郵便受けと、指先で触れた場所は全部頭に入っている。二人がどこを踏めば止まるかも。逃げ道を潰して角に追い込み、護衛は戦士たちで抑えれば、本物は無傷で取れる。
「いいわ……ゆっくりやりましょうか」
女はまた笑って、それから戦士たちにだけ聞こえる声で言う。
「右の路地に寄せて。突き当たりの空き地で囲むわ。左には入れないで。あっちは殺す為に厚く仕込んであるから」
「はっ」
右の路地の先には、何も仕込んでいない。そこへ二人を追い込んで、時間をかけて本物と偽物を見分け、見分けがついたら偽物だけを左へ押し込めばいい。道筋は全部頭の中だ。
「若は俺が!」
右の路地の奥から、戦士が三人飛び出してくる。
キュリオスの指示の外だ。塔の上の男が欲しがっている若を自分の手で確保すればどれほどの手柄になるか、待ちきれなかったのだろう。その熱が、足を前に出させた。
右の路地が塞がって、前からも後ろからも戦士たちが迫ってくる。空いているのは左だけだ。
「左だ」
「左だな」
二人が左の路地へ走り込む。
「――待って」
背後から女の声が飛ぶ。
「違う!そっちは――!」
その声は、走る足音にかき消された。
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足元を見る。アスファルトに、指で軽く撫でたような薄い跡が、路地の先まで点々と続く。ブロック塀にも、電柱の根元にも。触れたものに、何かが仕込まれている。
枠は一つ空いている。だが、あの女の名前も、仕込まれた個性の名前も知らない。爆ぜるものそのものは、下に置けない。
だが、アスファルトには名前がある。
――人の名前を上に、アスファルトを下に。
それで何が防げるのかは、わからない。爆ぜるのはアスファルトなのか、アスファルトに乗ったあの女の個性なのか、下に置いた地面が爆ぜたとき上にいる者まで届くのかどうか、試したことは一度もない。それでも、何もしないよりは。
隣を見ると自分と同じ顔が、自分と同じ速さで走っている。枠は一つで、上に置けるのも一人だけだ。
自分か、トガか。
あの女は本物を傷つけられないから、狙われるのは偽物のほうで、なら、トガを上に置くべきだ。だがこの地面はあの女の指示とは関係なく、誰が踏んだかも選ばずに爆ぜる。本物が踏めば本物が吹き飛ぶ。ならホークスの枠を――
「アルテミスくん?」
考えている間も足は止まっていなかった。
踏み出した右足の下で何かが光った。
---
音はあったのかもしれない。聞こえなかった。
体が浮いて空が回る。電線と、二階の窓と、洗濯物と、また空。肩から、背中からアスファルトに落ちて、それから頭の横を何かが叩いた。耳の中で、高い音が鳴り続けている。
自分の足を見る。
右の足が膝の下から、曲がるはずのない方向に曲がって、裂けた皮膚から血が溢れ出している。他人の足を見ているようで、痛くはない。痛くないことが、おかしいと思った。
そう思った瞬間に来た。
足の中で何かが焼けて、焼けたまま骨の内側から膨らんでくる。息を吸おうとすると、胸の奥まで同じものが入り込んで、吸えない。
数える。
一
二
三
四で数がわからなくなった。
喉から声が出た。
「――あ゛ッッッ……!」
一音だけ、喉を突き破って出た。慌てて歯を食いしばるが、それでも隙間から漏れていく。
「……っ、ぐ……ぅあ……!」
獣が罠にかかったときのような声。一度も出したことのない種類の声だ。
大人を一人、止めるための強さだったのだろう。それを大人に満たない体が踏んだ。
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キュリオスは路地の入口に立ち尽くす。片方の若がアスファルトの上で足を押さえて、もう片方がその横に立ったまま、こちらを振り向いている。
その顔が歪んでいる。目を見開いて、口を開けて、今にも泣き出しそうなのに泣いてはいない。二百年の血で作られた跡取りが、一度もしたことのないはずの顔だった。
血を流して倒れているほうが、本物だ。
女はカメラを下ろしていた。さっきシャッターを切った指が、今は一度も動かない。
――破った
頭の中に浮かんだのは若の足ではない。防災無線の声だ。
誰も君を傷つけない。
あの方が街じゅうに向けてそう言い、この街の十万人が、家の中で再臨祭の最初の宣言として聞いていた。その言葉を、百年ぶりに表に出る日の最初の約束を、自分の地雷が破ったのだ。
記事を書く人間は、一度出た言葉が取り消せないことを知っている。その言葉を、自分は自分の指先で嘘にして、生きて掲げられるはずだった顔に傷をつけた。
記事の主役に
頭の中で、勝手に見出しが組み上がる。
――『解放の象徴、解放軍の地雷に脚を折られる!?』
署名は自分の名前で、指先が冷たい。
――急がなければ。
頭だけはまだ回っている。本物を一刻も早く確保して、傷が少しでも小さいうちに手当てさせ、宣言が嘘になった時間を一秒でも短くする。
「医療班を呼んで……!今すぐ!この区画の外で待機させて」
部下の一人が無線に飛びつく。
「若には……近づかないで」
「は……はい?」
「あの周りは、全部……私が触れてある」
自分の声が少し上ずっていることに、女は気づいた。
仕掛けた地雷は、仕掛けた本人にも止められない。誰が触れたかを選ばずに爆ぜるから、近づくことも、救い出して手当てすることも、今この瞬間は誰にもできない。
だから、邪魔なものを一秒でも早く終わらせるしかない。インタビューはもう要らなくて、最後の一行を急いで書くだけだ。
「全員」
女の声が路地に響く。
「あの女を潰して……!今すぐ」
---
戦士たちが一斉に、立っているほうの自分に向かって動いた。
トガが自分の顔のまま振り返って、自分なら絶対にしない抜き方でナイフを抜く。
次の瞬間、足元のブロック塀が爆ぜた。トガの体が自分の顔のまま爆風に呑まれて、路地の向こうの電柱に叩きつけられて崩れ落ち、そこに戦士たちが群がっていく。
それをただ見ているしかない。
耳鳴りの向こうで、何も聞こえない。自分の顔をした誰かが倒れて、立ち上がろうとして、また押し潰される。
あれは自分の顔で、自分が渡した血であの顔になった。
アスファルトに手をつく。
十二メートル。
数えようとしたのではなく、自分の顔が倒れている電柱までの距離が、勝手に頭に浮かんだ。
枠は……一つ空いたままだ。さっき、どちらに使うか決めきれなかった枠で、今からトガを上に置いても、ブロック塀はもう爆ぜた後だ。あの女の名前も戦士たちの名前も一つも知らず、名前のない相手には、この個性は何もできない。
何もできない個性と、折れた足と十二メートル。
膝から下が言うことを聞かず、動かそうとするたびに足の中で何かが焼ける。自分の足より、向こうで倒れている自分の顔のほうが、遠く見えた。
声を殺して這った。
今日から月水金日週4回投稿になります。次回は金曜日20:10です。