カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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47話 最後の一行

 

  アスファルトに頬をつけたまま、しばらく自分がどこにいるのかわからない。耳の奥できーんと高い音が鳴って、口の中が自分の血の、鉄の味でいっぱいだ。目の前に手がある。自分の手……でも、自分の手じゃない。指が細くて白くて、爪の形がきれいなアルテミスくんの手……そうだった、今、私アルテミスくんだった。

 

 路地の向こうから、誰かがこっちに来ようとしている。足が変な形に曲がって、その足を引きずって両手でアスファルトを掴んで這っているのは、本物のアルテミスくんだ。通った跡に、赤い線。

 

 ――きれいな色……

 

 いつもならそう思うだけだった。きれいで、あったかそうで、飲んだらどんな味がするんだろうって、最初に会った日もそう思った。かわいい顔してるねぇ、血、何型?って訊いたら、答えてくれなかったよね。

 

 ――ちがう。

 

 こんな形で大好きな人の血が流れるのは嫌だ。あの女は私が死んだら物語が完成するって言ったけど、死んじゃったら、もうアルテミスくんにはなれないのに。

 

 女の声が路地に響く。

 

「早く!あの女を!早く!」

 

 女はもう何も訊かない。

 

 戦士たちがこっちへ群がってくるのに合わせて、跳ね起きてナイフを振った。一人の腕を裂いて、もう一人の足を払う。

 

「囲め!小さいぞ、届かない距離から押さえろ!」

 

 アルテミスくんの体は軽くて小さくて腕が短いから、いつもならナイフが届く距離で届かないし、踏み込むと足が思ったより前に出ない。

 

 それでも動く。

 

 三人目の喉元に刃を当てたとき、郵便受けが光って爆風が背中から来た。体が塀に叩きつけられて肩の骨が鳴り、立ち上がる前にもう一人が走ってくる。その男の胸が、ぼんやり光を帯びていく。

 

「解放のために……!」

 

 ――え?

 

 男はこっちに抱きつくようにして光った。自分の体ごと、爆発させた。

 

 また体が宙を舞って、今度はどこに落ちたのかもわからない。目の前が白くなって、赤くなって、また白く染まっていく。脇腹が熱くて、手で押さえるとぬるりとした。

 

 あ、これ私の血だ。いっぱい出てるよ。

 

「おい……顔が、戻っていくぞ」

 

 押さえた手に目を落とすと、指が太くなって、爪の形が見慣れた形に戻っていく。手の甲の白さが、ゆっくりと抜けていく。

 

 ――あ、だめ。

 

 体の内側から、アルテミスくんが剥がれていく感じがする。背が伸びて髪が肩に落ちて、コートの重さが消えて、いつものカーディガンの袖が戻っていく。血が出すぎて、アルテミスくんの形を保っていられるだけのものが、もう体に残っていない。

 

 私は、私に戻っていた。

 

「……見つけた」

 

 あの女の声が、少しだけ落ち着きを取り戻す。

 

「最初から!その顔でいてくれればよかったのに……!」

 

 女の指に撫でられた路地の塀が、ぼんやりと光を帯びた。

 

「さあ……最後の一行よ」

 

 身を起こすと、自分の体だ。手足がちゃんと自分の長さで動いて、さっきまでよりずっと軽い。ナイフを逆手に握り直して一番近くの戦士の懐に飛び込むと、刃がちゃんと届く。二人目の膝を蹴ってから、三人目の背中に回り込む。

 

 自分の体は戦い方を知っている。知っているけど、もう血が足りない。

 

 四人目の拳を避けたところで足がもつれて、膝をついた場所が光を放つ。

 

 また飛んだ。今度は立ち上がれない。

 

 遠くで、ぱんと乾いた音がした。

 

 顔だけをそちらに向けると、アルテミスくんがアスファルトの上で丸くなっている。這おうとしてついた手の、指の先だけが跡にかかっていたらしい。右手の指が何本かおかしな方向に曲がって、手の甲の皮が焼けてめくれて、苦しんでる。

 

「んっ……がぁ!!」

 

 それでもアルテミスくんは、その手をまたアスファルトについて、こっちに来ようとしてる。

 

「ちょっと……!やめて!」

 

 あの女の、さっきまでとはぜんぜん違う声だ。

 

「やめて……お願い動かないで!そこは全部……お願いだから……!!動かないで……!」

 

 アルテミスくんは止まらない。たぶん聞こえていない。アルテミスくんの耳も、私と同じように、ずっときーんと鳴っているんだと思う。

 

「キュリオスさん!」

 

 戦士の一人が、悲鳴みたいな声で叫ぶ。

 

「若がまた――!キュリオスさん指示を!」

 

 キュリオス。

 

 アルテミスくんには聞こえなかったその名前を、私は聞いた。耳の奥で鳴っていた音が、その一言の分だけ、すっと引いた。

 

---

 

 体が重い。どこが痛いのかも、もうよくわからない。全部痛くて全部遠くて、このまま目を閉じたら、たぶんもう開かないのがわかる。怖くはない。

 

 ただ、アルテミスくんがまだ、折れた足と折れた指でこっちに這っている。

 

 アルテミスくんが私のために這っている。

 

 ずっとなりたかった。アルテミスくんみたいに歩いて、アルテミスくんみたいに喋って、アルテミスくんみたいに黙って誰かの前に立つ人に、姿だけじゃなくて。好きな人になりたいし、好きな人みたいに誰かの前に立ちたい。

 

 それが私の普通だ。最後に殺されてきれいにまとめられる普通なんかじゃない。

 

 ――使い方はお前が決めろ。

 

 朝、河川敷でそう言われた。

 

 腰の筒を手で探すけど、指が震えて蓋がなかなか開かない。残っていたのはほんの少しで、さっき剥がされた姿を、もう一度自分で選ぶ。

 

 飲んだ

 

 アルテミスくんの味だ。体がまた縮んで、髪が短く黒くなって、手が細く白くなって、カーディガンの上に黒いコートが重なっていく。それで、それだけじゃないものが体の奥に流れ込んできた。知らない感覚で、世界のあちこちに見えない線が引けそうな感じがする。こっちが上であっちが下、そう決めたらそうなる。

 

 ――あ

 

 アルテミスくんのだ、姿だけじゃなかった。

 

 もう一度立つと膝が笑って、脇腹から血が落ち続けているけど、それでも立てた。

 

 キュリオスまでは五メートルで、目を合わせるには十分な距離だ。

 

 さっき剥がしたはずの顔がもう一度そこに立っているのを見て、キュリオスの目が大きく開いて、目が合った。

 

 アルテミスくんの声で言う。

 

「……トガヒミコを上に」

 

 女の顔が凍りつく。

 

「キュリオスを下に!」

 

 女が何か叫んで、足元のアスファルトが爆ぜる。一歩踏み出した先のブロック塀が爆ぜて、電柱の根元が爆ぜる。

 

 私の髪は一本も揺れない。

 

 爆風が体を叩く。叩いて、それだけだ。熱も痛みも、どこにも残らない。戦士の一人が胸を光らせて飛びかかってきて、抱きついた瞬間に体が爆ぜたけど、その爆風の真ん中で私だけが無傷で、男だけがいなくなっていた。

 

「……その顔で、その声で」

 

 キュリオスの声が震えている。

 

「個性まで使えるなんて、どこにも書いてなかった……どこにも……!」

 

「書いてないなら、書き足せばいい」

 

 女が何かを拳に嵌める。金属のナックルが、指の上でぎらりと光った。

 

「取材はね……最後は、自分の拳で稼ぐのよ!」

 

 ナックルごと光った拳が、私の頬に入る。

 

 入って、それだけだ。ひびが走ったのはナックルのほうで、割れた金属が女の指の間からばらばらと落ちていく。女の指に付いているものも、女と一緒に下にあるらしい。

 

「……え」

 

「かわいくない、変なアイテムだったのです」

 

 割れたナックルの残った手の、その手首を掴んだ。

 

 掴んだ手を引いても、女は悲鳴を上げない。驚いた顔のまま自分の肩を見下ろすと、そこにあるはずのものが私の手の中にあって、私はそれを地面に落とした。

 

「離して……離しなさい、まだ、まだ書いて――」

 

 上のものは下のものを簡単に壊せるって、アルテミスくんがいつか言っていた。

 

 女の口が動いて、記事の最後に書くはずだった何かを言おうとしてる。

 

「最後の一行は――」

 

「それ、私が書くね」

 

 もう片方の手を、女の頭に置いた。

 

 次の音がして、それきり女の口は動かなくなった。

 

 記事の最後に書かれるはずだったのは、私の名前だった。最後に呼ばれたのは、女自身の名前だ。

 

---

 

 残っていた戦士たちは誰も動かなくて、私はゆっくりと振り向く。

 

 アルテミスくんが、焼けた手を胸の前で押さえて、真っ白な顔でアスファルトの上からこちらを見上げている。今まで一度も見たことのない顔で、怖がっているのとも怒っているのとも違う。何かをずっと前から知っていて、それを今、目の前で見せられた人の顔だ。

 

「……それが」

 

 アルテミスくんの声はかすれて、ほとんど息だ。

 

「……家が欲しがっていたものだ」

 

 意味はわからない。でも、アルテミスくんがその言葉を言いたくなかったことだけは、ババ抜きのときみたいに瞬きが一回分だけ止まっていたから、わかった。

 

戦士たちが我に返ったように動き出すのを見て、筒の奥に残していたもう一つの小さな瓶を取り出した。

 

「なんだ、まだ何か……」

 

「撃て!姿を変える前に撃て!」

 

 お茶子ちゃんの血……飲むね

 

 体がまた変わる。アルテミスくんより背が高くて、丸い顔で、指先がぽかぽかする女の子の体だ。さっきの見えない線の感覚はもうなくて、かわりに指先に別のものがある。

 

「また別の顔に……!」

 

「雄英のガキだ、あれは……!」

 

 走ってきた戦士の肩に指先で触れると、男の体がふわりと浮く。

 

「う、わ!なん、足が……!」

 

「えへへ、風船みたいなのです」

 

 二人目、三人目と、触れるたびに大人の体が空へ上がっていく。手足をばたつかせて、どこにも掴まれずに、二階の窓より高く、屋根より高く。

 

「下ろせ!下ろしてくれ!」

 

「頼む、頼むから……!」

 

「いいですよ、下ろしてあげます」

 

 両手の指先を合わせる。

 

「はい、おしまい」

 

 浮いていたものが一斉に落ちてきて、地面にぶつかる重い音が続けて鳴る。それきり誰も動かなくて、路地にはもう誰も立っていない。

 

「お茶子ちゃん......ありがとう」

 

---

 

 膝から崩れる。お茶子ちゃんの体でも、脇腹の傷は私の傷のままで、血が止まらない。

 

 アルテミスくんが這ってくるけど、今度はもう爆ぜない。光っていた場所は、さっき全部私が踏んで、爆ぜさせてしまっていた。アルテミスくんの折れていないほうの手が、私の肩に触れる。

 

「……トガ」

 

 かすれた声だ。

 

「動けるか」

 

「……むり」

 

「……そうか」

 

 アルテミスくんが路地の先を窺うのにつられて、そっちを向く。ずっと遠くでまだ戦いの音が鳴っていて、この区画の外には、さっきの女が呼んだ人たちが待っているはずだ。ここにいれば、また誰かが来てしまう。

 

「……ここを出る」

 

 アルテミスくんが言う。

 

「でも……アルテミス……くん……足」

 

「……お前のほうが深い」

 

 アルテミスくんは、私の脇腹から目を離さない。私は少しだけ笑って、お茶子ちゃんの指先で自分の胸にそっと触れる。体が軽くなって、地面からほんの少しだけ浮いて……気持ち悪い、お茶子ちゃんもいつもこうなのかな。

 

「……軽く……しとくね」

 

 アルテミスくんの目が少しだけ大きくなって、それから折れていないほうの手で私の手首を掴んだ。片足で立ち上がろうとして崩れて、もう一度立ち上がろうとしてまた崩れて、三度目で、膝をついたまま前に進んだ。

 

 私の体は風船みたいにその後ろをついていって、浮いたまま、アルテミスくんの背中を見ていることしかできない。

 

 小さい背中だ。

 

 コートの裾が血で黒くて、一歩進むたびに肩が大きく揺れる。息がひゅうひゅうと鳴って、その息の合間に小さな声がする。

 

「……一……二……三」

 

 アルテミスくんが、自分の進んだ距離を一歩ずつ数えている。数えることで痛いのをごまかしているのが、私にはわかる。

 

「……四……五」

 

 五でまた崩れて、膝をついて、それでもまた前に出る。

 

「……六」

 

 手首を掴んだ手は一度も緩まない。

 

 アルテミスくんが私を運んでる。

 

 ぼんやりと思う。誰かに運んでもらうのなんて、いつぶりだろう。思い出そうとしても、一個も出てこない。

 

 路地の脇の低い生け垣が途切れているところで、アルテミスくんが曲がると、どこかの家の庭だ。物干し竿で、子どものTシャツと大人のワイシャツと靴下が二足、揺れて止まない。縁側の下に小さな三輪車が転がって、プランターに赤くなりかけのミニトマトが鈴なりで、誰もいない。この家の人たちも、きっとさっきの声を聞いて、扉を開けてどこかへ戦いに行ったのだ。

 

 普通の家の普通の庭だ。私がずっと外から見ていた種類の……

 

 視界の端が暗くなってくる……指先から、ぽかぽかした感覚が抜けて、浮いていられない。体がすとんと芝生に落ちた。

 

 重くなった私の体を、アルテミスくんは離さない。

 

 引きずった。

 

 芝生の上を少しずつ、折れた足で、折れた指で、片手で私の手首を掴んだまま、縁側の影の下まで。

 

「……十一……十二」

 

 

 数える声がだんだん小さくなって、アルテミスくんが縁側の柱に背中を預けて止まる。私の頭を、自分の膝の上に引き寄せた。

 

 洗濯物が風に揺れている。

 

 遠くで誰かの声がした。

 

「――トガちゃーん!坊主ー!どこだ!!いねぇぞ!どこだよ!!」

 

 仁くんの声だ……何か言おうとしたけど、口が動かない。アルテミスくんが顔を上げて、生け垣の向こうを見ている。

 

 目の前がゆっくりと暗くなっていく。最後に見えたのは、物干し竿の子どもの小さなTシャツだった。

 

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