アスファルトに頬をつけたまま、しばらく自分がどこにいるのかわからない。耳の奥できーんと高い音が鳴って、口の中が自分の血の、鉄の味でいっぱいだ。目の前に手がある。自分の手……でも、自分の手じゃない。指が細くて白くて、爪の形がきれいなアルテミスくんの手……そうだった、今、私アルテミスくんだった。
路地の向こうから、誰かがこっちに来ようとしている。足が変な形に曲がって、その足を引きずって両手でアスファルトを掴んで這っているのは、本物のアルテミスくんだ。通った跡に、赤い線。
――きれいな色……
いつもならそう思うだけだった。きれいで、あったかそうで、飲んだらどんな味がするんだろうって、最初に会った日もそう思った。かわいい顔してるねぇ、血、何型?って訊いたら、答えてくれなかったよね。
――ちがう。
こんな形で大好きな人の血が流れるのは嫌だ。あの女は私が死んだら物語が完成するって言ったけど、死んじゃったら、もうアルテミスくんにはなれないのに。
女の声が路地に響く。
「早く!あの女を!早く!」
女はもう何も訊かない。
戦士たちがこっちへ群がってくるのに合わせて、跳ね起きてナイフを振った。一人の腕を裂いて、もう一人の足を払う。
「囲め!小さいぞ、届かない距離から押さえろ!」
アルテミスくんの体は軽くて小さくて腕が短いから、いつもならナイフが届く距離で届かないし、踏み込むと足が思ったより前に出ない。
それでも動く。
三人目の喉元に刃を当てたとき、郵便受けが光って爆風が背中から来た。体が塀に叩きつけられて肩の骨が鳴り、立ち上がる前にもう一人が走ってくる。その男の胸が、ぼんやり光を帯びていく。
「解放のために……!」
――え?
男はこっちに抱きつくようにして光った。自分の体ごと、爆発させた。
また体が宙を舞って、今度はどこに落ちたのかもわからない。目の前が白くなって、赤くなって、また白く染まっていく。脇腹が熱くて、手で押さえるとぬるりとした。
あ、これ私の血だ。いっぱい出てるよ。
「おい……顔が、戻っていくぞ」
押さえた手に目を落とすと、指が太くなって、爪の形が見慣れた形に戻っていく。手の甲の白さが、ゆっくりと抜けていく。
――あ、だめ。
体の内側から、アルテミスくんが剥がれていく感じがする。背が伸びて髪が肩に落ちて、コートの重さが消えて、いつものカーディガンの袖が戻っていく。血が出すぎて、アルテミスくんの形を保っていられるだけのものが、もう体に残っていない。
私は、私に戻っていた。
「……見つけた」
あの女の声が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「最初から!その顔でいてくれればよかったのに……!」
女の指に撫でられた路地の塀が、ぼんやりと光を帯びた。
「さあ……最後の一行よ」
身を起こすと、自分の体だ。手足がちゃんと自分の長さで動いて、さっきまでよりずっと軽い。ナイフを逆手に握り直して一番近くの戦士の懐に飛び込むと、刃がちゃんと届く。二人目の膝を蹴ってから、三人目の背中に回り込む。
自分の体は戦い方を知っている。知っているけど、もう血が足りない。
四人目の拳を避けたところで足がもつれて、膝をついた場所が光を放つ。
また飛んだ。今度は立ち上がれない。
遠くで、ぱんと乾いた音がした。
顔だけをそちらに向けると、アルテミスくんがアスファルトの上で丸くなっている。這おうとしてついた手の、指の先だけが跡にかかっていたらしい。右手の指が何本かおかしな方向に曲がって、手の甲の皮が焼けてめくれて、苦しんでる。
「んっ……がぁ!!」
それでもアルテミスくんは、その手をまたアスファルトについて、こっちに来ようとしてる。
「ちょっと……!やめて!」
あの女の、さっきまでとはぜんぜん違う声だ。
「やめて……お願い動かないで!そこは全部……お願いだから……!!動かないで……!」
アルテミスくんは止まらない。たぶん聞こえていない。アルテミスくんの耳も、私と同じように、ずっときーんと鳴っているんだと思う。
「キュリオスさん!」
戦士の一人が、悲鳴みたいな声で叫ぶ。
「若がまた――!キュリオスさん指示を!」
キュリオス。
アルテミスくんには聞こえなかったその名前を、私は聞いた。耳の奥で鳴っていた音が、その一言の分だけ、すっと引いた。
---
体が重い。どこが痛いのかも、もうよくわからない。全部痛くて全部遠くて、このまま目を閉じたら、たぶんもう開かないのがわかる。怖くはない。
ただ、アルテミスくんがまだ、折れた足と折れた指でこっちに這っている。
アルテミスくんが私のために這っている。
ずっとなりたかった。アルテミスくんみたいに歩いて、アルテミスくんみたいに喋って、アルテミスくんみたいに黙って誰かの前に立つ人に、姿だけじゃなくて。好きな人になりたいし、好きな人みたいに誰かの前に立ちたい。
それが私の普通だ。最後に殺されてきれいにまとめられる普通なんかじゃない。
――使い方はお前が決めろ。
朝、河川敷でそう言われた。
腰の筒を手で探すけど、指が震えて蓋がなかなか開かない。残っていたのはほんの少しで、さっき剥がされた姿を、もう一度自分で選ぶ。
飲んだ
アルテミスくんの味だ。体がまた縮んで、髪が短く黒くなって、手が細く白くなって、カーディガンの上に黒いコートが重なっていく。それで、それだけじゃないものが体の奥に流れ込んできた。知らない感覚で、世界のあちこちに見えない線が引けそうな感じがする。こっちが上であっちが下、そう決めたらそうなる。
――あ
アルテミスくんのだ、姿だけじゃなかった。
もう一度立つと膝が笑って、脇腹から血が落ち続けているけど、それでも立てた。
キュリオスまでは五メートルで、目を合わせるには十分な距離だ。
さっき剥がしたはずの顔がもう一度そこに立っているのを見て、キュリオスの目が大きく開いて、目が合った。
アルテミスくんの声で言う。
「……トガヒミコを上に」
女の顔が凍りつく。
「キュリオスを下に!」
女が何か叫んで、足元のアスファルトが爆ぜる。一歩踏み出した先のブロック塀が爆ぜて、電柱の根元が爆ぜる。
私の髪は一本も揺れない。
爆風が体を叩く。叩いて、それだけだ。熱も痛みも、どこにも残らない。戦士の一人が胸を光らせて飛びかかってきて、抱きついた瞬間に体が爆ぜたけど、その爆風の真ん中で私だけが無傷で、男だけがいなくなっていた。
「……その顔で、その声で」
キュリオスの声が震えている。
「個性まで使えるなんて、どこにも書いてなかった……どこにも……!」
「書いてないなら、書き足せばいい」
女が何かを拳に嵌める。金属のナックルが、指の上でぎらりと光った。
「取材はね……最後は、自分の拳で稼ぐのよ!」
ナックルごと光った拳が、私の頬に入る。
入って、それだけだ。ひびが走ったのはナックルのほうで、割れた金属が女の指の間からばらばらと落ちていく。女の指に付いているものも、女と一緒に下にあるらしい。
「……え」
「かわいくない、変なアイテムだったのです」
割れたナックルの残った手の、その手首を掴んだ。
掴んだ手を引いても、女は悲鳴を上げない。驚いた顔のまま自分の肩を見下ろすと、そこにあるはずのものが私の手の中にあって、私はそれを地面に落とした。
「離して……離しなさい、まだ、まだ書いて――」
上のものは下のものを簡単に壊せるって、アルテミスくんがいつか言っていた。
女の口が動いて、記事の最後に書くはずだった何かを言おうとしてる。
「最後の一行は――」
「それ、私が書くね」
もう片方の手を、女の頭に置いた。
次の音がして、それきり女の口は動かなくなった。
記事の最後に書かれるはずだったのは、私の名前だった。最後に呼ばれたのは、女自身の名前だ。
---
残っていた戦士たちは誰も動かなくて、私はゆっくりと振り向く。
アルテミスくんが、焼けた手を胸の前で押さえて、真っ白な顔でアスファルトの上からこちらを見上げている。今まで一度も見たことのない顔で、怖がっているのとも怒っているのとも違う。何かをずっと前から知っていて、それを今、目の前で見せられた人の顔だ。
「……それが」
アルテミスくんの声はかすれて、ほとんど息だ。
「……家が欲しがっていたものだ」
意味はわからない。でも、アルテミスくんがその言葉を言いたくなかったことだけは、ババ抜きのときみたいに瞬きが一回分だけ止まっていたから、わかった。
戦士たちが我に返ったように動き出すのを見て、筒の奥に残していたもう一つの小さな瓶を取り出した。
「なんだ、まだ何か……」
「撃て!姿を変える前に撃て!」
お茶子ちゃんの血……飲むね
体がまた変わる。アルテミスくんより背が高くて、丸い顔で、指先がぽかぽかする女の子の体だ。さっきの見えない線の感覚はもうなくて、かわりに指先に別のものがある。
「また別の顔に……!」
「雄英のガキだ、あれは……!」
走ってきた戦士の肩に指先で触れると、男の体がふわりと浮く。
「う、わ!なん、足が……!」
「えへへ、風船みたいなのです」
二人目、三人目と、触れるたびに大人の体が空へ上がっていく。手足をばたつかせて、どこにも掴まれずに、二階の窓より高く、屋根より高く。
「下ろせ!下ろしてくれ!」
「頼む、頼むから……!」
「いいですよ、下ろしてあげます」
両手の指先を合わせる。
「はい、おしまい」
浮いていたものが一斉に落ちてきて、地面にぶつかる重い音が続けて鳴る。それきり誰も動かなくて、路地にはもう誰も立っていない。
「お茶子ちゃん......ありがとう」
---
膝から崩れる。お茶子ちゃんの体でも、脇腹の傷は私の傷のままで、血が止まらない。
アルテミスくんが這ってくるけど、今度はもう爆ぜない。光っていた場所は、さっき全部私が踏んで、爆ぜさせてしまっていた。アルテミスくんの折れていないほうの手が、私の肩に触れる。
「……トガ」
かすれた声だ。
「動けるか」
「……むり」
「……そうか」
アルテミスくんが路地の先を窺うのにつられて、そっちを向く。ずっと遠くでまだ戦いの音が鳴っていて、この区画の外には、さっきの女が呼んだ人たちが待っているはずだ。ここにいれば、また誰かが来てしまう。
「……ここを出る」
アルテミスくんが言う。
「でも……アルテミス……くん……足」
「……お前のほうが深い」
アルテミスくんは、私の脇腹から目を離さない。私は少しだけ笑って、お茶子ちゃんの指先で自分の胸にそっと触れる。体が軽くなって、地面からほんの少しだけ浮いて……気持ち悪い、お茶子ちゃんもいつもこうなのかな。
「……軽く……しとくね」
アルテミスくんの目が少しだけ大きくなって、それから折れていないほうの手で私の手首を掴んだ。片足で立ち上がろうとして崩れて、もう一度立ち上がろうとしてまた崩れて、三度目で、膝をついたまま前に進んだ。
私の体は風船みたいにその後ろをついていって、浮いたまま、アルテミスくんの背中を見ていることしかできない。
小さい背中だ。
コートの裾が血で黒くて、一歩進むたびに肩が大きく揺れる。息がひゅうひゅうと鳴って、その息の合間に小さな声がする。
「……一……二……三」
アルテミスくんが、自分の進んだ距離を一歩ずつ数えている。数えることで痛いのをごまかしているのが、私にはわかる。
「……四……五」
五でまた崩れて、膝をついて、それでもまた前に出る。
「……六」
手首を掴んだ手は一度も緩まない。
アルテミスくんが私を運んでる。
ぼんやりと思う。誰かに運んでもらうのなんて、いつぶりだろう。思い出そうとしても、一個も出てこない。
路地の脇の低い生け垣が途切れているところで、アルテミスくんが曲がると、どこかの家の庭だ。物干し竿で、子どものTシャツと大人のワイシャツと靴下が二足、揺れて止まない。縁側の下に小さな三輪車が転がって、プランターに赤くなりかけのミニトマトが鈴なりで、誰もいない。この家の人たちも、きっとさっきの声を聞いて、扉を開けてどこかへ戦いに行ったのだ。
普通の家の普通の庭だ。私がずっと外から見ていた種類の……
視界の端が暗くなってくる……指先から、ぽかぽかした感覚が抜けて、浮いていられない。体がすとんと芝生に落ちた。
重くなった私の体を、アルテミスくんは離さない。
引きずった。
芝生の上を少しずつ、折れた足で、折れた指で、片手で私の手首を掴んだまま、縁側の影の下まで。
「……十一……十二」
数える声がだんだん小さくなって、アルテミスくんが縁側の柱に背中を預けて止まる。私の頭を、自分の膝の上に引き寄せた。
洗濯物が風に揺れている。
遠くで誰かの声がした。
「――トガちゃーん!坊主ー!どこだ!!いねぇぞ!どこだよ!!」
仁くんの声だ……何か言おうとしたけど、口が動かない。アルテミスくんが顔を上げて、生け垣の向こうを見ている。
目の前がゆっくりと暗くなっていく。最後に見えたのは、物干し竿の子どもの小さなTシャツだった。