白い手袋の指先から糸が走る。頭上から落ちてきた氷の柱を三つに切り分けて、切り口が地面に届く前に次の柱がもう宙で形になっていた。
半歩引くと、背後で荼毘様の青い炎が上がり、熱が首筋を撫でていく。
「……密度が違うんだよ」
フードを被った青年が、空中に浮かぶ氷の上で両手をポケットに入れたまま、周りの地面から氷を引きずり出している。
足元のマンホールの縁から水が噴いた。噴いた先から白く固まって、杭になって脛へ伸びてくる。爪先で地面を蹴って横へ逃げる。杭の側面に糸を巻いて引けば、根元で折れて転がった。
「君たちが何本切っても、僕は何本でも作れる。氷がある限りね」
分断されて気づけばこの通りにいた。坊ちゃんの姿は人の波の向こうに消えたきりで、最後に見えたのは、トガ様に手首を引かれていく小さな背中だ。
それからまだ十分も経っていない。十分あれば、何が起きてもおかしくない。
「強い炎だ。だけど自分の肉体ごと灼いている……長くはもたないよ」
「知ってる」
荼毘様は煙草をくわえたまま炎を噴く。正面の氷の壁が溶けて湯気に変わる。その湯気が冷えて霜になり、荼毘様の肩に白く降りた。
溶かした水も、あの青年の手の内だ。
「君がクラウディオか」
「左様でございます」
「最高指導者は、取れるなら取れと仰った。傷は問わない。取れないなら、それまでだと」
氷の刃が青年の周りに浮かぶ。今度は正面から来ない。左右に開いて、弧を描いて回り込んでくる。
「僕の見立てでは……取るほどの価値はない」
右から来た刃を糸で受けて、軌道だけ外へ流す。左の刃は身を沈めてかわす。背中から回った刃に気づいたのは、肩口の布が裂けてからだった。
「わからないな……最高指導者がなぜ君のような者を欲しがるのか。仕えるだけの者に、何の力がある」
「過分なお言葉を」
「最高指導者の作る社会では、異能の強い者が上に立つ。今の社会は弱い者に合わせて、強い者を縛っている。それが歪みだ」
「……左様でございますか」
「僕たちはそれを正す。強い者が上に立ち、弱い者が仕える。当たり前のことだよ」
「……当たり前、ねえ」
荼毘様が煙を吐いて、青年はそちらを見もしない。
糸を手元に引き戻す。
「存じております」
「……何を」
「坊ちゃんのお傍で、その順番の中に九年おりましたので」
血で個性を磨いた強い者が上の席に座り、外様の使用人は膝をついて額を石につける。この青年が新しい時代と呼んでいるものは、二百年続いた屋敷の中に、とうの昔からあったものだ。
青年が眉を寄せて黙り込む。そして背後で荼毘様が短く笑う。
「……どこでも……同じこと言いやがるな!」
その一言のあとだけ青い炎が強くなって、青年は溶けていく氷を見下ろしている。
切っても切っても氷は尽きない。
糸は一本ずつしか切れないのに、氷は面で来る。足元が凍りついて踏み込むたびに靴底が滑り、息を吸うたびに肺の奥まで冷たいものが入り込む。
荼毘様の炎が溶かすたびに、湯気の向こうでまた氷が育っていく。
青年が指を軽く振ると、通りの両側に氷の壁がせり上がった。坊ちゃんの消えた方角へ踏み出す。目の前に壁が生まれる。
糸を軒先の看板へ投げて体を引き上げる。壁の縁に靴先が掛かった。
その上にもう一枚。
看板ごと凍りついて糸が手元で軋む。指を離して元の通りへ落ちた。
「行かせないよ。君の主は、こちらで丁重にお預かりする。傷一つつけずにね」
手が一瞬だけ止まった。
傷一つつけずに。
坊ちゃんを連れ戻しに来たときに、家の人間も同じことを言った。
「おい」
青い炎が坊ちゃんの消えた方角の氷壁に叩きつけられて、壁が溶けて崩れ、向こうの路地が覗く。
「行けよ」
荼毘様はこちらを見ない。青年のほうを向いたまま、手の甲の縫い目から細い煙が昇っていく。
「坊ちゃんの所に行け。ここは焼いとく」
「……荼毘様」
「様はやめろ……気持ち悪ぃ」
青年が新しい氷を作りかけて、荼毘様の炎がそれを呑む。
「ですが、そのお体では」
「お前に心配されるほど落ちぶれてねえよ」
「では、戻りがけにお煙草を一箱、買ってまいります」
「うるせえ、早く行け。お前ここにいたら死ぬぞ」
足が動かない。
焼けながら戦う男を、ここに一人で置いていく。それが正しいかどうか、考えかけてやめた。
「……ご武運を」
深く頭を下げて、溶けた壁の向こうへ駆け出す。背中で青い炎と白い氷がぶつかる音が鳴りやまない。
「さあ諸君……お立ち会い」
コンプレスがシルクハットのつばに指をかけた瞬間、マグネがその背中を叩く。
そのまま路地へ走り込んで、更に住人へ極性を付与していく。
叩かれた住人の体が浮いた。道から、屋根の上から、雨樋にしがみついた男は雨樋ごと剥がれて、全員が同じ一点へ引きずられてくる。コンプレスの両手の前へ。
コンプレスの指が飛んできた順に触れていくと、人が消えてビー玉が増えていく。
一人だけ、横の壁で跳ねて軌道がずれた。マグネの頭のすぐ上を掠めて、コンプレスの手に吸い込まれる。
「お見事」
「あんたもね……ちょっと!今の一人、あたしの髪かすったわよ」
「道が狭くてね」
「狭くしてるのはあたしよ、文句ある?」
「とんでもない!助手が優秀だと助かるんだ。」
「誰が助手よ」
マグネが磁石を振りかぶって次の束を叩けば、コンプレスがそれを受けてまた玉に変えていく。路地を埋めていた住人が、見る間に減っていく。
「手品師冥利に尽きるね〜観客の方から舞台に飛び込んでくれるとは」
「観客じゃなくて敵よ」
「どちらでも、拍手はもらえない」
コンプレスの手のひらの上で、ビー玉がじゃらじゃらと鳴る。
最後の一人が倒れたとき、その腰から無線機が転がり落ちて、ざらついた音が漏れ出した。
『キュリオス様の応答がありません。区画七……応答なし』
『医療班は区画七へ急行。若は負傷。至急回収せよ。最高指導者のご命令だ、若にこれ以上一滴も血を流させるな』
『女は確保、抵抗するなら処分して構わない』
マグネの手から磁石が下がる。
「……女」
その顔から血の気が引いていく。
「トガちゃんよ、それ」
「若が負傷……とも言っていた」
コンプレスがビー玉を外套の中にしまいながら言う。声は軽いが、帽子のつばの下の目は笑っていない。
「区画七は……どっちだ」
マグネは無線機を拾い上げて、握りつぶすように掴んだ。
「行くわよ」
「もちろん」
二人が路地を走り出す。
人の波に押し流されて、気がつけば塔の足元に近い大通りだ。
スピナーは死柄木の背中を掴んだまま、肩で息をしている。押されて、引かれて、何度も転びかけて、そのたびに死柄木のフード付きのパーカーを握り直す。離したら二度と見つけられない気がした。
頭の中でまだあの声が響く。異形に生まれれば、生まれたことそのものを嫌われてきたのです。
知ってると思う。教室の後ろの囁きも、店の入口で止められた日のことも、全部覚えてる。それをあんなふうに、大勢の前で、正しいことみたいに言ってくれた大人は初めてだった。
「……スピナー離せ、動きにくい」
「あ、悪い」
手を離す。死柄木は振り返りもしないで、通りの先から目を離さない。
そこに選挙カーに乗った男が立っていた。
さっき商店街の出口で演説していたときとは、顔つきが違う。笑ってもいないし熱もない。通りに溢れた住人たちを、盤の上の駒みたいに眺めている目だ。
「死柄木弔……最高指導者は塔の上でお待ちです。ですが、そこまで辿り着かせる理由は、私にはありません。理念のない破壊者を、あの方の前に立たせるわけにはいかない」
「知るかよ……邪魔なんだよ、お前ら……どかねえなら殺す」
男は少しだけ眉を上げて、それから視線をずらす。
「スピナー」
名前を呼ばれて背筋が伸びる。
「君のことも調べてある。部屋に閉じこもって、ステインの映像を見て、外に出てきた。ステインの思想に乗り、今は死柄木弔に乗っている。自分の足で立ったことが一度もない」
息が止まった。
「異能もそうだ……壁に貼りつくだけの力では、新しい時代に残る価値がない。君は最初から、私たちの中に入っていないのですよ」
言われた意味がわかった途端、顔が熱くなる。
「……演説じゃ……異形がどうとか言ってたくせによ」
「あれは、聞かせる相手に向けた言葉だ」
男の表情は少しも動かない。
拳が白い、言葉は本当だ。さっき……あいつがそう言っていた。あのときはその先がよくわからなかったけど、今はわかる。本当の言葉を、この男は自分みたいな奴を動かすためだけに使った。使い終わったら、もう見向きもしない。
「……おい」
死柄木の声だ。首を掻く手が止まったままだ。
「うちのを……勝手に値踏みしてんじゃねえよ」
「値踏みではありませんよ、事実の確認です」
「知らねえよ……!お前がどんな社会作りてえのか知らねえし、興味もねえ。強い奴が偉いだの、弱い奴はいらねえだの、勝手にやってろ……イライラする」
死柄木が一歩前に出る。
「でも、うちのに口出すな」
男が口元に手を当てる。
「……同志の皆さん!そこに、価値のないものがいます。私たちの中には入らない、裏切り者の異形です。片付けましょう」
人の波がこちらへ向き直った。
人の波がこっちを素通りしていく。
肩がぶつかる。誰も足を止めない。全員の目が、すぐ後ろのスピナーに向いている。
振り返ったときには、もう緑の頭が見えなかった。腕を掴まれ、肩を掴まれ、背中に誰かがのしかかって膝が折れる。刀を抜く暇もない。その上にまた一人、また一人と折り重なって、誰かの手が首にかかる。
人の山の隙間から緑の腕が一本だけ突き出している。
首が痒いけど掻かない。
こいつらが正しいかどうかも、異形がどうとかいう話も、どうでもいいんだ……うちのに手を出した奴は、全部外だ。
「……俺のに触んな」
一番手前の男の背中に、五本の指で触れる。
男が崩れた。そこで止まらない。崩れていく男の肩に手を置いていた隣の男へ、崩壊が渡る。その男の腕を掴んでいた女へ。女の背に覆いかぶさっていた学生へ。肩から肩へ、掴んだ手から掴まれた腕へ。折り重なった人の繋がりを伝って、崩壊が山の中を走っていく。
触れたのは一人だけだ。
最後に残ったのは、スピナーの腕を掴んでいた男の手だった。その手首が崩れ、掌が崩れて、指が一本ずつ崩れていく。スピナーの袖の上で止まった。
粉になった指が、さらさらと袖からこぼれ落ちていく。スピナーの腕には、何も起きていない。
「……今の、なんだよ」
粉の中で咳き込みながら、スピナーが体を起こす。
「知らねえ」
自分の手を見下ろす。指を開いて閉じて、また開く。
分からない。触れたのは一人だけのはずだ。
通りの向こうで、背広の男が白く舞う粉を見ていた。
「……触れた相手から……触れている相手へ。報告には……ない」
男は口元に手を当てかけて、止める。
「同志の皆さん……下がりなさい。彼に触れてはいけません」
スピナーが立ち上がる。膝が笑っている。刀を拾って握り直して、背広の男を睨んだ。
「……空っぽで悪かったな……ステインに乗っかって……今はこいつに乗っかってる。その通りだよ……」
声が震えている。それでも止めない。
「でもな……こいつの隣は空っぽじゃねえんだよ!」
背広の男は何も言わない。
首に伸びかけた指を下ろして、顔を上げる。通りの先にあるのは塔だ。
「……上か」
それを言うなり歩き出した。後ろから足音がついてきてフードは引かれず、足音が隣に並んだ。
区画七の外れで、白い腕章をつけた男たちが担架を広げている。
「若の位置は」
「最後の報告では、民家の庭の方角へ」
「急げ……無事にお連れしろ」
男たちが走り出す。
その先の低い生け垣の向こうで、物干し竿の洗濯物が揺れていた。