タワーの最上階は下の喧騒が嘘のように静かだ。
椅子に縛られたまま、右手の先の感覚がないことにもう慣れはじめたところだよ……指がねぇし、包帯は巻いてもらった。巻いたのは指を落とした本人だ。
「彼の名前を……君は知らなかった」
窓際のあの男が言う。背中が、街の明かりを受けて黒く浮かぶ。
「外国の子どもという事しか知らなかったんだね。そうなのだろう?」
「……客の名前は、聞かねえ主義でね」
「立派な主義だよ。だが……惜しい」
リ・デストロは振り返って、机の上の書類を一枚取り上げた。俺の目にも見える。そこには写真が一枚ついていた。
「アルテミス・エル・トローノ君……二百年、強い異能と強い異能を掛け合わせ続けた家の、最新の一人。十歳で家の金を動かして当主に内定……そして十三歳でその家を自分の足で出た」
男の声に熱がこもっていく。演説のときの声だ。聞く者が一人しかいなくても、この男は同じ声で喋る。
「わかるかね?彼は血の檻のいちばん奥で生まれたんだ。檻の中で、檻の主になるはずだった。だが……それを捨てたんだ、捨てて、何の後ろ盾もない国へ来た。抑圧から自らを解き放つというのは、本来そういうことだ。私の祖がはるか昔に掲げ、この国に踏み潰されたものを、あの子は十三歳で体現した。二百年の異能の頂点が……だ」
「……」
「美しいとは思わないか!?」
リ・デストロは興奮しながら書類を俺の目の前に突きつけてくる……近ぇよ。少しだけ笑う。口の中が切れていて笑うと痛い。
「……あいつはそんな綺麗なもんじゃねえよ」
「ほう」
「帳簿で生きてるガキだ。俺に払う金も、一円単位で値切って来たんだぜ……」
「計算をするのは、檻の中で生き延びるためにそうするしかなかったからだろう?」
リ・デストロが微笑む。俺の言葉を少しも否定しない。否定せずに、自分の話の中に収めてしまうのだ。
「それから……渡我被身子」
もう一枚の書類を取り上げる。
「血を好む少女……好きな相手の血を欲しがり、その相手になりたがる。それが彼女の生まれ持った自然だった。だが、この社会はそれを病と呼んで、矯正しようとした。笑顔を作らせ、普通の顔を強要したんだ。そして彼女はそれに従おうとして……従いきれなかった」
男は書類を机に置いて、その上に掌を重ねておく。
「これは悲劇だ……彼女の異能は、この社会と噛み合わなかった。ただそれだけのことで、彼女は人殺しの名で呼ばれている。噛み合わない歯車を、歯車のほうが悪いと言って捨てる社会……私が壊したいのはそれなんだよ。理想は誰もが自分を解放して好きに異能を振るう社会だ」
「……あんた、喋るの好きだな」
「性分なんだよ」
扉が叩かれる。三度だ、神経質なほど正確な間隔だ。
「入りたまえ」
スケプティックは部屋に入ると、まずネクタイの位置を直して、それから襟を直す。髪に触れかけて手を止めた。
「ご報告を」
「どうぞ」
「区画七……キュリオスが死亡しました」
部屋の空気が止まった。
「……続けて」
「渡我被身子によるものです。生き残った同志の無線報告によれば、渡我は若の血を用いて変身し、その際あの若の個性を写し取った。あの上下を置く個性です。キュリオスの爆破は渡我に一切通らず、キュリオスは……」
スケプティックの声がそこで一度途切れる。指が髪に触れた。一度だけ。
「……腕を……もがれました……素手で。それから頭を」
「……名は名乗らないように……と作戦を組んだはずだが?」
「恐らく……誰かが名前を呼んでしまったのかと」
「…………」
「それと若が負傷しておられます。右の足を骨折、右手の指も数本……キュリオスの仕掛けた地雷を踏まれました。医療班が向かっていますが、まだ回収できていません」
窓際の男の背中から目を離さない。
何も起きない……少なくともそう見えるだけだ。リ・デストロは黙って立ったまま、ただ机に置いた掌の下で、書類がゆっくりと皺になっていく。肩が、ほんの少しだけ膨らんだように見えた。顔に黒い筋のようなものが一本浮いて、すぐに消える。
「……誰も君を傷つけない……と」
リ・デストロの声は静かだ。
「私はそう言ったね?街じゅうに向けて」
「申し訳——」
「キュリオス……彼女を責めてはいけない」
スケプティックが顔を上げる。
「彼女も本意ではなかったはずだ。彼女はあの子を生かして掲げるために、誰よりも熱心に準備をしてくれていたよ。彼を傷つけることなど、望んでいたはずがない。どこかで何かが……彼女の書いた筋書きを狂わせたのだろう。彼女の死を……彼女の過ちで汚してはならない」
「……はい」
「それから」
リ・デストロは掌を書類から離す。皺になった紙の上で、あのガキの横顔が歪む。
「渡我被身子が異能を写し取った、と言ったね?報告では変身だけの異能だ」
「はい、その通りです」
「変身で……血を飲んで異能まで」
男の目の色が変わる。さっきまでの熱とは違う、もっと静かなものだ。
「……なんということだ」
それは怒っている声ではない。
「あの娘の異能もまた、この社会が病と呼んで閉じ込めようとしたものだった。それが二百年の到達点を写し取った。抑圧された者が、抑圧の頂点を纏ったんだ。キュリオスは……それを見て死んだのだな?」
口の中の血を飲み込む。
この男は部下を殺した娘を前にして、その娘を称えているのだ。
「だからこそ」
リ・デストロが目を閉じる。
「終わらせてあげなければならない」
「……」
「彼女は同志を殺した。同志の血に濡れた手で、新しい時代の側に立つことはできない。私が迎えたとしても、十万の同志が彼女を許さないだろう……あの娘は抑圧の果てに……もう戻れない場所まで来てしまった」
男の声に本物の哀れみが滲む。それがわかる。わかったから余計に寒い。
「悲劇は、悲劇のまま閉じるべきだ……渡我被身子は処分してあげなさい」
「……承知しました」
スケプティックは頭を下げた。上がるまでに少しだけ間があく。
「私が参ります……区画七の残りの同志は、もう渡我を抑えられる状態にありません」
「頼んだよ」
スケプティックが部屋を出ていく。
タワーの下の階の一室に入って、鍵をかける。
壁には人形が数十体もずらりと並んでいる。
机の上のノートパソコンに資料を呼び出す。仲買人の携帯は、本人よりよほど口が軽かった。
分倍河原仁……
かつて自分を複製して盗み三昧、複製は本人と同じ記憶を持ち、同じ顔で、同じ声で自分こそが本物だと言った。複製同士が殺し合って、最後に一人が残った。その一人が本物だったのかどうかを、本人も含めて誰も証明できずそれ以来自分を複製できない。だから顔を覆っていないと自分の形を保てない……と、短絡的過ぎるな、この男は。
「……三日もあれば丸裸だ」
並んでいるのは同じ男だ。無精髭で顔に傷のある男だ。背丈も、肩幅も指の長さも、資料の数値どおり。連合九人のうちの一人の型を、こうなる日のために揃えてあったのだ。
ノートパソコンを叩いて起動すれば、人形の指がぴくりと動いた。
キュリオスの顔が浮かぶ。会議で記事の構成を語るときの、楽しそうな顔だ。彼女の筋書きは狂わされたのだ。そして狂わせたのは渡我被身子だ。
キュリオスは貴重な人材だった。
ノートパソコンの通信を人形の一体につないでから、椅子に座って、目を閉じる。
区画七へ向かう道筋を、二十の同じ顔が一斉に走り出した。
「トガちゃーん!いねえ!どこだよ!!」
区画七の路地を走る。
さっきから、どこもかしこも黒焦げだ。塀が崩れて、電柱が傾いて、アスファルトに穴が開いている。人が何人か倒れていて、何人かは倒れていた場所ごと、跡形もない。
足が止まった。
アスファルトの上に赤い線が引かれている。
細い。途切れ途切れで、ところどころ手の形に滲む。誰かが這ったあとだ。線は路地の脇の、低い生け垣の切れ目へ続く。
「……おい」
声が勝手にしぼむ。
生け垣の下へ体をねじ込む。
どこかの庭だ。物干し竿に洗濯物が揺れていて、プランターにミニトマトが成って、三輪車が転がっている
縁側の柱にもたれて、坊主が座っていた。膝の上に、トガちゃんの頭が乗っている。
「……トゥワイス」
坊主が顔を上げる。紙みたいな顔色だ。右足の向きがおかしい。右手を胸に抱えるようにしていて、その指が何本か、見ちゃいけない角度で曲がっている。
トガちゃんは目を開けない。脇腹のカーディガンが、赤を通り越して黒い。
「おい!」
駆け寄って膝をついてトガちゃんの顔に手をかざす。
息はあるけどすごく小さい。
「おい!嘘だろ……どうしてこんな事に……目の前の事だろ!」
「……生きている」
坊主の声がかすれて、聞き取りにくい。
「まだ……だが血が足り……ない。早く運ばないと」
「任せろ!そんなの無理だ!任せろって!」
トガちゃんを抱え上げようとして、坊主のほうへ目が行く。
坊主は歩けない、あの足じゃ一歩も無理だ……指も折れてる。トガちゃんを抱えたら、坊主を抱えられない……坊主を抱えたら、トガちゃんを置いていくことになってしまう。
…………二人いりゃいいんだ。
そうだよ……それが当たり前の答えだ。
俺がもう一人いれば……一人がトガちゃんを、一人が坊主を運んで……それで済む。
手が止まった。
自分を増やす?
喉の奥がひゅっと鳴る。
ダメだ……それだけはダメだ……!いつだったか坊主に言われた、俺だけは増やすなって。もう一人いたら、その一人が同じ判断をする保証はない……って言ったよな?あのときは……多分わかるぜって言ったんだよ。わかりすぎて困るくらいだった。
自分を増やしたら、増えた自分は自分のことを本物だと思う。こっちも自分を本物だと思う。そしたら、どっちかが——
「トゥワイス」
坊主の声で我に返る。
「俺は……いい……トガを先に」
……何言ってんだよ。
「バカ言え!置いてけるわけねえだろ!あぁ!置いてってやる!置いてかねえっつってんだ!」
「医療班が来る……解放軍のだ。俺には……手を出さないはずだ……俺は置いていっても……」
坊主の言葉がそこで止まった。
生け垣の向こうから目を離さない。
振り向く。
生け垣の切れ目に男が立っていた。無精髭のくたびれた中年の男の顔は……マスクの下の自分の顔だ。
「……は?」
その隣にもう一人。さらに後ろにもう一人。塀の上に、屋根の上に、物干し竿の向こうに。
自分が立っている。
数えようとして、数がわからなくなる。どれも同じ背丈で、同じ肩幅で同じ指の長さだ。自分が測るときと同じ正確さで、自分がそこに並ぶ。
「……あ……あ……?」
『分倍河原仁』
一番手前の自分の口から声が出たけど、自分の声じゃない。冷たくて、神経質で一音一音を几帳面に区切る声だ。
『お前の資料は読ませてもらった……お前はかつて、自分を何度も複製した。そして複製は皆、自分こそが本物だと言いだした。そして殺し合って、最後に一人が残った』
「やめろ」
『その一人がお前だ……だが、その一人が最初の分倍河原仁だったと、誰が証明できる?それはお前自身にもできない。だからお前は自分を増やせない。お前は顔を覆っていないと立っていられない』
「やめろ……やめろって……!」
『最高指導者はお前を確保しろと仰った。傷は問わない。そして渡我被身子は処分しろ、若は生かして連れてこいと』
自分の顔をした人形たちが、一斉に一歩踏み出す。
『安心しろ、どれも指示どおりだ』
人形が縁側へ向かってくる。正面から、塀を越えて横から。
立ち上がってメジャーを振ると、テープが正面の一体の首に巻きついた。それを引くと人形が前のめりに倒れて、縁側の踏み石に顔を打つ。その顔へ拳を落とす。
頬がへこんで、裂け目から白い詰め物が覗いた。
ほっとした……でもほっとしたことにぞっとした。
——今何でほっとした?
中身が白かったから。自分じゃなかったから。じゃあ中身が白くなかったら?殴っても裂けなかったら?
塀の上の一体が飛び降りてくる。着地したところへ踏み込んで顎を殴る。顔は裂けない。拳に返ってきたのは、妙な手応えだ。頬に自分と同じ皺が寄って、自分と同じくたびれた目がこっちを見る。
どっちだ。
これは自分か。
「トゥワイス、トガを——」
坊主の声が遠い。屋根から降りた一体が、縁側の上のトガちゃんへ手を伸ばしている。
「触んな!!」
メジャーを伸ばす。テープが人形の手首に絡んで、引き剥がした。引いた勢いで背中ががら空きになって、そこへ一体がのしかかってくる。膝が折れる。別の一体が足首を掴んで、地面へ引き倒す。
---
柱にもたれたまま庭を見る。
右足は動かないし指も握れない。動くのは口だけだ。
枠は一つ空いている。今ならまだ区別がつく。庭じゅうに同じ素顔が並んでいる中で、仮面をつけているのはトゥワイスだけだ。
「分倍河原仁を上に——」
下に置くものを呼ぼうとして、口から出かけた名前が同じだった。
分倍河原仁……
庭じゅうの顔がその名前でしか呼べない。上と下に同じものは置けない。
あの眼鏡の男は、最初からこれを狙ってこの顔を選んだのだ。
トゥワイスの背中にのしかかった人形が、仮面の縁に指を掛けた。
---
風が顔に直接当たる。
何もかぶっていない顔で庭を見ると、自分だらけだ。
塀の上で自分が見ている。物干し竿の陰で自分が見ている。生け垣の切れ目で、縁側の前で、すぐ目の前で、自分が自分を見ているのだ。同じ無精髭に同じ皺。同じくたびれた目。今自分がしている顔と、寸分違わない顔。
どれが俺だ。
「あ……あ、あ……」
手で顔を覆う。指の隙間から自分の顔がこっちを覗く。
「俺だ……俺が俺だ……!違う!俺じゃねえ!俺だっつってんだろ!!どれだ……どれが……!」
膝が地面につく。頭を掻きむしる。皮膚の下で、何かがぐずぐずと崩れていく。継ぎ目がほどけていく感じがする。
あのときと同じだ。
あの夜……同じ顔が同じ声で、俺が本物だと叫んでいた。全員が泣いていて、全員が自分だった。
『そうだ』
目の前の人形が冷たい声で言う。
『それがお前だ……分倍河原仁』
「ちがう……ちがう……!!」
叫ぶ。自分の声なのか、どの自分の声なのか、もうわからない。
縁側の上で、トガちゃんの手がほんの少しだけ動いた。