白い腕章が路地のアスファルトに散らばっている。
担架が二つ横倒しだ。銀色の箱が三つ。点滴の袋の入った鞄がいくつか。持ち主たちはもう誰も起き上がらない。
「若は負傷、至急回収せよ。女は処分して構わない……」
マグネが拾い上げた無線機の声を真似るように言う。それから無線機を握り潰す。プラスチックが割れて中の部品が指の間からこぼれる。
「処分して構わない……って言ってたわよ。ふざけてる……」
「トガちゃんとアルテミスが心配だな……早く行こう」
コンプレスは担架の脇にしゃがんで銀色の箱に指先で触れていく。一つ。二つ。三つ。箱が消えて手のひらにビー玉が転がっていく。鞄も点滴の袋も担架も。路地に残ったのは白い腕章と動かなくなった男たちだけだ。
「医者から薬を取り上げるのは、少々気が引けるけどな!」
「気が引けてる顔じゃないわよ」
「よく見てるな」
コンプレスはビー玉を外套の内側にしまって立ち上がる。帽子のつばの下で目は少しも笑っていない。
「区画七……民家の庭だ」
「行くわよ」
生け垣の切れ目をくぐったところで私の足が止まったわ。
庭が同じ顔だらけ……
塀の上にも屋根の上にも同じ男たちだ。地面には裂けた人形が転がり、白い詰め物があたり一面に撒き散らされて雪のようだ。足元のあちこちが泥で黒い。何も知らない顔で揺れているのは物干し竿の洗濯物だけだ。
「……何よ、これ」
縁側にトガちゃんが二人寝ている。
片方は紙みたいに白く、脇腹のカーディガンが黒く固まっている。もう片方は頬に赤みが差し、眠っているだけのようだ。二人の腕の間を見覚えのある筒と細い管がつなぐ。
縁側の柱の前にあの子がいる。
同じ顔の男たちの一人に肩を担がれ、首が垂れ下がって動かない。右足が膝の下で曲がっている。曲がるはずのない方向に。胸の前に抱えた右手は指が何本か変な角度を向く。
その横で膝をついているのが本物らしいトゥワイスだ。両腕が肩から下でぶらりと揺れるだけだ。
「マグ姉ぇ!コンプレスゥ!来た!俺も今来たとこ!遅せぇよ!」
仁ちゃんが泣いている。顔を隠していない。くたびれた中年の男の素顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「坊主が!トガちゃんが!人形が首を!俺の顔で!腕折られて!でも消えなくて!増えた!いっぱい増えた!増えてねえ!増えたんだよ!!」
「……わかったわ。わかったから落ち着きなさい」
わかってなんかいない。わかったのは、あたしたちが遅かったことだけ。
コンプレスが帽子を胸に当て、何か言いかけてやめる。軽口が一つも出てこない顔なんて、見たことがない。
「コンプレス!」
「わかってるさ!」
コンプレスが外套から一握りのビー玉を出して縁側の板の上に転がす。指を鳴らす。銀色の箱と鞄がぽん、ぽんと元の形に戻っていく。
「トガちゃんは俺が預かるから。若君は任せたよマグ姉」
「言われなくても」
あの子を担いでいた分身の腕から小さな体を受け取ると、驚くほど軽い。縁側に寝かせると、あの子の目が薄く開く。
「……マグネ」
「喋らなくていいわよ」
「トガを……先に」
「黙ってなさい」
鞄を開ける。添え木と包帯とテープ、それに痛み止めの注射まで入っている。手が勝手に動く。こういうことは昔から体が覚えてるのよ。
右足の膝の下に手を添えると、あの子の体が跳ねた。歯を食いしばって声を殺す。
「……ごめんね。まっすぐにしないと……くっつかないのよ」
骨を元の向きに戻し、添え木を当てて包帯を巻く。指を一本ずつ揃えて細い板と一緒にテープで留めていく。あの子は一度も声を出さない。出さないように、ずっと奥歯を噛んでる。
腹に手を当てたところで、あの子の顔が大きく歪む。
「……ここ、どうしたの」
「……殴られた」
「誰に」
「……人形に……あの眼鏡の男の声で」
手が止まった。
こんな小さな体で、足の折れた子を誰かが殴った。
あの日、この子はあたしを助けた。治崎の手が胸に届く前に、あたしの名前を呼んで。あたしは何もしていないのに、この子は自分の枠を一つ使ってあたしを生かした。
その子が今、目の前で腹を押さえてる。
「……そう」
声が低くなっているのが自分でもわかる。
「覚えておくわ……そのふざけた男」
「……無線」
「え?」
「さっき、拾ってた」
「……若は負傷、至急回収。女は……処分して構わない、って」
言ってから、言わなきゃよかったと思った。あの子は目を閉じて、何も言わなかった。
隣ではコンプレスがトガちゃんの腕から筒の針を抜く。銀色の箱から出した輸血の袋と管に手早く付け替えていく。片方の針をもう一人のトガちゃんの腕へ。もう片方を本物のトガちゃんの腕へ。袋は物干し竿の端に引っかけて高さを合わせておく。
「点滴台は……物干し竿で我慢してもらうよ……ごめんねトガちゃん」
脇腹のカーディガンを鋏で切り開く。傷口にガーゼを押し当て、上から包帯できつく巻く。トガちゃんが小さく呻く。首の赤い指の跡もまだ消えない。コンプレスはそれを一度だけ指でなぞって何も言わない。
「息は戻ってきている。トゥワイス、よくやった」
「やってねえ!やった!やったのか!?」
「やったとも」
コンプレスはトゥワイスの前にしゃがみ、垂れた両腕にも添え木を当てていく。トゥワイスはぼろぼろ泣きながらされるがままだ。
__
生け垣の切れ目で、足が止まる。
庭が同じ顔で埋まっている。散らばった詰め物。縁側に寝かされた二人のトガ様。
それから、縁側の端。
坊ちゃんがマグネ様の膝の横に横たわり、右足に添え木を当てられている。右手の指は一本ずつ板に留められ、腹を押さえた左手の震えが止まらない。顔は紙よりも白い。
私は動けない、口は開くのに何も出てこない。
ずっと後ろに立って、毒見をした……銃口の前に立った……屋敷を抜ける夜も国境も、神野も、八斎會の地下の外でも……!この方の体に取り返しのつかない傷がつかないように……!それだけをただひたすら……ひたすらやってきたというのに……!!!
離れていたのは十数分だ。
手袋の指先が震えだして、止めようとしても止まらない。
「……坊ちゃん」
声が掠れてそれ以上は続かずに、坊ちゃんが首だけをこちらに向ける。
「……遅い」
掠れた声だ。それでもいつもの声だ。
「荼毘は……」
「……幹部の足止めを、お一人で」
「……そうか」
それきり目を閉じてしまわれる。
ようやく一歩だけ前に出て膝をつく。マグネ様が黙って場所を半分だけ空けた。
「そうだ!」
トゥワイス様が添え木を当てられたまま叫ぶ。
「マグ姉!コンプレス!お前ら増やす!いやお前らは増やさねぇ!増やすっつってんだろ!増やして死柄木んとこに行かせる!本物はここで坊主とトガちゃん見てろ!!」
「……あたしたちを?」
「測ってある!連合入ったときに全員測っただろ!」
トゥワイス様の分身がマグネ様とコンプレス様の横に一人ずつ立つ。次の瞬間、そこにもう一人のマグネともう一人のコンプレスがいた。
「あら」
もう一人のマグネが自分の顔を見て眉を上げる。
「あたし……こんなに美人だったかしら」
「帽子の角度まで正確だ……これは手品師として嫉妬しちゃうね」
複製の二人が顔を見合わせて頷く。それから揃って生け垣のほうを向く。
「弔ちゃんのとこね」
「タワーだね、あの方向だ」
「……待て」
縁側から声がする。
坊ちゃんが目を開けている。
「俺も……複製しろ」
庭じゅうの同じ顔が一斉に黙る。
トゥワイス様の口がぽかんと開く。
「……は?」
「俺も増やせ、塔へ行く」
「坊ちゃん」
「その体では――」
「一つ」
「……は?」
「足二つ、指で三つ、トガの……トガの腹が四つ……!トゥワイスの……」
止まる。
「……三つ……トガの」
また三つに戻った。
「トガの腹四つ……四つが、出てこない」
目はトゥワイス様の腕を見ている。見ているのに、口が追いつかない。
「……あいつ、俺の前で」
続きがない。
「トガを……俺の前で……処分する気だった!」
私は何も言えない。坊ちゃんの指が添え木の上で動いた。数えるときの動き……動いて、止まった。
「……行く」
「……いいのかよ」
トゥワイス様が言う。いつもの裏返しがない。
「お前……言ったろ。前に俺だけは増やすなって。増えた奴が同じ判断する保証はねえって」
「言った」
「じゃあ――」
「今日の俺なら……何人に増えても同じことを言う……何か言ってやらないと気が済まない!」
坊っちゃんは少しだけ息を整えて、再度口を開いた。
「お前と同じだ……」
トゥワイス様の顔がくしゃっと歪む。それから泣きながら笑う。
「……わかるぜ……それ!」
分身たちがメジャーを持って縁側に上がってくる。
小さな肩に当てて、腕に当てる。脚に当てる。添え木の上からはそっと。
「あ!違う!前と違う!」
「……全部測り直せ」
「おう!」
測り直す。
縁側の板の上に、もう一人の坊ちゃんが横たわる。
同じ顔だ。右足は膝の下で曲がり、右手の指が何本か変な角度を向く。腹を押さえて薄く目を開けるところまで同じだ。
本物と同じ傷を全部抱えたまま。
「……歩けないな……これでは」
複製のほうが自分の足を見下ろして淡々と言う。声までそっくり同じだ。
「クラウディオも増やす!」
トゥワイス様が叫ぶ。
「測り直さなくていい!もう伸びねぇよ!変わってねえからな!」
分身が私の横に立つ。そこにいるのはもう一人の私だ。白い手袋に裂けた上着の肩口と乱れた髪。
複製の私は迷わず、縁側に膝をつき、小さな体の下に腕を差し入れる。折れた足を揺らさないよう、ゆっくりと抱え上げていく。
「……失礼いたします、坊ちゃん」
「……ああ」
半歩後ろに立ってきた私が、今は坊ちゃんを腕に抱えて立っている。
黙って見つめるしかない。私と同じ背中が、私と同じ手つきで坊ちゃんを抱えている。
どちらかを選ばなくていいと思う。
この方の横に残る自分と、この方を運んでいく自分と。今日は両方がいる。
複製の私に言う。
「……坊ちゃんを……お願いいたします」
「心得ております」
複製の私は深く頭を下げる。腕の中の坊ちゃんを少しも揺らさずに。
複製のマグネと複製のコンプレスが先に生け垣をくぐっていく。分身の群れがその後に続く。最後に、主を抱えた執事が。
縁側の上から、それを見送る。
自分と同じ顔が、複製の執事の腕の中で首だけをこちらに向ける。
目が合ったが、何も言わない。言う必要がない。向こうが何を考えているかは全部わかる。自分が考えていることと、多分一つも違わないはずだ。
――四つ目。
生け垣の向こうへその顔が消えていく。
自分を見送るのは初めてだった。