メキシコのシナロア州。乾いた山の中腹に、その屋敷はある。
堀の内側に入れば、そこが何であるかがわかる。武装した男たちの数、監視塔の位置、地下へ続く搬入口。二百年かけて積み上げられた、家の心臓部。
議場には十一の席がある。長い卓を囲んで格の順に並べられた椅子は、すべて本家の血を分けた分家の当主のために用意されたもので、この席に座る資格は生まれによってしか得られない。
今日はそのうちの二つが空席だ。北の国境と、南の港。どちらも席の主が現地を離れられない。
そして卓の正面、一段高いところに置かれた当主の椅子にいるのが、アポロ・エル・トローノだ。
二十五歳。この家……エル・トローノ・カルテル十七代目の当主。九年前、父が心臓を止めて倒れた日に、十六歳でその椅子に座らされた男だった。
「捜索の報告を」
アポロが言うと、末席の幹部が立ち上がる。
「北米三か国、中米全域、ヨーロッパ主要都市。同業者にも手を回しましたが、いずれも該当なし。空港と港の記録も、当日から三日分を洗い直しましたが、若の名で動いた形跡はございません」
「金は」
「本家の口座に動きはありません。持ち出された分は、今のところ一度も使われた痕跡が出ておりません」
議場が、わずかにざわつく。
「……半年以上」
卓の中ほどで、一人の男が言う。
背が高く、白髪をきっちりと後ろに撫でつけた男で、年齢は四十を過ぎているのに、体つきは若い兵のように引き締まったままだ。
マキシミリアーノ。席次でいえば十一のうち六番目の、上でも下でもない真ん中の席。
「当主殿におかれましては」
男が立ち上がって、恭しく頭を下げる。
「これ程の時間かけて、まだ影も掴めぬというご報告を……我らは聞かされているわけですな」
「手は尽くしている」
「尽くした結果が……これですか」
「マキシミリアーノ」
「余は、当主殿を責めているのではございません」
男が胸に手を当てる。
「ただ……事の重さを申し上げたいのです。二百年。十七代。この家が積み上げてきたすべては、あの御方のためにあった。個性、血、頭脳。あれほどの到達点は、今後二百年を費やしても二度と生まれますまい」
誰も反論しない。この議場に、その点を疑う者はいない。
「その御方が今どこにおられるかもわからぬ。蟲けらの巣でどのような扱いを受けているかもわからぬ。……当主殿。余は夜も眠れませぬ」
肘掛けに置いた手を、アポロは動かさない。この男は嘘をついていない。本当に眠れていないのだろう。そこが一番厄介なところだ。
「捜索の権限を余にお預けいただきたい。現地の判断を仰いでいては遅い。余に人と金を預けていただければ、半年で結果を出してご覧に入れます」
「方法は」
「蟲けらに……蟲けらの言葉で問うだけのこと」
卓の端で、誰かが小さく息を吐く。
議場の空気は、もうほとんど動かない。この男に任せれば何が起きるかを全員が知っていて、知っていて誰も止めない。十一の席のうち九つまでが、若を推す側だ。その事実の前では、当主の言葉は暫定の措置でしかない。
幹部たちの顔を、順に見ていく。
誰も、自分を見ていなかった。
「……検討する」
「ご英断を」
深く頭を下げて席に戻るマキシミリアーノの所作は、どこまでも礼にかなっていた。
「執事長を呼べ」
誰かが言って、議場の扉が開いて、老人が入ってくる。黒い燕尾服に白い手袋。背は曲がっていないのに、足の運びだけが以前より遅い。歳は七十に近いはずの、協会の執事長。この家に仕える執事たちを、五十年束ねてきた男。
卓の前まで進んで、老人は深く頭を下げる。
「お呼びにより……参上いたしました」
誰も座れとは言わない。卓には空の椅子が二つあるのに、老人は座らない。この議場で外様が座ることは、十七代の間に一度もなかった。
「半年以上だな?」
マキシミリアーノが、同じ言葉を繰り返す。
「貴様のところの蟲けらが……若をさらってから」
「……はい」
「協会の出す人材は身元が確かで、恩を知り……家に忠実である。そう言っていたのは誰だ」
「……私でございます」
「その最上の一匹が若を連れ去り、金庫に手をつけた……そうであろう?」
老人は答えない。
「答えよ……」
「……返す言葉もございません」
「ひざまずけ」
誰の椅子も軋まない。
一度だけ目を伏せて、老人はゆっくりと膝を折る。七十近い体が石の床に落ちる音がして、手袋をはめた手が床につく。
「額もだ……頭を垂れよ」
「……マキシミリアーノ」
アポロが、そこで口を挟んだ。
「当主殿」
男が振り返る。
「これは家の面子の話でございます。外様の使用人が、当家の宝を持ち逃げした。その処理を、当の使用人どもの頭に問うている。何か……不都合が?」
「……」
「それとも、外の者をお庇いになりますか」
答えられない。庇えばそう言われる。当主が外様の肩を持ったと、明日には家中に伝わる。
肘掛けの上で指が一本だけ動く。爪が肘掛けの革に食い込む。それきり手は動かない。
石の床に老人の額がつく。
「申し訳……ございません」
その声には震えも憤りもない。ただ、長く生きた人間の慣れた響きだけだ。
「ケジメは」
「協会にて……取らせていただきます」
床に額をつけたまま、老人が言う。
「……クラウディオの首をもって」
議場の誰も何も言わない。
「あの者は我らが拾い、我らが育て、我らが送り出しました。その始末は、我らがつけるのが筋にございます。どうか……この件をもって、協会そのものの処分とはなさいませぬよう」
「当然だ」
マキシミリアーノが吐き捨てる。
「首一つで許されるかどうかは……貴様らの働き次第だ……分かっておろう?」
「……仰せのままに」
老人はそこで初めて顔を上げる。落ち窪んだ目が、まっすぐ卓に向いて動かない。
「ただ一つ……申し上げます」
「何だ」
「若が……ご無事でありますよう」
その一言には誰も反論できない。マキシミリアーノですら口を閉じる。
会議が終わって幹部たちが引き上げていったあと、アポロは議場の廊下を歩いた。
石畳の途中で足が止まる。柱の陰で老人が壁に手をついていて、膝が伸びきらないのか、立ち上がろうとしてはまた体が沈む。若い執事が一人、慌てて駆け寄って手を貸す。
「……見苦しいところを」
アポロに気づいた老人が、頭を下げようとする。
「……いい」
手で制する。何か言うべきだと思った。だが、どの言葉も口の中で形にならない。当主が外様に詫びれば、それはこの老人をさらに危うくする。
「……歩けるか」
「はい。お気遣いなく」
若い執事の腕を借りて、老人はゆっくりと廊下を去っていく。その背中から、アポロはしばらく目を離さなかった。
石畳の上に、白い手袋の片方。拾い上げると、指の腹のところが、床の砂で薄く汚れていた。
自室に戻ると、机の上に報告書の山がある。捜索の状況、各地の商いの数字、幹部たちの動向。
どれにも目を通さずに、窓際に立つ。山の向こうで、日が沈みかけていた。
弟が消えた夜のことは、まだよく覚えている。あの子が寝室にいないと聞いて、真っ先に思ったのは「よかった」だった。
次期当主が消えたのだ。家がひっくり返る。それなのに、最初に浮かんだのがその言葉だった。
十歳で当主に内定して、そこから三年。誰と結ばせるか。次にどの血を入れるか。そのために誰が誰を潰すか。大人たちが、十歳の子どもの人生を卓の上に並べて取り合う。それを毎日、正面の椅子から見ていた。
自分は当主だった。止める権限は、確かにあった。
止められなかった。
この椅子は、あの子が育つまでの預かり物だ。この家の全員がそれを知っていて、退任の決まった当主の言葉には誰も従わない。十六でここに座らされたときも、誰も助けてはくれなかった。同じことが、弟の代でもっとひどい形で繰り返された。
ポケットの中で、拾った手袋が指に触れる。
「……アルテミス」
誰もいない部屋で言って、言ってしまってから口を押さえる。この家の当主として、口にしてはならない言葉が、その後に続きかけた。
窓の外はもう暗い。それでもアポロは、声に出さずに続ける。
――逃げ切れ。
誰にも見つからずにどこか遠くで生きていてくれ。
当主の机には捜索の指示書が置かれたままだ。
署名はまだ入っていなかった。