生け垣をくぐったところで死柄木は足を止めた。庭がうるさい。同じ顔の男たちが塀の上にも屋根の上にも座っていて、全員がこっちを見て何か叫んでいる。地面には白い詰め物と泥がぶちまけられて、物干し竿に点滴の袋がぶら下がっている。
「死柄木ぃ!来たぞ!嘘つけ誰もいねえ!うわあああやっぱり来たぁぁぁ!!歓迎するな殺せぇぇ!!」
「……うるせえ」
縁側にトガが二人寝ている。片方の腕から伸びた管が、もう片方の腕につながっていて、本物のほうは顔が白い。首に、指の跡が赤く残ってる。それでも胸は動いている。近づくと、本物のほうの睫毛が動いた。
「……とむらくん」
「喋んな」
「記者の人……やっつけたよ……アルテミスくんの……個性で」
声というより息だ。それでも口の端が上がっている。
「……知ってる」
トガの額にかかった髪を、指を一本だけ立てないようにして手の甲でどける。
「よくやった。寝てろ」
「……うん」
トガの目がまた閉じる。その横にトゥワイスが座っている。素顔だ。両腕に添え木が当てられて、首から布で吊られている。
「……腕」
「折られた!折られてねえ!確かにボキッていったろ!でも消えなかった!耐えたぞ俺!クソ頑丈だな!!」
「知ってる。聞いた」
縁側の端にガキがいる。執事の膝の横に寝かされて、右足に添え木。右手の指は一本ずつ細い板に留められている。腹の上に置いた左手が、浅い呼吸のたびに上下する。その前にしゃがむ。
「……痛えか」
「痛い……すごく痛い」
ガキは少しも誤魔化さない。
「数えようとしたが、一まで行かなかった」
「……そうかよ」
「上には……もう一人の俺が行った」
ガキは天井を見たまま言う。
「知ってる。さっき会った」
「あの男に言いたいことがある。あっちの俺が言う」
「何て言う気だ」
「まだ決めていない……だが、あっちの俺は俺と同じことを言う」
「……なら」
膝に手をつく。
「聞き逃さないようにしねえとな……お前がわざわざ文句言いに行くんだろ、後で教えてやるよ、どんだけひでぇこと言ったか」
首に指がかかる。掻きかけて止めた。
――うちのが……三人。
塔の根元で聞いたときはまだ言葉だった。今は違う。添え木の白さと、首の指の跡と、紙みたいな顔色が、目の前に並んでいる。
立ち上がって振り返る。家々の屋根の向こうに、塔の先が見える。ここからあそこまで。方角と距離と間にある屋根の数。なんでそんなものを測っているのか、自分でもよくわからない。ただ、覚えておかなきゃいけない気がする。
視線を戻すと物干し竿が目に入る。点滴の袋の横で洗濯物が揺れている。子どものTシャツ。大人のワイシャツ。靴下が二足。縁側の下に小さな三輪車が転がっている。
――なんだこれ?
知らない家と知らない庭だ。それなのに、どこかで見たことがあるような……洗濯物の揺れ方を。縁側の木の色を。誰かの笑い声が、聞こえた気がした。聞こえるはずがないのに。
「……死柄木?」
スピナーの声で我に返る。
「……なんでもねえ」
首を一度だけ掻いた。
「上に行く」
「ちょっと待ちなさい」
マグネが、塔へ歩き出した襟首を掴む。
「歩いてったら日が暮れるわよ。まだ肋も折れてんでしょあんた」
「関係ねえ」
「関係あるわよ。着いた頃には全部終わってるって言ってんの」
マグネは庭を見回して、ぱんと手を叩く。
「トゥワイス!コンプレス増やして」
「おう!幾らでも増やしてやるよ!手間かけさせんじゃねえ!いや今すぐ狂ったように増やす!!」
「一人でいいのよ」
分身の一人がコンプレスの横に立つ。次の瞬間、帽子の角度まで同じ男が二人並んでいる。
「……自分と目が合うのは経験しても慣れないね」
「慣れなくていいわよ。あんた、弔ちゃんを玉にしてちょうだい」
複製のコンプレスが、こっちを見る。
「失礼するよリーダー」
「……ビー玉かよ」
「一番速い乗り物さ」
指先が肩に触れる。体がぽんと消えて、複製のコンプレスの手のひらにビー玉が一つ転がる。複製はそれを胸の内ポケットにしまって、上から二度叩く。
「さて、どうやって?」
「夜逃げ砲よ」
マグネが複製のコンプレスの肩と、トゥワイスの分身の肩を、両手で同時に掴む。
「男同士なら同じ磁力が乗るの。同じ極は反発する。片方を土台にして、もう片方をぶっ飛ばす」
「初耳だね」
「初めてやるもの」
「……ふむ」
複製のコンプレスは、少し考える顔をする。
「着地は?」
「塔の中腹くらいに落ちるように撃つわ。そこで着地する寸前に弔ちゃんを出して」
「着地の衝撃は」
本物のコンプレスが、帽子のつばを指で押し上げる。
「まあ、複製はまず持たないだろうね。トゥワイスの分身は、強く壊れると泥になる」
庭が、静かになった。
「……え」
複製のコンプレスが、自分の胸を見下ろす。
「俺死ぬの?」
「手品師は舞台の上で消えるもんだよ……それが、偽物の役目ならなおさらね」
本物のコンプレスが、真顔で言う。
「……拍手は?」
「後で俺がボスからたっぷり貰っとくさ。特等席で聞いてくれるはずだからね」
「それは本物の私への拍手だろう」
「同じことさ……君が鳴らしたその音が、俺の幕を上げるんだから」
複製のコンプレスは頭を抱える。
「おいおいマジか!これ着地で確実にドロドロに溶けるよね!?ショーの演出としては最悪のグランドフィナーレだよ!」
それから、しばらく本物を見て、ふっと笑って帽子を被り直した。
「これより演じまするは、空前絶後の一代マジック!使い捨てのピエロが命を賭してボスを届ける、最初で最後のグランドフィナーレだ!!」
「ごちゃごちゃ言ってないで、構えなさい」
マグネの手のひらに、磁力が集まっていく。複製のコンプレスと分身の体が、ぎし……と軋む。
「方角は」
「あっち!」
スピナーが塔を指差す。
「行くわよ……!夜逃げ砲!」
分身の体が地面に踏ん張ったまま、複製のコンプレスの体が、弾けるように宙へ飛んだ。帽子が一度だけ回って、屋根の向こうへ消える。しばらくして、塔の中腹のあたりで小さな粉塵が上がった。
「……着いたわね」
マグネが額の汗を拭う。本物のコンプレスは帽子を胸に当てて、塔のほうへ小さく一礼した。
トゥワイスは縁側に座ったまま、粉塵の上がったあたりを見ている。あの粉塵の下で自分の作ったコンプレスが泥になったはずだ。少し前までなら、それだけで息ができなくなっていた。
今は違う。
両腕が痛いまま……ここにいる。
「……行ってこい!もう帰ってくんじゃねぇぞ!いや帰ってきたら結婚しよう!」
叫んでから口を閉じる。
「……帰ってこれねえんだったな」
小さい声だ。泣いてはいない。
「……お前すげえな」
隣にスピナーがしゃがみ込んでいる。
「増えるとか……ぶっ飛ばすとか、俺なんかさっきから突っ立ってるだけで」
「すげえだろ!全然大した事ないけどなぁ……俺は天才なんだ!」
添え木の腕を持ち上げようとして、痛みに顔をしかめる。
「お前もすげえよ。お前の複製は今ごろあっちで暴れてんだろ」
「……ああ」
スピナーは、背広の男が演説していた方角を見る。遠くで、何かが崩れる音がしている。
「数に入ってっかな、俺」
「入ってるだろ!入ってるぜ!」
「……あぁ」
スピナーは少しだけ笑った。
庭にまた静けさが戻る。クラウディオは坊ちゃんの右足の添え木を巻き直している。マグネ様の手当ては手早かったが、骨の向きがほんのわずかにずれている。九年、この方の体の具合はすべて自分が見てきた。ずれは指先でわかる。
「少し……痛みますよ」
「……ああ」
骨を押し戻す。坊ちゃんの喉が鳴ったが、声は出さなかった。
——
スケプティックは生け垣の手前で足を止めている。連れてきた人形は十四体。全部起こしてきた。顔を作る時間はなかった。白いまま、首筋に髪を挿しただけだ。庭の中の声が聞こえる。分倍河原仁の騒がしい声。誰かの笑い声。
――若の確保に分倍河原仁の確保。
それだけを考える。それ以外のことを考えると、指が髪に伸びる。
若の腹。
あれが誰かの目に触れる前に。医療班の記録に残る前に。あの方の耳に届く前に。自分の手で確保する。確保して塔へ運んで、手当てをさせて、それで――それで、どうする……?
痣は消えない。
眼鏡を外して拭いて、かけ直す。それから人形たちの首筋の髪に意識を通した。
——
分身の一人が、塀の上で叫ぶ。
「なんか来た!誰もいねぇだろうが!キメェのがきてる!!!」
生け垣の向こうに、白いものが並んでいる。つるりとした白い頭が生け垣の切れ目からゆっくりと庭へ入ってくる。その真ん中に男が一人。眼鏡と仕立てのいいスーツに乱れた髪。
「分倍河原仁と……若を引き渡してもらう」
男は眼鏡の位置を直す。
「抵抗は推奨しない。こちらの人形は――」
言葉が途中で止まった。男の目が縁側の端に向いている。添え木を巻かれた右足に。腹の上の左手に。男の指が、髪に触れる。
クラウディオは添え木を巻き終える。最後の結び目を、丁寧に締める。それから静かに立ち上がる。この方の足を折った女はもういない。この方の腹を殴った男はここにいる。
「……一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
自分の声がいつもより丁寧になっているのがわかる。
「坊ちゃんのお腹に触れたのは、あなたでございますね」
男は答えない。答えないことが答えだ。
白い手袋をはめ直す。右手。左手。指を一本ずつ皺が残らないように。いつもよりゆっくりと。越えなかった線がある。この方の立場を守るために、ヒーローは殺さなかった。この方の前では、手を汚す姿を見せなかった。
目の前の男は、ヒーローではない。
「――覚えておくって……言ったわよね?」
隣で磁石が唸る。マグネ様が巨大な磁石を肩に担いで立っている。
「あたし言ったわよ。覚えておくって」
声が震えている。泣いているのではない。
「足折れたアルテミス君の腹殴って……トガちゃんの首絞めたわよね、あんた」
男が一歩下がる。眼鏡の奥の目がマグネ様と自分とを交互に見る。何かを並べようとしているのがわかる。数字か資料か何かを。
「……引石健磁……異能は磁力。射程は――」
そこで言葉が詰まって、髪に触れる。一度。二度。
糸を指先に巻き取る。
「坊ちゃん」
振り返らずに言う。
「少しだけ……お目を閉じていてくださいますか」
背後で坊ちゃんが何か言いかけて、やめた気配がした。白い人形の群れが一斉に動き出した。