魔法使い(見習い) 作:絶対撲殺少女
普通。
みんなは普通の人ってやつなんだろうか。
食べて、排泄して、寝て、人に思いを寄せて、人とともに死んでいく。
私だってそれをするだろう。
好き嫌いはあるし、気になる人も、気に入らない人だっている。
でも私には、自分が普通の人だとは思えない。
だって普通の人には、あのモヤモヤが見えないというのだから。
__
今日も一日が終わる。
学生の本分は学業。そんな標語を知ったことかと言わんばかりに、教室ではみんなが青春を謳歌している。
机を寄せて、スマホを覗いて、明日の予定を決めて、みんなで笑って。
私はすぐに、机に置いてあった教科書をしまう。
だれとも目を合わせず、だれともぶつからず。
音をたてないわけでもなく、大きく出すわけでもなく。
静かに、自然に。
教室の後ろの扉から出る。
電車のなかは好きだ。
私はすぐに帰るから退勤ラッシュに巻き込まれず、さりとて完全に人がいないわけでもない。
運が良ければ角に座れる。
疲れているのか寝ている会社員。小煩い学生グループ。やたら香水の匂いがする老婦人。
いつも通り空いている席に座り、本を開く。
チラと前を見れば、
本に目を落とし、頭に入ってこないアリストテレスをなぞった。
いつも通り、静かな帰り道。
子どもと手を繋いだ主婦、自転車をとばしている初老の男性。
下校途中の小学生たちに追い越される。
子どもたちは狭い歩道を使わず、車道を走っている。
子供から目を離し、前を見る。
私が住んでいるアパートが、ようやく見えた。
鍵を回す。
そこまでして、肩に入っていた力が抜けた。
冷蔵庫から炭酸水を出して、ベッドに投げる。
カバンを机に置き、自分も腰を下ろした。
少しも待たずに蓋を開け、吹き出した炭酸水を一気に流し込む。
今日も無事に帰れた。
__
「律さんー」
翌日の放課後。
帰り支度をしていると、珍しく名前を呼ばれた。
「なに?」
机の横に立った委員長は、テスト明けの打ち上げをするのだと教えてくれた。
初めて聞いた。
クラスでは前から話していたのかもしれない。それかチャットか。知らないけど。
行く気もなかったし、委員長も一応の体裁で誘っただけだろう。
丁重にお断りして、さっさと帰路につくことにする。
いつも通りの電車。
いつも通りの帰り道。
「あれ?」
足が止まった。
建て替え予定の古民家があったはずの土地に、小さくも立派な洋風の建物ができている。
昨日までの、古民家。
少なくとも、あんな大きい窓はついてなかった。
てかそもそも和風だったし。
歩道の端へ寄り、建物を見上げる。
大規模な工事をしている気配はなかった。帰り道は毎日ここを通るから気づかないはずがない。
でも、目の前には現実がそびえ立っている。
『OPEN』
とだけ書かれた、小さな木製の袖看板。
なにかのお店だろうか。
誘われるように近づき、威圧感を感じる大きな窓を覗き込む。
本。
本本本。
大きい棚に収まった本がズラッと並んでおり、それは全く終わりを見せる気配がない。
外から見ると、そこまで奥行きのある建物でもないのに。
興味。
おかしいのはわかっている。
昨日までなかった建物。外より広そうな店内。
普段なら、こうゆう異変は見なかったことにして通り過ぎる。
でも、窓の向こうには本しか見えない。
いつものように、こちらを向くものも、寄ってくるものもいなかった。
少しだけ。
中を見て、何かいたらすぐに出よう。
くすみをいっさい見せない金色の持ち手を押し込み、私はその異質な店に入った。
__
店の中は想像以上に大きかった。
いや、もはや巨大とさえ言える。
目の前に本棚。その隣にも本棚。
入口から奥に続く通路の両側に、背の高い棚がずらりと並んでいて、横への通路の先にも棚が見えている。
棚と棚の間は、人が二人並べるくらいだろうか。
その一つに顔を出してみた。
ずっと、ずっと先まで同じような風景が続いている。
奥には階段もある。
上にも本があるのか。これだけあって、まだ。
図書館の匂いをさらに渋くした感じ。
香でも焚いているのだろうか。息を吸うと、匂いとは別に、ほのかな煙たさが残る。
外の車の音は、もう聞こえなかった。
荘厳さ、神々しさというのはこういうのだろう。
まさに人類の叡智そのもの。
モダンに作られた駅近の本屋なんて知ったことではない、と主張しているようだ。
しかし、店員はどこだろうか。
本ばかりで人が全くいないのでは、どこになんの本があるかもわからない。
「なんて書いてあるんだろう」
棚の端に目録らしきものが掛かっている。
謎の言語。
たぶん、人の名前なんだろうが。アラビア語?
テキトウに本を取って開いてみる。
案の定、なんて書いてあるかわからない。
私は日本語と少しの英語しかできないのだ。
スマホでの翻訳も考えた…が、こんな立派なアンティークの店で画面をかざすのも、なんだか無粋な気がする。
読めないものは読めないままにしておくのも礼儀なのかもしれない。うん、きっとそう。
溜息をつきながら、本を閉じる。
足元で音がした。
トテトテ。
そんな擬音が出てきそうな、小さい二足歩行生物。
身体と同じぐらいの大きさの顔を向けて、私のことを見ている。
「…っ」
驚いてしまった。
反応してしまった。
すぐに身体を出口へ向ける。
まだ遠くない。走れば戻れる。
しかし、足元の音は近づいてこなかった。
その珍妙な生物は、私を追いかけようともせず、ゆっくりと離れていく。
店の奥の方へ。
…。
……。
………。
気になる。
昔から、ああいう奇妙なやつに反応するたびに、寄ってこられたり、襲われたりしていた。例外なく。
でも。アレは襲ってこなかった。
それに、さっきから微妙に感じていた違和感。
ヤツらがいないのだ。
人に取り憑き、モノに絡みつき、ろくでもないことをするヤツらが。
これだけ物があるのに、本棚にも、本にも、黒いものがまとわりついていない。人がいないからだろうか。
まだ先に、小さな背中が見える。
あれは、どこへ行くのだろう。
急いで本を戻し、私はソイツを早足で追いかけた。
__
どれほど歩いただろうか。
まったく変わらない景色を歩いているせいで、時間感覚がない。
あの小さな生物も、棚の間を曲がったきり消えちゃってるし。
我慢できずにスマホを開いてみたが、なんと十分もたっていない。
そんなわけないのに。
もう少し、ずっと歩いたような。
「ふべ」
痛い。
スマホを見ていたら何かにぶつかった。
鼻をさすりながら顔を上げる。
高めの木の台。その向こうに、人。
カウンターだろうか。
店員と思えるその人は、顔をぶつけた私に目もくれず、ただただ本を読んでいる。
椅子の背にもたれ、片手で開いた本を支えて、頬杖をついている。
てか態度悪。
店員がその態勢で本を読むかね普通。
めっちゃリクライニングしてるじゃん。
「アノォ…」
か細い声。
なんでこんなやつ相手にも、こんな声しか出ないのか。
少し自分が情けない。
「何か」
「え」
言葉が返ってきた。
いや、それは普通のことなんだけど。
私の小さすぎる声でもちゃんと聞こえたのだろうか。
店員の指が、本の端に掛かったまま止まっている。
待たれている。なにか言わないと。
「ここって…なにがあります?」
とりあえず簡単に、それでいて店員がすごく困るだろうことを聞いてしまった。
店員が顔を上げる。
あー、めっちゃ見てる。
そりゃ変な人って思われるよなぁ。
「本」
おーっとこれは斜め上の回答だ。
奇遇ですね。彼も変な人だったらしいです。
「あ、あ、そのー」
「なにをお探しで?」
あ、うーん。
何を探してるって言われたら何も探してないんだけど、何かを買わないってわけじゃなくて、うーん。
「お決まりになられてからどうぞ」
店員は本へ目を戻す。
沈黙。
これはなんとも居心地が悪い。
いい本屋だなーっと思っていたが、ここまで店員の愛想が悪いとは。
私、客なんですけど。一応。
ただ、変に愛想を作られるより、何を考えているのかはわかりやすい。スマホを買うときに、一生ついてきた猛者を退けた私にいい度胸だ。
用がないなら話しかけるな。そういうことだろう。
ならば、用を作ればいい。
会話を拒絶している人間と少し話してみたくなるというのも、人間の業なのだろうか。
私はカウンターに勢いよく手をついた。
店員はこちらに、綺麗で、されど暗い翠眼を向ける。
「あ、あの!」
「はい」
「お薦めの本!ありまふか!」
噛んだ。
また沈黙。
私が悪いというのか。
店員はまじまじと私の顔を見ていた。
その視線が、顔から下へ移る。
…え?
どこ見てんの?
あれ、今度は足?
思わずスカートの裾を押さえた。
制服になにかついてる?
そうでないなら、さすがに目線を隠せというか。
「これを」
「え」
いつのまにか、店員が本を差し出していた。
本というにはあまりに大きく、分厚く、凶器であった。
どっから出したの、その辞書。
片手で持てるのすごい。
両手で受け取り…重すぎるッ!!
腕が下がる。
一旦本を開くことを諦めて、カウンターに置いた。
「あ、ありがとうございます?」
「いいえ、もう買われますか」
えー。
まだ表紙も見てないのに。
読める本なのかさえ怪しい。
真ん中らへんのページを開いてみたが、日本語が見える。
ひとまず、その点は大丈夫らしい。
正直、カウンターにはあんまり長居したくない。
椅子ないし。この人、ずっとこんな調子だし。
値段だけ聞こ。
「いくらになります?」
「二千円」
やっす。
この分厚さで? 古書なのかな。
読める本を一冊見つけるだけでも、この店では大変そうだ。
せっかく薦めてもらったのだし、これにするとしよう。
財布を開いて、二千円きっちり店員に渡す。
店員はお札二枚を受け取り、カウンターの下からカバーを取り出した。
革製だ。雰囲気ある。
本の大きさにぴったり合うそれを、手早く、折れないように掛けていく。
やっぱ店員の態度以外は素晴らしい店だなぁ。
これさえ無ければ。いや、これも味のひとつか?
「こちらを」
本を丁寧にカバーし終えた店員が、一緒にうっすい木の板を渡してくる。
なにこれ。紙と同じぐらい薄い。
「これ……なんです?」
「栞です」
栞?
暗い色。柔らかさを一切感じさせない質感。
指で挟んでも、思ったほどしならない。
たぶんいい木なん…だろう。
今どきの華やかなプラスチック栞とは全く違う。
「これはこれでいいですね」
「おかえりはあちらです」
こいつ。
まったく雑談をしようとしない。
まぁいい。
二千円で、この店を知れたと思うことにしよう。
栞をポケットに入れ、本を両腕で抱える。
改めて見回すと、本棚の上の方から光が落ちていた。
高い位置にある何枚ものステンドグラス。
棚の奥は暗く見えるのに、通路は足元まで見える。
多すぎる蔵書数。
本の匂いと、静かな店内。
無愛想で遠慮が一切ない店員。
また来ようと思った。休日に。
もちろん、今度の本は自分で探すけど。
店員に促され、カウンターの側の扉に手をかける。
本を脇で支え、扉を押し開けて、そして。
入口の扉の前に立っていた。
「あれ?」
車が通り過ぎる。
さっき覗いた大きな窓。その横の、小さな袖看板。
『OPEN』
おかしい。
道理が合わない。
だって、私はずっと奥へ歩いていた。
カウンターの横から外に出れば、店の後ろ側に出るはずで。
なんで私は、私が入った入口から出てきたんだ?
振り返ろうとして、やめる。
本が重かった。
私は何も考えず、何も見ないようにして、帰路につくことにした。
__
「はぁ…」
家について、本をベッドの脇に置く。
食事を済ませ、宿題もテキトーに終わらせて、いつも通り寝る準備を整えた。
炭酸水を一気飲み。
「ん」
寝る前になってようやく、本を放置してたことに気づく。
まったく、こんな重い本を買ってしまうなんて。
持って帰るだけで腕が疲れた。
しかし、薦められたのだから、買ってしまったのだから読んでみるとしよう。
ベッドに入り、横になりながら本を持つ。
無理。
顔に落としそう。普通に重くて辛い。
上体を起こし、膝の上に置いて開くことにする。
革のカバーとは違う、ほどほどにザリザリした紙の感触。
最初のページに題名があった。
『妖精誌』
…?
シンプルだけど、なんていうかおかしな本。
昔の伝承とかをまとめてあるのだろうか。
次のページへ進む。
『妖精は、真実を見る目でしか見えない』
『妖精は、妖精同士を見ることができる』
『妖精は、人にあらゆる事象をもたらす。不利益は当然、幸運を与えることも稀ではない』
などなど。
なんか、オカルトな話ばかりだなぁ。
いや、見える側の人間が言うのもおかしな話ではあるけど。
異界のものを、現実にあるものとして記述した娯楽本だろうか。
ヴォイニッチ手稿みたいな…いや、あれはたしか暗号かなにかだったか。
ペラペラめくる。
文章の合間には、挿絵も大量に載っている。
獣のようなもの。人のようなもの。よくわかんない機械みたいなもの。
知らない名前ばかりだ。
興味がなくなってきた。
本としては面白いんだろうが、いかんせん私の好みとは外れる。
ファンタジーならもっと、不思議で魔法的な冒険小説が読みたか
『ボガート』
…った?
ページをめくる指が止まった。
あれ、見たことあるような。
急いで戻し、本を膝に持ち直す。
黒く、輪郭の曖昧な挿絵。
その下に、短い説明が続いていた。
『ボガート
不定形の泥のような姿形。
人に取り憑き、風邪や熱といった病を誘発させる行為を繰り返す。屋敷に忍び込み、物を投げつけるなどの行為も確認される。』
こいつ、電車で見たやつに近いような…。
いや。
いやいや。
ありえないでしょ。
これはたまたま似てただけ。
そう、たまたま、偶然。
こんな黒いドロドロなんて、誰にでも思いつく冗談だ。
それが、私の視界に入るヤツらと似てただけ。
もう一度、絵を見る。
見比べる相手は、視界にも記憶にも残らないようにしてるから、ほとんど覚えていない。
だのに、どうして似てるなんて思うのか。
私は本を横にどかした。
開いたまま伏せることもせず、布団を被る。
もう寝よう。
明日も学校がある。
胸の高鳴りを抑えるように、必死に目を瞑った。
__
身体が重い。
そこそこな寝不足。最悪だ。
それでも学校には行かなければならない。
なぜなら私は学生だから。
内申点だとか、生活態度とか。そうゆう曖昧な点数のために日々を懸命に過ごさなければならないから。
目覚ましのための炭酸水を冷蔵庫から取り出し、バッグのサイドポケットに突き刺す。
制服を着て、鏡を見る。
メイク面倒だな。
マスクだけでいいや。
充電していたスマホを、ベッドから拾おうとする。
ゴツッ。
手に当たる硬い感触。
視界に映る本。
昨日横にどかしたまま、同じページが開いていた。
『ボガート』
本を閉じる。
スマホをポケットにしまう時、ポケットに昨日もらった栞があることに気づく。
昨日と同じ制服を着てしまった。
まぁ、時間もない。気にしないようにして、家を出た。
__
電車に揺られながら学校に向かう。
頭がずっとぼーっとしている。
じんわりとした痺れ。寝不足のときはいつもこれだ。
鼻水も出てきた。
マスクしておいてよかった。そんなの人に見られたら乙女ではなくなってしまう。
スマホも、小説も文学も見る気にならなかった。
だから前を、ただ何も考えずに見ていた。
目の前の
肩のあたりに、泥のようなものがある。
垂れ下がっているのに、床には落ちない。
(……ボガート、ねぇ)
思ってしまった。
認識してしまった。
それがいけなかったのだろうか。
ソイツは、捻れた。
「…え」
黒い塊が老人の肩から離れる。
床に触れ、形を変える。
のそりのそり。
ソイツはゆっくり、ゆっくり私に近づいてくる。
口が現れる。
大きい鼻が現れる。
近づくたびに、身体に穴が一つ、また一つ開いていく。
目が現れて。
もうひとつ、目が現れる。
目が合った。
それは、まるで猛禽類のような目で、人のことを食糧として見ている目だった。
やばい どうして なんで こわい たべられる
逃げなきゃ。
どこに?
車体が揺れる。
停車の音。ドアが開く。
私は何も考えず、ただ逃げるためにホームへ飛び出した。
逃げる! 逃げる!
エレベーター! たぶん無理!
エスカレーター! 人一杯!
階段しかない!
バッグを身体に引き寄せ、人の間を抜ける。
ぶつかる。
肩が、人に。腕が、手すりに。
後ろから声がしたような気がする。気になんかしてられない。
階段を駆け上がりきって、振り返る。
黒いものが、人の足の間を抜けていた。
明らかに、私を追いかけている。
手に持っておいたスマホを、読み取り部に押しつけるようにかざして、改札ゲートを通り抜ける。
降りたことのない駅。
見たことのない街。
知らない道。
どこへ行けばいいのか。
どこへ行くのが正解なのか。
まったくわからない。
それでも走らなきゃ。
死ぬッ!
まだ追いかけてきてる。
まだ、まだ……。
__
どれだけ走っただろうか。
狭い路地裏をめちゃくちゃに曲がったせいで、自分の場所もわからない。
壁に手をつき、後ろを覗く。
いない。
少なくとも、今見える範囲には。
一息ついて、スマホを取り出す。
現在地。ここはどこだろう。
画面に触れる指が震えてパスワードがうまく打ち込めない。
すぐに開かないスマホに苛立ちをたてて、ポケットにしまう。
早く出たほうがいいかな。
ここも見つかるかも。
でも、道に出たら出くわすかも。
今回のヤツは特別しつこい。
目を合わせると寄ってくるやつはいる。
だけど、明確に、一切の躊躇なく殺されると思ったのは初めてだ。
あの本になんてかいてあったっけ。
あれ、そもそもなんて呼んだんだっけ。
名前、書いてあったはずなのに。
なんだっけ。
出てこない。
いや、今はそんなことどうでもいい。
息が戻らない。
とりあえず休もうと、すぐ後ろの古びたドアに背中を預ける。
目を閉じて、息を吸う。
吐く。
もう一度、目を開く。
【@\#@&\_\#\#@&@\#】
目の前に、ヤツがいる。
私の目を、見ている。
私を食べようと、口を、開けて。
後ろへ逃げようとして、背中に力が入った。
支えていたはずのドアが、なくなる。
視界が暗転する。
食べられた。
食べられた?
いや、違う。
落ちている。
私は今、後ろへ落ちている。
「うべ」
痛い。
床に背中を打ちつけたせいか、うまく息が吸えない。
肘をつき、身体を横に向ける。
膨らまない肺をどうにか動かして、起き上がった。
上を見上げると、開いたドアがある。
そこから、黒い身体が乗り出している。
いけない。逃げないと。
そう思って、前を向いた。
「…え?」
本棚。
規則正しく並んだ本棚。
本の匂いに混じった、薄い煙たさ。
昨日の本屋のような。
さっきまで、知らない街の路地裏にいた。
それなのに、昨日近所で見て、感じたものが、目の前にある。
困惑。
背後から大きな音がした。
黒い塊が、ドアの内側へ身体を押し込もうとしている。
待ってくれる気はないらしい。
すぐに本棚の間へ逃げようとして、さらに困惑した。
カウンターがある。
あの店員がいる。
昨日は散々歩いて、ようやく見つけた場所。
今日は扉から、ほとんど離れていない。
意味がわからない。
原理も知らない。
それでも。
「あのッ!」
私は今世紀一番の大声を、ここで出すべきだと思った。
「なにか」
店員は黒く見える瞳を、こちらに向けた。
「私を、助けてください!」
店員は私を見る。
昨日と同じように、顔、身体、足元へ。
「なにから」
「え?」
なにからって、何を言っているのだろう。
見ればわかるじゃないか。
私の後ろに迫ってくる、ご馳走にかぶりつこうとしている、あの。
「あれ…いない…」
振り返った先には、ステンドグラスからの陽光に照らされた道と、本棚だけがあった。
黒いものは見えない。私が出てきたであろうドアもどっかにいってしまった。
さっきまでしていた音も、いつのまにか止まっている。
「あ、あ、あの、その」
しどろもどろになる。
何から説明したらいいのか。
何を説明すればいいのか。
さっきまでの緊張が、口を邪魔する。
「お決まりになられてからどうぞ」
店員はそう言って、手元の本に目線を戻す。
違う。
いいたいことはある。
店員はもう本をめくっている。
私がここにいようといまいと、どうでもいいらしい。
「教えてくださいッ!」
ここに私がいるのだと。
そう、証明するかのような声を出す。
「なにを」
同じ声色。
されど、たしかに私のことを、また見ている。まっすぐに。
深呼吸する。
少なくとも、今ここにヤツが入ってくる可能性は低い。
ひとつずつ話せばいい。
「私を追いかけてくる、黒い塊のことです」
店員は口に手を当て、人差し指で軽い音を規則正しく出している。本へ目を向けなおして。
返事を待つこと数秒。
彼は私に再度目線を向ける。
「あれは妖精です」
妖精。
やっぱり、あの本に書いてあったものだと言うのか。
「妖精って…フェアリーっていうか、そういうやつ?」
「厳密に言えば全く違うものですが。普通、妖精とよばれますね」
本で読んだ。
読んだけど、納得できるかどうかは別だ。
あの黒い塊が、妖精?
メルヘンチックのメの字もないではないか。
「妖精ってのは、羽が生えてて、小さい人みたいなヤツのことでしょ?」
「ええ、それも妖精の一種です」
なんでもありか。
後ろを見る。
まだ、ヤツはいない。
いつ、ここにヤツが来るか。それを保障してくれる人などここにはいない。
呼び方で揉めている場合ではない。
「……じゃあ、あれの対処は?」
彼は本を閉じた。
カウンターの下から紙を出し、羽ペンをインクに浸して何かを書き始める。
カリカリ。ザリザリ。
何を書いているのだろう。
話の流れ的に、妖精とかいうバケモノの攻略法だろうか。
口頭で教えてくれていいのに。
少し待つと、彼は書き上がった紙をカウンターに滑らせた。
「…?」
『契約書
商品:妖精の対処。
代価:
署名 メフィスト
署名 』
これは、契約書?
妖精の対処をするかわりに、何かを払う必要があると言うのか。
「……あなたのお薦めの本を見たから、こうなった可能性があるのだけど」
「いいえ。私は貴女に言われた通りに本を薦めた。貴女は本をただ買った、ただ開いた、ただ見た。私に責任などございません」
くそ。ダメか。
てか、そもそも代価って何を書けばいいんだ。
お金? 労働?
「メフィストさん…で合ってんのかな。メフィストさんにとっての代価ってなに?」
素直に聞くことにする。
ぼったくられる可能性しかないが、あの妖精を本当に対処してくれるというのなら、それは値千金の話だろう。
「私を基準にするべきではありません。代価には、貴女にとっての価値も関わります」
私にとっての、価値…?
「これとかは?」
財布から五百円を出す。
彼はそれを受け取らず、私の手の中を見た。
「金銭ですか。もちろん、価値になりますよ。ただ、貴女。そこまで物欲はないでしょう。他の人よりはレートが低くなりますが、それでもよいのなら」
なる…ほど?
自分がどれだけ大切に思っているかどうかで、払う量も変わるってことだろうか。
変なシステムだ。
単純に金額を決めておけば簡単なのに。
「じゃあ、いくら?」
「二百万です」
「は」
二百万。
………二百万?
「払えるわけないじゃん」
なにを言っているんだ、この人は。
そうか。そういうことか。
これはボッタくるためのシステムだ。
この期に及んで、あどけない女子高生から金をむしり取ろうだなんて。
なんて悪徳商人なのだ。
全くもって許せない。
腕を捲る。
鉄拳制裁の時間だ。
「でしたら、他の価値で代用するのがよろしいかと」
「他の価値」
勇んで抗議しようとした私に冷や水を浴びせるように、彼は話を続ける。
「たとえば労働。たとえば時間。たとえば宝石。たとえば思い出。貴女にはないんですか? 価値ある物」
「…なるほどね」
そういうことか。
彼は単純な金銭を要求しているのではない。
私を要求しているのだ!
「ちょっとぉ…身体は…」
沈黙。
彼の表情ひとつ変わらない。
「貴女が欲しいとは言っておりませんが」
は?
こいつ、私の価値を低く見てやがんのか!
私個人が一番、私にとって大事なもんだろーが!
「…そんな目をされましても。もちろん、代価として支払うのであれば貰い受けますが」
呆れられた。
納得いかねぇ。
ま、いい。
とりあえず考えよう。
代価というのは、金銭以外でもオーケー。
『妖精の対処を任せる』には、金銭なら二百万が必要。
私の思い出とかならいくらに?
そもそも思い出って、どうやって支払う…。
紙を見る。
『妖精の対処』
もう一度後ろを見る。
ヤツの気配はまだない。
あれを、どうにかしてもらう。
それで今日は帰れる。
電車には、あれ以外にもいる。
帰り道にも、学校にも。
見ないようにしてるものは、見ようとすればいくらだっている。
またドジったら確定で二百万?
…。
……。
いや?
違う。違うぞ。
それは全くもって違う。
私が欲しいものではない。
「契約内容の変更って、できます?」
__
「契約内容の変更ですか」
彼はカウンターに置いてあった紙をひょいと持ち上げ、脇へよけた。
「うん。だってさっきの内容だと、『店員さん』が、あの妖精ってやつを退治するんでしょ?」
「対処です。ええ、間違いありません」
そうなのだ。
それではいけないのだ。
「あんまり信じてないけどさ、せっかく契約するんだったら、『私』がアイツを対処できるようにしてよ」
「…なるほど」
彼は新しい紙を取り出した。
羽ペンをインクに浸し、先から落ちる滴を見ている。
「では、『対処方法を教える』でお間違えないですか?」
「うーん……うん。問題ない」
たぶん問題ないだろう。
それが私には扱えるものではないってのが一番困るオチだが。
羽ペンが動く。
今度はそれほど待たずに、紙が滑ってきた。
『契約書
商品:妖精の対処方法の教授
代価:
署名 メフィスト
署名 』
「金銭ならいくら?」
「…そうですね。十五万、といったところでしょうか」
安。
いや、高いけど。
二百万の後に聞くとべらぼうに安い。
十五万。
痛い出費だが、補助金を細々と使っている私には出せない金額ではない。
出したくはない。
でも、対処をお願いするでもなく、対処方法を聞くでもなく外へ戻るのは、リスクが高いんじゃないだろうか。
問題は、
「十五万ってさ、即金?」
「後日で構いません」
少しだけ肩の力が抜けた。
十五万も財布に入れてなかったから。
本当に教えてくれるなら、十五万ぐらいはいいだろう。
教えてくれなかったら契約書無効とかなんとか言って逃げよう。
「…じゃ、それで契約するよ。羽ペン貸して」
「それには及びません」
彼がそう言うと、契約書が浮いた。
文字通り。
宙に浮いた。
「はぁ!?」
カウンターから離れた紙が、私と店員の間で止まる。
糸なんて見えない。
下から支えるものもない。
手品?そんな仕込みをする時間はなかったはず。
彼が何かを言い始める。
『
ガリガリガリ。ザリザリザリ。
ペンも鉛筆も走っていないのに、紙に文字が増えていく。
空欄だった場所が、淡い光を放ちながら黒く埋まる。
書き終わったのか、契約書はヒラヒラと舞いながら私の手元へ降りてきた。
反射的に、ひったくるように受け取る。
普通の紙の感触がした。
『契約書
商品:妖精の対処方法の教授
代価:日本円十五万円
署名 メフィスト
署名 長狭 律
締結』
私の名前。
言ってないのに。
紙を裏返して、もう一度表に戻す。
ヒラヒラしてみる。
文字は消えなかった。
ふぁ、ふぁんたじー。
こんな世界もあったのか。
今まで普通の人が見えないものと言ったら、ドロドロとかグニョグニョしかなかったから、滂沱ものの感動である。
浮く。光る。名前まで勝手に書ける。
さすがに名前を知っていることには問いただしたいところだが。
でも、こうゆう本物のファンタジーは、本の中だけのものだと思っていた。
「…ていうか、教授って書いてあるけど、どうやっ」
店員が手を伸ばした。
私の額に指先が触れる。
人差し指だろうか。細くて、冷たい感触。
さすがにボディタッチはNOと言おうとした瞬間、私の頭蓋に突き刺さる。
指?指指指?
「て、てててええ???」
あ、ぎ、あ、ご、ご、
ア。
膝が折れる。
紙を持っていたはずの手も、どこにあるのかわからない。
頭の中に。
入って。
多くて。
「はい、終わりましたよ…床の掃除も契約に入れておいた方がよかったでしょうか」
__
「…ん」
あれ、私は何を。
あぁそうだ。
指。店員に突っ込まれたんだっけ。
なんで私、生きてんの。
頬の下が硬い。
床だ。チリ一つない清潔さにタバコのようなスモーキー臭がする。
腕をついて上体を起こすと、すぐにカウンターが見える。
店員はまだいた。
本をめくる音がする。
「…」
足に力を入れる。
気持ち悪い。
脳を直接ほじくられたような感覚が、まだ残っている。
額に触れても、穴はなかった。
あれ。
なんか濡れてる。
立ち上がった瞬間、不快感があった。
「上着は乾かしましたが、ほかは自分で洗ってください。あと、本につかないように」
…。
文句を言いたい。
言いたいことは、ものすごくある。
でも、まずこの水気をなんとかしたい。
トイレ。
トイレないの?
周りに一切それらしき看板が見えないんだけど。
なんて不便なんだ。
「着替える場所、ありません?」
返事を待っていたが、何も反応なし。
この不快感を抱えたまま生きるのは不可能、私は店員から見えない棚の陰へ回る。
本には触れないようにして、セーラー服の下に着ていたシャツを脱いだ。
仕方ない。これでどうにかする。
身なりを整えて戻っても、店員は本を読んでいた。
こっちの苦労など、全く興味がないらしい。
だが、処理をある程度させたのも事実なので話しづらい。
彼が原因なのは明白なのだが。
しかし、そのおかげもあって、さっきよりも明確に頭の変化がある。
知らなかったはずのことが、学んだことがない記憶が頭の中にある感覚。
名前のわからないあの妖精が、どんなふうに獲物を探すのか。
何を嫌い、何に弱いのか。
試しに一つ思い浮かべると、知識が続いて出てきた。
その感じは、気分がいいものとはとても言えるものではない。
言葉を飾らないのなら、ゲロみたいな感覚だ。
でも、嘘ではなさそうだった。
スマホを取ろうとポケットに手を入れると、木の栞があるのがわかった。
あれ、昨日の服着てきちゃってたか。あぁいや、そうだった。間違えて着た服を変える時間がなかったんだっけ。
さっきまでの寝不足が気絶したことでスッキリしたのか、すこし冴えた頭で考える。
知識をすべて確認する。
なにか使えるものはないかと探して、探して。
……あった。簡単で、実現可能なものが。
水気を含んだシャツを丸めて持ち、私は外へ出ることにした。
__
外にヤツはいなかった。
出たのは、先ほど逃げ込んだ路地裏だった。
狭い空。汚れた壁。さっき背中を預けた、ボロボロの扉。
スマホで時刻をみる。さっき路地裏で確認したときの時刻から一時間ぐらいしか経っていなかった。
店員が謎の拳法で私に直接知識を入れたので、今ヤツがしていそうなことは、だいたいわかる。
おそらく、力をセーブするための休眠とサーチ。
姿が見えないからといって、私を諦めたわけではない。
私が出てきた瞬間には、もう居場所がバレているかもしれない。
「えっと、ホムセンホムセン…」
スマホでホームセンターを調べる。
ホームセンターはなんでも揃っている、DIYの聖地。
今の私に必要なものなら絶対に揃う。
「…八百メートル」
近いような、遠いような。
間に合うか微妙だが、やるしかない。
今日を乗り越えれば、明日が明るく見えるかもしれないんだ。
__
「意外とすんなり行けた…」
ホームセンターの自動ドアを抜け、ひとまず周りを見渡す。
三台の車。一台だけの自転車。買い物カゴをカートに入れてゆっくり歩くお年寄り。
黒い塊は、いない。
道中で襲われることも、買い物中に追いつかれることもなく、必要なものは揃った。
金槌と、食塩を四袋。
袋の持ち手が指に食い込む。
ちょっと買いすぎたかな。重い。
『妖精の対処法』には、さまざまな呪文があった。
英語、中国語、たぶんロシア語。日本語も。
でも私には使えない。使い方がわからない。
ここに来るまでに、英語と日本語の呪文だけ片っ端から唱えてみた。
なにか起こっている気配はまったく感じなかった。
傍から見たら、ぶつぶつ独り言を言いながら早歩きする女子高生。
まったくの他人からのイメージは相当にダウンだ。
まぁそれはいい。
あとは誰にも見られず、逃げ場がない場所を探すだけ。
…っと。
道路の向こう。
駐車場に停まった車の下から、黒いものが這い出してきた。
四つ足。
さっきまで、あんな脚はなかったと思う。
顔はこちらに向いている。
大きく開いた口も。
「おでましかい」
袋を握り直す。
とりあえず、ここでいろいろばら撒くわけにはいかない。
人がいるし、車も来る。
あの路地裏まで戻ろう。
店に逃げ込んだ、さっきの場所だ。
水気を吸わせたシャツを学校のカバンに押し込む。
そしてそれを駐車場に置く。
振り返ると、ヤツは道路を我が物顔で走っている。
車が来る。
一瞬、車体に隠れて見えなくなる。
通り過ぎたあとには、着々と私に近づいているヤツの姿が。
なるほど。車体は鉄のはずなのに、轢かれずに透過した。
店員の知識通りだ。今のヤツは私以外に干渉されにくい。
それを確認した私は、走り出す。
走って、走って。
路地へ曲がると、正面に建物の外壁に沿った鉄の階段が見えた。
上まで続いている。
私は迷いなくそちらへ走る。
ヤツはそこまで足が速くない。
ただ、さきほどの車が透過したときのように、薄い壁はショートカットできる。
私が角を曲がっている間に、向こうはそのぶん真っ直ぐ進めるのだ。
普通に逃げれば、そのうち追いつかれる。
ならば、どうするか。
階段を駆け上がり、屋上へ出る。
風が顔に当たった。
隣の建物も、同じくらいの高さ。
間には細い路地が一本。
下を見た。
…オォフ。
……飛べる。たぶん飛べる。そこまで遠くない。
少なくとも、今登ってきた階段を戻れば、食べられルート一直線だろう。
ビニール袋から物がでないように縛る。
そして、それを肩に担ぎ、屋上を走る。
縁の直前で、足に力を込めた。
「うっはぁーー!」
足が離れる。
一瞬だけ、踏む場所がなくなり、自由と不自由の風を裂く。
向こうの屋上に靴底がついた。
膝が折れ、そのまま前へつんのめる。
袋が遅れて背中を押す。
痛い。
痛いけど。
飛べた。
後ろを見る。
ヤツはさっきの建物の壁を登ってきていた。
黒い脚が縁を掴み、身体を引っ張り上げている。
待つ理由はない。
私は袋を担ぎ直し、また走った。
隣へ。その次へ。
高さが違うところでは立ち止まって、渡れる場所を探す。
全部の建物が都合よく並んでいるわけじゃない。
こっちが迷うたびに、後ろの物音が近くなっていく。
途中、口から黒い塊を吐きつけてきた。
私が通り過ぎた場所で、それが潰れる。
偏差を理解していないのか、走っている間は当たらない。
当たらないのなら、どれだけ威力が高くても怖い攻撃じゃない。
数分後、見覚えのある路地が眼下に現れた。
あの扉もある。
ようやく戻ってきた。
立っているのは、路地に面した低い廃ビルの屋上。
隣の建物との間は少し離れていて、ヤツは一度壁を下りなければこちらへ来られない。
今のうちだ。
袋を下ろし、食塩を一袋取り出す。
切り込みをちぎろうとしても、なかなか開かない。
苛立ちと焦り。歯で袋を裂こうとする。
おかげで、白い山が靴にこぼれた。
ヤツが登ってくる側の縁に沿って、塩を撒く。
細い線じゃ不安だ。もう一往復。
次々に塩の袋を開けて、それを撒く。
白い帯ができたところで、残りを左手に握り込む。
右手には金槌。
柄が汗で滑る。拭いても拭いても止まらない。
一度、金槌を置く。
縁にばら撒いた塩に右手の掌をべったりつける。
もう一度金槌を握り直す。
壁を擦る音。
縁から、黒い指が現れた。
続いて頭。口。
私を見つけて、さらに開く口。
身体を引き上げようとした脚が、塩の手前で止まった。
お。
ヤツは脚を引っ込め、横へずれる。
そちらにも塩がある。
また止まる。
本当に、塩を避けてる。
ただの食塩なのに。
さっきまで棚に並んでた、普通の一キロ一五〇円の。
笑いそうになって、慌てて息を呑む。
感心してる場合じゃない。
今だ。
屋上に上がりきる前。
逃げようにも、脚は壁に張りついている。
私は一歩踏み込んだ。
「まったく、私をそんなに食べたいか!」
左手を振り、ヤツの顔に満遍なく塩を投げつける。
ヤツの頭が跳ねる。
壁を掴んでいた片脚が外れる。
「生憎、私は追っかけたい側だよ!」
自由になった左腕でさらに持ち直し、両手で金槌を振り抜いた。
金槌が、塩の張りついたヤツの顔面にめり込む。
硬いものを殴った感触はなかった。
それでも、手首には確かに重さとして返ってきた。
「⁉︎⁉︎⁉︎」
口が歪む。
脚が縁を引っ掻き、空を掴む。
黒い身体が、視界から落ちた。
少し遅れて、下から湿った音がする。
私は金槌を握ったまま、縁から路地裏を覗き込んだ。
ヤツは地面に広がっていた。
広がって、まだ広がっていく。
起き上がろうとしているのか、細い脚が何度も曲がる。
でも、もう身体を支えられないのか、ただのたうちまわっているだけにしか見えない。
『ボガート』
ふと、その言葉が頭に浮かんだ。
「…お? 店員の知識通り」
思い出せる。
本で見た名前も、それを電車の中で思い浮かべたことも。
今の今まで、口からも頭からも出てこなかった。
そこだけ、コイツに食べられていたのだ。
小さくて黒い吹き溜まりは、人から向けられた認識を食べて育つらしい。
何なのかわからない塊に、私が名前を与えてしまった。
コイツはボガートだ、と。
曖昧だったものが、名前を得る。
それにつれて、人に作用する力も、存在としての弱点も、はっきりしていく。
『妖精の対処法』にはさまざまな方法があった。
呪文、儀式、礼儀、そして『鉄』と『塩』。
私はどれかに一番の期待と時間を賭けるしかなかった。
だからこそ大量の食塩。だからこそ金槌。
一番確実に手に入って、一番わかりやすい方法。
塩と鉄で直接ブン殴る。
知識として入っているのと、実際に確認するのは違う。
これが効かなかったら、ダメ元で他の手段も試してみるつもりではあったが。
私は賭けに勝った。
下の塊が動いた。
でも、それだけだった。
脚だったものが崩れて、身体に混ざっていく。
あれほど大きかった口も、どこにあるのかわからない。
もう、こちらを見ていない。
私は屋上の反対側へ回り、外階段を探した。
さすがに、帰りまで飛び降りる勇気はない。
残った塩と金槌を持ち直し、一段ずつ下りる。
路地へ出ると、黒いモヤモヤが壁際に溜まっていた。
少し離れたところを通る。
金槌は、まだ手に持っている。
追ってこない。
足を止めても、顔を向けてこない。
ようやく息を吐いた。
「もう悪さすんなよー」
返事はない。あたりまえだが。
私はボロボロの扉に手をかけ、押し開けた。
__
本の匂い。
棚。静けさ。
扉を閉めて、しばらく待った。
叩く音はしない。
追ってくるものもいない。
金槌を落とそうとする。
汗ばんだ手はうまくいうことをきかない。
一本ずつ指を離し、ようやく手放す。
重厚な音が鳴り響く。
え。
え、え、えーー!?!?
私やれたの!
私勝てたの!?
「いぃぃぃやぁっっタァァァイッ!!」
声を出したら、膝から力が抜けた。
近くの棚に背中を預け、そのままずるずる座り込む。
足が痛い。
痛いっていうか、力が入んない。
途中でアドレナリンどっぱどぱ出てて気づかなかったが、食塩を四袋も抱えて走り回って飛び回って。
明日は筋肉痛確定だ。
でも、帰ってきた。
逃げ込んだんじゃなくて、自分で終わらせて戻ってきた。
「その表情を見るに、成功したのですね」
顔を上げる。
少し先にカウンターがあった。
店員は座ったまま、本を開いている。
「おかげさまで。対処法、ありがとうございます」
「礼は不要です。貴女は契約をされたのです。正当な対価を差し上げたのみ」
それを聞いて、気分が萎える。
十五万。
社会人ならどうなのか知らないが、高校生には重すぎる金額だ。
それに私には、追加の金銭的援助も期待できない。
「……十五万かぁ」
店員がこちらを訝しげに見た。
「まさか反故にする、なんてことはないでしょう?」
「いやいや! ホントのこと教えてくれたんですから、十五万なんて安いもんですよ! …安くはないけど」
店員は私の目を見て、また本へ目線を戻した。
「期限はありません。が、あまりに遅くなるようであれば先にお知らせください」
意外と寛容。
対価を払わないやつとかいるのかな。そっちのほうが、後でなにされるかわからないのに。
うーん……十五万。
十五万ねぇ…。
生活費から出すしかないかぁ……。
生活。
ねぇ……。
床に落とした金槌を見る。
新品で、すこし塩がついた金槌。
今の生活に、不満はない。
学校へ行って、勉強して、家に帰って寝る。
見たくないものを見ないようにして、関わりたくない人と関わらないようにして。
そして、一人。
別に、嫌ではない。
今日まで、それでやってこられた。
今日だって、もう帰れる。
あの黒い塊はもう追ってこないだろう。
明日からまた、いつも通りに過ごせるはずだ。
私は自分の手を見た。
金槌を握っていたところが赤く、鋼特有の鈍い感触が残っている。
左手にも、まだ少し塩が。
こんなもので、こんな身近なものが、まるで未知の理のように思えた。
「ねぇ、店員さん」
見たくないものから逃げたくない。
理解し合える人と関わってみたい。
「はい、なんでしょう」
でも、それはたぶん建前なんだと思う。
きっと私は、違うことを望んでいる。
この店の原理も。
よくわからない魔法も。
黒いヤツらの生態も。
それが見えてしまう、己の身体も。
知りたい。
頭に入れられた呪文は、ひとつも使えなかった。
なぜ使えなかったのか。
何ができれば、使えるようになるのか。
本が読めなかった棚が、目の前にある。
あの中に何が書いてあるのか、まだ知らない。
ひとつひとつの知らない言葉にどんな意味があるのか。
私は棚に手をつき、立ち上がった。
足は痛い。
でも、カウンターまではすぐだった。
「私と契約しない?」
この得体がしれない人の知識を、もっと知りたい。
それがきっと、私の求めるものなんだ。
店員は、メフィストは、顔をこちらに向ける。
中性的な細い身体。
銀髪のサラサラヘアー。
整っている目鼻顔立ち。
すべてがおとぎ話のように洗練された姿形は、ある種の気味悪さすら感じるほど美しい。
本を閉じる音がした。
カウンターの下から紙を出し、羽ペンをインクに浸す。
私も黙ってその手元を見ていた。
「では、代価を決めましょう」
彼はそう言って、氷のように沈んだ紅い瞳を私に向けたのだ。