俺を馬鹿にしてくる女全員の好感度が100%なのだが――よし、下げてみよう 作:冷凍シャケ
俺は今、マダガスカルにいる。
「…………は?」
目の前には見たことのない木が生えていて、見たことのない鳥が飛んでいる。空は青く、日差しは強く、何より暑い。
俺はスマホを見る。圏外だが、GPSだけは生きていた。地図を縮小していく。
そこに表示された島の形を見て――俺は固まった。
現在地――マダガスカル。
「…………」
アフリカ大陸の右側に浮かぶ島。
マダガスカル。
「は????」
意味が分からない。
昨日まで日本にいた。
というか昨日の朝まで、俺はただ――橘朱里の好感度を下げようとしていただけだった。
――話は、連休初日の朝に遡る――
俺は電柱の陰から、少し先を歩く橘朱里を監視していた。
休日の橘は私服だった。白っぽいトップスに黒いスカート。学校とは少し髪型も違う。
そして頭上には、
【好感度:120%】
「今日こそゼロにする」
金曜日、俺は重要な事実を発見した。
橘は、親切にされると好感度が下がる。
プリントを拾うのを手伝っただけで、108%から43%まで一気に落ちたのだ。
そのあと俺が余計なことを言ったせいか、翌朝には120%まで戻っていたが、方法自体は間違っていない。
つまり今日は、徹底的に親切にすればいい。
荷物を持つ。扉を開ける。落とし物を拾う。転びそうになったら支える。雨が降れば傘を差す。喉が渇けば飲み物を渡す。腹が減れば飯を奢る。
困っていたら助ける。
困っていなくても助ける。
何なら一度困らせてから――。
「それは違うな」
自分で却下した。
とにかく、橘にピンチが訪れた瞬間、颯爽と現れて助ける。それを何度も繰り返せば、今日中に0%も夢じゃない。
完璧な作戦だった。
ただ、一つだけ問題がある。
「全然困らねぇ……」
橘は休日でも隙がなかった。
転ばない。財布も落とさない。荷物も重そうじゃない。道にも迷わない。それどころか道に迷っている老人を見つけて、自分から声をかけて案内している。
「お前が助ける側に回るなよ……」
これでは俺の出番がない。
仕方なく一定の距離を保って追い続ける。
橘が曲がれば俺も曲がる。店に入れば外で待ち、出てきたらまた追う。
冷静に考えると完全にストーカーだった。
違う。
これは好感度低下のための観察だ。
目的が違う。
警察にもそこは考慮してほしい。
そんなことを考えていた時、橘が突然立ち止まった。
「!」
ゆっくり振り返る。
俺は反射的に電柱へ身を寄せたが、遅かった。
目が合った――気がした。
しかも橘が、こちらへ向かって歩いてくる。
「まずい!」
周囲を見る。電柱は細い。植木は低い。自動販売機の裏も隠れるには狭い。
その時、少し先に大型トラックが止まっているのが見えた。荷物の積み込み途中らしく、そのすぐ横には人一人くらいなら余裕で入れそうな大きな段ボール箱が二つ並んでいる。
「これだ!」
俺は走った。
片方を開ける。
中には大量の商品が入っていた。
何なのか確認している暇はない。
俺は中身を掴み、そのまま隣の箱へ放り込んだ。
ドサドサドサドサッ!
「すまん!」
誰に謝っているのか自分でも分からない。
とにかく全部を隣の箱へ無理やり押し込み、最後に底へ残っていた薄いケースを適当に尻の下へ敷いて、自分が箱へ飛び込む。
バタン。
息を潜めた。
数秒後、足音が近づいてくる。
「…………」
止まった。
かなり近い。
俺は箱の中でじっとする。
やがて足音が遠ざかった。
「ふぅ……」
助かった。
出よう。
そう思った瞬間だった。
ビイイイイイッ。
「…………」
ガムテープの音。
ペタッ。
「…………」
箱の蓋が閉じた。
「え?」
次の瞬間、箱ごと持ち上げられる。
「ちょっと待て」
ゴロゴロゴロゴロ。
台車に乗せられた。
「すみませーん。人入ってまーす」
返事はない。
「おーい」
ガタン。
どうやらトラックの荷台へ積まれたらしい。
直後、荷台の扉が閉まる音。
そして数分後。
ブロロロロロロ……。
「…………」
走り出した。
まあいい。
近場だろう。
そのうち荷物を降ろす時に出ればいい。
箱は完全な密閉ではなく、隙間から少し空気も入ってくる。ただ、狭い上に妙に暑い。しばらくすると頭までぼんやりしてきた。
「……眠いな」
空気が薄いのかもしれない。
昨日もあまり寝ていない。
「少しだけ……」
俺は目を閉じた。
途中、何度か目を覚ました気がする。
ガタガタと揺れた。
どこかへ運ばれた。
また別の場所へ積まれた。
一度、どう考えても飛行機みたいな爆音が聞こえた気もした。
だが眠かった。
夢だろうと思った。
というか夢であってほしかった。
そして完全に目を覚まし、内側から段ボールを破壊して外へ這い出した結果――。
俺は今、マダガスカルにいる。
「…………」
声に出しても意味が分からなかった。
しかも問題は、場所だけではない。
俺の周囲には、いつの間にか十数人ほどの人間が集まっていた。近くの集落の人たちらしい。
全員、明らかに俺を警戒している。
俺は反射的に頭上を確認した。
【好感度:8%】
【好感度:3%】
【好感度:-6%】
【好感度:11%】
「低いな……」
一人の男が何かを叫んだ。
もちろん何を言っているのか分からない。
周囲もざわつく。
俺は両手を上げて敵意がないことを示した。
まずい。
言葉が通じない。
逃げ道もない。
だが俺には一つだけ、言葉が分からなくても判断できるものがある。
好感度だ。
何か、上げる方法はないか。
俺は持ち物を確認した。
スマホ。
財布。
ハンカチ。
そして――尻の下に敷いていた、箱の底に一枚だけ残っていたDVD。
「…………」
成人向けだった。
パッケージには、恐ろしく整った顔立ちの女性。
女優名。
『股カユミ』
俺はDVDを見る。
周囲を見る。
もう一度DVDを見る。
考える。
三秒。
そして、両手でDVDを天高く掲げた。
「THIS IS! JAPANESE・ANUS・GOD!!」
俺のカスみたいな英語が、マダガスカルの大地に響き渡った。
静寂。
「…………」
誰も動かない。
全員、DVDを見ている。
やがて、一人の男がゆっくりと近づいてきた。
俺からDVDを受け取る。
パッケージを見る。
股カユミの顔を見る。
目を見開く。
そして。
跪いた。
「え?」
二人目も近づいてくる。
見る。
跪く。
三人目。
四人目。
五人目。
気づけば全員が、股カユミのパッケージを囲んで跪いていた。
【好感度:14%】
↓
【38%】
↓
【62%】
↓
【100%】
「…………」
何が刺さった。
俺の英語か。
違う。
絶対違う。
しかも、どうやら性的な意味でもないらしい。
彼らは本気で、このパッケージに写る股カユミを神聖な存在だと思い込んだ。
後に彼女はこの地で、女神――【アヌス・パニーニ】として崇められることになる。
そして彼らは後世、エロスズ・パニーニ族と呼ばれるようになる。
全部、俺のせいである。
そこからは大変だった。
アヌス・パニーニの噂は、どういうわけか近隣の集落にまで広まった。
そして女神・股カユミを奪うため、別の集落が攻め込んできたのである。
第一次マタカユミ抗争。
勃発。
しかも、なぜか戦いの指揮を俺が任された。
敵は無数のアヌスを解放し、我々へ攻め込んできた。
だがこちらも負けるわけにはいかなかった。
第一次アヌス防衛作戦開始――
アヌスにはアヌスを。
尻には尻を。
ぶつけるしかなかった。
敵のアヌス。
味方のアヌス。
入り乱れるアヌス。
舞い上がる砂埃。
飛び交う怒号。
激戦だった。
そして夕暮れ。
俺たちは勝った。
辺りには、多くの散っていったアヌスたち。
俺は沈む夕日を眺めながら思った。
「何してんだろう、俺……」
橘の好感度を下げたかっただけなのに。
ただ、この戦いを経て俺は強力な味方を手に入れた。
エロスズ・パニーニ族である。
俺が日本へ帰りたいことを身振り手振りで伝えると、彼らは総出で協力してくれた。
車に乗せてもらい、さらに別の車へ乗り継ぎ、途中よく分からない乗り物にも揺られ、ようやく外国人観光客らしき人間がいる場所まで辿り着いた。
英語が通じそうな男を見つけた俺は、必死に駆け寄った。
「ヘルペス・ミー!! ヘルペス・ミー!! アイ・ウォント・ゴー・ジャパン!!」
「…………?????」
今思えば、性病を全力で訴えながら日本へ帰りたがるアジア人だった。
そこから先は、本当にいろいろあった。
親切な旅行者。
空港職員。
日本人観光客。
なぜか俺を気に入った老夫婦。
会う人間の好感度を確認し、助けてもらえそうな相手には全力で頼り、飛行機を乗り継ぎ、さらに乗り継ぎ。
そして連休最終日の夜。
俺は何とか日本へ帰ってきた。
玄関を開ける。
「ただいま」
母親が振り返った。
【好感度:92%】
「零也。連休中どこ行ってたの?」
「マダガスカル」
【好感度:71%】
「なんで下がった!?」
「嘘つくならもうちょっとマシな嘘つきなさい!」
「本当なんだけど!」
「じゃあ何してたのよ!」
「現地でアヌス戦争してきた!」
【好感度:54%】
「さらに下がった!」
なお、その頃。
日本のとある家庭にも、一つの段ボールが届いていた。
「あなたー。注文してた荷物来たわよー」
「おー」
夫が箱を開ける。
中には注文していた商品。
そして、その隙間を埋め尽くす大量の成人向けDVD。
「…………」
夫の顔から血の気が引いた。
背後から、パンチパーマの大柄な妻が箱を覗き込んでいる。
「…………あ゛ぁ???」
「違う!!」
「て゛めぇ……これな゛んだ??」
「し、知らないっ!!」
「しらばっくれてんじゃねぇぞ……!!」
「本当に知らないっ!!」
妻が一歩踏み出す。
「待ってくれっ!!」
二歩。
「本当に僕じゃないんだって!僕はそもそも、そっちの趣味じゃ――」
三歩。
「待って、まず話を――」
加速。
ドドドドドドドドドド!!
「僕じゃないんだああああああ!!」
「ぎゃあああああああああああーーーっっ!!!」
その家庭がその後どうなったのか。
俺は知らない。
そして知ることもなかった。
連休明け。
教室に入った俺は、真っ先に橘朱里の頭上を見た。
【好感度:31%】
「…………」
もう一度見る。
【好感度:31%】
「……やった」
思わず拳を握った。
連休前には120%まで上がっていた。
それが、数日会わなかっただけで31%。
つまり俺と会っていない間にも、好感度は変動するらしい。
「もしかして、俺と会わなければ下がるのか……?」
だとしたら話は早い。
学校を休み続ければ、そのうち0%になるんじゃないだろうか。
「完璧じゃん」
「何が?」
「うおっ」
いつの間にか橘が目の前に立っていた。
「おはよう」
「……おはよ」
俺は少し首を傾げる。
「何よ」
「いや。今日、俺の顔見た瞬間に『最悪』って言わないんだなと思って」
「朝からそんな元気ない」
「俺、今日も存在してるぞ」
「見れば分かる」
「存在罪は?」
「知らない」
そう言って橘は、自分の席へ向かった。
「…………」
おかしい。
いつもなら、もう二、三発は悪口が飛んできている。
『朝から話しかけないで』
『キモい』
『死ね』
この辺りのどれかは入る。
なのに今日は、妙に静かだった。
まあいい。
俺にとっては都合がいいのだ。
このまま何もしなくても好感度が下がるのなら、願ったり叶ったりである。
昼休みになる頃には、数字はさらに下がっていた。
【好感度:24%】
順調。
この調子なら今日中にゼロもあり得る。
本来なら喜ぶところだった。
だが同時に、さすがの俺でも気づいた。
橘が、明らかにおかしい。
「朱里、ごめん! これ放課後までにまとめてもらっていい?」
「……うん」
「助かる! 朱里こういうの早いし!」
別の女子がやってくる。
「橘さん、委員会の資料なんだけど、今日中にお願いしてもいい?」
「分かった」
「ありがと!」
さらに別の女子。
「朱里ー! 昨日のノート送って!」
「……うん」
「今日中ね!」
「分かった」
俺は少し離れた席から、その様子を見ていた。
普段の橘なら、頼まれたからといって何でも引き受けるわけではない。
「ごめん、今日は無理」
「明日ならいいよ」
「他の人にも聞いてみて」
そんなふうに、意外とちゃんと断る。
俺に向ける口の悪さからは想像できない程度には他人には優しいが、何でも言うことを聞くわけではない。
なのに今日は、全部「うん」と「分かった」で終わらせていた。
「……気持ち悪いな」
「はっ、ウケるw それウチの台詞だし!」
横からニヤニヤした顔が覗き込んでくる。
姫川莉愛だった。
「須加の癖に何生意気なこと言ってんの~?」
「うわ」
「はぁ!? 『うわ』って何!? キモすぎなんだけどw ウチみたいなギャルがわざわざ話しかけてあげてんのに、その態度マジ草w」
「じゃあ話しかけなくていいぞ」
「ウチだってこんなキモいの相手にしに来てねーし!」
【好感度:100%】
「…………」
「何その死んだ魚の目w ホントキモくて最高なんだけどw」
やっぱり意味が分からない。
俺の中では、この100%は恋愛感情ではない。
俺を煽った時の反応を見るのが楽しいとか、何を言っても独特な返しをしてくる珍獣感覚で面白いとか、たぶんそういう意味での好感度だ。
要するに、お気に入りのおもちゃ。
だからこそ0%にしたい。
「で、何の用?」
「朱里、今日なんか変じゃね~?」
「仕事してるだけだろ」
「マジで言ってんの~? 須加ってホント脳みそ沸いてんじゃない? 人のこと興味なさすぎっしょw」
「よく言われる」
「褒めてねーから!」
姫川はちらっと橘を見る。
「アイツ、普段あんな何でも『いいよ』って言わないじゃん? 嫌な時は普通に断るっしょ?」
「そうなのか」
「『そうなのか』って……はぁー。ホント朱里のこと何も見てねーのなw 存在価値ゼロじゃんw」
「俺には基本『死ね』『視界に入るな』だからな」
「あははっ! それなー! だって須加、存在自体がウザいしキモいんだもんw 妥当すぎw」
「納得した」
「そこ速攻で納得すんのマジウケるんだけど!」
姫川はゲラゲラ笑った。
だが、もう一度橘を見た時だけ、ほんの少し表情が落ち着いた。
「朝からずーっとあんな感じなんだよねー。ウチが聞きに行っても『別に大丈夫』しか言わないし。なんかあったっぽくね?」
「お前が聞けばいいだろ」
「だから聞いたっつーの! で、『別に』って返されたから須加に聞いてやってんだろーが!」
「じゃあ別にいいんじゃないか」
「はぁ~~~!? 須加ってマジで人の心搭載されてねーの!? 生まれてこの方欠陥品かよw」
「胸の辺りにある」
「臓器の場所聞いてねーし!」
また盛大に笑ったあと、姫川はふっと息を吐いた。
「ま、ウチがこんな無能な須加に相談したのが間違いだったわ~!」
「それには同意する」
「あっさり認めんな!」
数歩歩いてから、姫川が振り返った。
「……でもさ~。朱里って、須加みたいなキモい奴の前でだけはいっつも一番好き勝手暴言吐いてんじゃん?」
「主に悪口をな」
「だからさ」
姫川はヘラヘラと意地悪そうに笑った。
「須加のこと、都合のいいゴミ箱扱いしてんのかなーって思っただけ!」
ひらひらと手を振る。
「じゃーね~、珍獣くんw」
そのまま去っていく。
俺は少しだけ考えてから、もう一度橘を見る。
【好感度:24%】
数字は下がっている。
俺が望んでいた通りに。
なのに今日は、なぜか素直に喜べなかった。
放課後、橘を見つけたのは人気のない階段の踊り場だった。
壁にもたれて座り、スマホを見ている。
画面が何度も通知で光っていた。
『朱里、帰りにスーパー寄ってきて』
『弟の塾のお迎えもお願い』
『明日の委員会資料、橘さんまとめてもらえる?』
『朱里なら大丈夫だよね!』
その全部に、
『分かった』
『大丈夫』
『いいよ』
そう返している。
「断れば?」
橘の指が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……何」
「嫌なんだろ」
「別に」
またスマホが震えた。
『今日もお願いね。朱里ならできるでしょ』
橘はしばらく画面を見つめたあと、また『分かった』と打った。
俺は隣の壁にもたれる。
「お前の抱えてるもんなんて、俺は知らねぇよ」
橘が、わずかにこちらを見る。
「家で何があるのかも知らない。学校で何個頼まれてるのかも知らない。俺だって、人の事情全部察して気遣ってやれるほど出来よくない」
返事はない。
「でも、今のお前が全然楽しくなさそうなのは分かる」
橘は黙ったまま、スマホを握っていた。
朱里ならできる。
朱里なら断らない。
朱里なら大丈夫。
「人がお前を頼るのも、親がお前を頼るのも、今のお前を見てるからじゃないだろ」
橘の指が、ほんの少しだけ動いた。
「自分にとって一番都合のいいお前を見てるだけだ」
沈黙が続いた。
やがて橘が、ぽつりと呟く。
「……断ったら、困るでしょ」
「誰が?」
答えない。
「お前じゃない誰かが?」
また沈黙。
「じゃあ、たまには困らせろよ」
橘が顔を上げた。
「お前、俺には好き勝手言うじゃん。死ね、キモい、消えろ、顔も見たくない。俺のことは散々おもちゃにするくせに、他の奴には全部『いいよ』だろ」
「……そんなに言ってない」
「言ってる」
「盛ってる」
「大体合ってる」
橘は黙った。
「どう考えてもバランス悪いだろ。俺にやってるみたいに、他の奴にも少しくらい嫌われろよ」
「…………」
「お前、別に完璧じゃねぇぞ。プリントぶち撒けるし、口悪いし、すぐ死ねって言うし。ただのドジで、生意気なクソガキだ」
橘の眉がぴくっと動いた。
「誰がクソガキよ」
「そう。それ」
「は?」
「その調子」
俺は小さく顎をしゃくった。
「優等生演じてる暇があるなら、その口の悪いやつのまま、誰にだって噛みついてけ」
そこで話を切る。
「じゃあな」
階段を上っていく。
一段。
二段。
三段。
その途中。
背後から、小さな声が聞こえた。
「…………バカ」
俺は振り返らなかった。
翌日。
「橘さん、これお願いしてもいい?」
「ごめん。今日は無理」
「え?」
「明日ならやるよ」
「あ、じゃあ明日お願い!」
「うん」
別の女子がやってくる。
「朱里ー! 昨日のノート貸して!」
「自分で取りなさい」
「お願い!」
「じゃあジュース」
「えー!」
「嫌なら貸さない」
「分かったって!」
「交渉成立」
教師に仕事を頼まれても、
「橘、これ頼めるか?」
「先生、それ昨日も私でした。今日は別の人にしてください」
「……はい」
普通に断った。
橘は別人になったわけじゃない。
頼られれば、できる時は手伝う。
嫌なら断る。
文句も言う。
笑う。
そして何より――俺に、必要以上に構わなくなった。
朝から俺の顔を見つけて悪口を言いに来ることもない。
廊下ですれ違っても無視。
俺が欠伸をしても無視。
授業中に寝ても無視。
「…………」
平和だ。
実に平和だった。
俺は橘の頭上を見る。
【好感度:0%】
「……やった」
本当にゼロになった。
望んでいた通りだ。
橘は俺に興味を失った。
俺を見つけても絡んでこない。
悪口も言わない。
放っておいてくれる。
ようやく手に入れた。
平穏な高校生活。
「成功だ」
その時だった。
「橘」
クラスの男子が声をかけた。
「何?」
「昨日ありがとな」
「昨日?」
「委員会のやつ。今日、俺やっとくよ。昨日任せっぱなしだったし」
「……ほんと?」
「おう」
「じゃあお願い。ありがと」
橘が笑った。
男子が少し照れたように頬を掻く。
「橘ってさ、そうやって笑うと結構可愛いよな」
「……は?」
橘の頬がほんの少し赤くなった。
「急に何言ってんのよ」
「悪い悪い」
「バカ」
楽しそうだった。
俺にじゃない。
別の男に。
「…………」
胸の奥が、妙にざわついた。
何だこれ。
好感度0。
俺が望んだ通りだ。
橘は自分らしくなった。
俺にも構わなくなった。
他の奴とも普通に笑っている。
全部、良いことのはずなのに。
「……まあいいか」
考えても分からない。
分からないなら後回しだ。
俺は机の中から『好感度低下計画』と書かれたノートを取り出した。
『橘朱里』
【好感度:0%】
その横に大きく、
『攻略完了』
と書く。
そして次のページを開いた。
『姫川莉愛』
【好感度:100%】
「次だ」
席を立ち、姫川の方へ歩いていく。
その背中を――橘朱里が、ほんの一瞬だけ目で追った。
【好感度:0%】
↓
【好感度:1%】