零年の手紙
――『新世界より』前史・二次創作――
千年後のあなたへ。
この手紙があなたの手に届くかどうか、私にはわかりません。紙は燃えるし、データは消えるし、言葉そのものだって変わってしまうかもしれない。それでも書いておきます。私たちの時代が、どうやって終わり始めたのかを。
あなたたちの世界では、きっと当たり前のことなのでしょう。手を触れずに物を動かすこと。石を浮かべ、水を割り、火を灯すこと。
私たちの時代では、それはまだ「異常」と呼ばれていました。
一
最初の報告は海の向こうからでした。
どこかの街で、少年がひとり、触れもせずに人を傷つけたというニュース。最初はみんな笑っていました。フェイク動画だ、宗教の宣伝だ、と。私も笑っていたひとりです。
それが三か月後には笑えなくなって、半年後には誰も口にしなくなりました。
報告は世界中から届きました。千人にひとり。多くは子どもか、若い人。原因は不明。治療法も不明。テレビは彼らを「PK発現者」と呼び、ネットはもっとひどい名前で呼びました。
私――水無瀬灯が十七歳になった冬のことです。
その日は朝から雪でした。
放課後、渡り廊下の窓を開けて、私は降ってくる雪を見ていました。理由なんてありません。ただきれいだと思っただけです。ひとひらでいいから、落ちないでいてくれたらいいのに――そう思った、その瞬間でした。
雪が、止まりました。
窓の外、私の目の前、半径二メートルくらいの空間で、無数の雪片が空中に縫い留められたように静止していたんです。その外側では、ふつうに雪が降り続けていました。音もなく、時間ごと切り取られたみたいに。
「……灯?」
背後で声がしました。
振り返ると、夏生が立っていました。柾木夏生。幼稚園からずっと一緒の、私のいちばんの友達。
彼女は私を見ていませんでした。私の向こうの、止まった雪を見ていました。
止まった雪が、一斉に落ちました。
「今の、なに」
夏生の声は、いつもよりずっと小さかった。
二
一週間後、私は市の「登録センター」にいました。
元は職業訓練所だった建物で、窓には新しく鉄格子が付けられていました。入口で指紋と虹彩を取られ、首から番号札を下げさせられました。
母は待合室までついてきて、ずっと私の手袋を握っていました。家を出るとき、母は私に毛糸の手袋をはめさせたんです。まるでそれで何かが防げるみたいに。
手じゃないのに。
これは手から出るものじゃないのに。
でも、そう言えませんでした。母の顔が、ひどく疲れていたから。
面談室にいたのは、白衣を着ていない男の人でした。四十歳くらい。ぼさぼさの髪に、ネクタイを緩く締めて、机の上にはコンビニのおにぎりの包装が散らかっていました。
「久遠です。研究のほうの人間。役所の人じゃないから、そんなに固くならなくていいよ」
役所の人じゃない人が、なぜここにいるのか。そう思ったけれど黙っていました。
久遠さんは、机の上に一枚の硬貨を置きました。
「これ、動かせる?」
私は硬貨を見ました。動け、と思いました。何も起きませんでした。
「ああ、そうじゃない」と久遠さんは言いました。「命令するんじゃなくて、思い描くんだ。硬貨が回ってるところを。できるだけ具体的に。縁が光を弾くところまで」
私は目を閉じて、思い描きました。
目を開けると、硬貨は机の上で、細い駒みたいに立って回っていました。
「うん」久遠さんは、うれしそうでも怖そうでもなく、ただ頷きました。「やっぱり、イメージなんだよな。こいつは」
「……どういうことですか」
「君たちの力は、筋肉じゃなくて想像力で動いてる。頭の中に描けるものは、たぶん何でもできる。描けないものは、何もできない」
硬貨が倒れました。
久遠さんはそれを拾い上げて、指先で弄びながら言いました。
「なあ、水無瀬さん。人間ってのは、どうして人を殺さずにいられると思う?」
唐突な質問でした。
「……いけないことだから、ですか」
「それもある。でもな、もっと身も蓋もない理由があると俺は思ってる」
久遠さんは硬貨を机に戻しました。
「手が遅いからだよ」
三
「カッとなって、殴ろうと思う。拳を握って、振りかぶって、振り下ろす。その間に、一秒か二秒かかる。その一秒で、たいていの人間は我に返る。あるいは相手が逃げる。周りが止める。体ってのはな、心のブレーキなんだ。のろまで、不器用で、疲れやすい。だからこそ安全装置として働いてきた」
久遠さんは、自分の手のひらを見ました。
「君たちには、その一秒がない。思った瞬間に、もう終わってる」
私は、窓の外で止まった雪のことを思い出していました。
落ちないでいてくれたらいいのに。
そう思っただけでした。止めようとなんて、していなかった。
「……私、怖いです」
気がつくと、そう言っていました。
「うん」
「自分が、怖いです」
「うん。それでいい」久遠さんは言いました。「怖がれるうちは、大丈夫だ。本当に怖いのは、怖がれない奴のほうだから」
面談の終わりに、久遠さんは言いました。
「俺たちはな、君たちに鍵をかける方法を探してる。心の奥に、外せない鍵を」
「鍵、ですか」
「そう。人を傷つけようとしたら、力が止まるような。……それができなきゃ、この文明はたぶん持たない」
それはひどく恐ろしい言葉のはずでした。私の頭の中を、誰かがいじるという話なのだから。
でも、そのときの私は、少しだけほっとしてしまったんです。
誰かが止めてくれるなら。
それが、私たちの時代の、いちばん正直な気持ちだったと思います。
四
春になる頃には、世界はもう壊れ始めていました。
海外のある都市で、発現者の少年が暴走したというニュースが流れました。詳しいことは報道されませんでした。死者の数だけが、日を追うごとに増えていきました。最後に発表された数字を、私は今も覚えています。覚えているけれど、書きません。
その数字が出た週から、「狩り」が始まりました。
登録名簿がどこからか流出したんです。住所も、顔写真も。発現者の家に石が投げ込まれ、車に火がつけられ、子どもが行方不明になりました。やったのは普通の人たちでした。昨日まで挨拶を交わしていた、近所の人たちでした。
夏生とは、あの雪の日から話していませんでした。
避けられていたのか、私が避けていたのか、もうわかりません。教室で目が合うと、彼女はいつも先に逸らしました。
その日、私は学校の裏門から帰ろうとしていました。
「おい」
呼び止めたのは、隣のクラスの男子三人でした。名前は知っていたけれど、話したことはありませんでした。
「お前、化け物なんだろ」
真ん中の子が、手に石を持っていました。握りこぶしくらいの、角の尖った石でした。
「兄貴の友達がさ、向こうの国で働いてたんだよ。……帰ってこなかったんだよ」
彼の声は震えていました。怒っているのか、怯えているのか、たぶん本人にもわからなかったんだと思います。
石が投げられました。
世界が、ゆっくりになりました。
回転しながら飛んでくる石の、表面の細かい凹凸まで見えました。当たったら、額が割れるだろうな、と思いました。
そして私は、思い描いてしまいました。
石が、空中で止まるところ。
くるりと向きを変えるところ。
投げた彼のほうへ、投げられたよりずっと速く、飛んでいくところ。
――石は、空中で止まっていました。
彼の目の前、三十センチのところで。
三人とも動けませんでした。私も動けませんでした。石は、私の頭の中の映像の、ちょうど半分のところで止まっていたんです。あとは、あと一枚だけ、絵を描き足せば済むところで。
一秒。
久遠さんの言っていた一秒は、私にはありませんでした。
だから私は、自分で作るしかなかった。
その石を、私の中の何かが、ぎりぎりのところで握りしめていました。その「何か」の名前を、私は今でも知りません。恐怖だったのかもしれない。母の手袋のことだったのかもしれない。
いちばん近かったのは、たぶん、夏生の声でした。
――今の、なに。
あのときの、あの小さな声。
石が、地面に落ちました。
三人は逃げていきました。私はその場にしゃがみこんで、長いこと吐いていました。
誰かが背中をさすってくれていることに気づいたのは、ずいぶん経ってからでした。
夏生でした。
「……見てたの」
「ずっと、見てた」夏生は言いました。泣いていました。「ずっと見てたのに、声、かけられなかった。ごめん。ごめんね、灯」
私は何も言えませんでした。
「止めたんだね」
「……止めた、んじゃない」私はやっと言いました。「止まってくれただけ。次も止まるかなんて、わからない」
夏生は、しばらく黙っていました。それから、私の手を握りました。手袋をしていない、素手の私の手を。
「じゃあ、次も一緒にいる」
それが、答えになっているのかいないのか、私にはわかりませんでした。
でも、その手はあたたかかった。
五
久遠さんと最後に会ったのは、夏の終わりです。
センターは閉鎖が決まっていました。予算の問題だと言われましたが、本当は、職員が次々に辞めていったからだと、あとで知りました。
久遠さんはやつれていました。机の上のおにぎりの包装は、もうありませんでした。
「鍵の話、覚えてるか」
「はい」
「目処が立ちそうだ。……たぶん、何世代もかかる。遺伝子に刻むことになる。人を傷つけようとしたら、体が拒否するように。それでもやったら――」
久遠さんは、そこで言葉を切りました。
続きは言いませんでした。言わなくても、わかりました。
「それって」と私は言いました。「その鍵をかけられた人たちは、自分で選んで人を傷つけないわけじゃない、ってことですよね」
久遠さんは、驚いたように私を見ました。
「私は、あの石を自分で止めました。……止まってくれただけかもしれないけど。でも、あのとき私は、選んだんだと思いたいんです」
「……ああ」
「鍵をかけられた人たちは、選べないんですか」
久遠さんは、長いこと黙っていました。窓の外で、ひぐらしが鳴いていました。
「選べる奴ばかりなら、鍵はいらないんだよ」
久遠さんはようやくそう言いました。責めるような声ではありませんでした。ただ、とても疲れた声でした。
「君は選べた。でも、選べなかった奴がいる。選ぶ前に、一秒もなく、全部終わらせちまった奴がいる。そいつ一人で、街がひとつ消える。……俺たちは、君みたいな子に賭けられるほど、強くないんだ」
私は、何も言い返せませんでした。
言い返せなかったことを、今でも覚えています。
千年後のあなたへ
これを書いている今、世界はまだ壊れ続けています。
この先どうなるのか、私にはわかりません。久遠さんの言った鍵が、本当に作られるのかどうかも。作られたとして、それがどんな社会を生むのかも。
でも、もしあなたたちの世界に、誰も誰かを傷つけられない仕組みがあるのなら。
それはきっと、私たちの恐怖の形です。
私たちは怖かった。自分が怖くて、隣の人が怖くて、子どもたちが怖かった。その恐怖が、あなたたちの世界の土台になっているのだと思います。
だから、ひとつだけお願いがあります。
その仕組みの外側で、それでも自分で選ぶことを、どうか忘れないでください。
鍵があるから傷つけないのではなく、傷つけたくないから傷つけないのだと、せめて一度くらいは、自分の胸に問いかけてみてください。
そしてもし、あなたたちの世界で、鍵の外に生まれてしまった子がいたら。
その子を、どうか、化け物と呼ぶ前に。
誰かがその子の手を、素手で握ってあげてください。
あの日、夏生が私にしてくれたように。
窓の外で、また雪が降っています。
今日は、止めません。
ただ、見ています。
――零年、冬 水無瀬灯