落ちない雪
――『新世界より』前史・二次創作――『先に撃て』続編
灯は、手紙を書く子でした。
千年後の誰かへ、って。私はそれを、隣でずっと見ていました。
私は、書いたことがありません。力のない私に、書くことなんてないと思っていたから。
でも今は、灯の代わりに書かなきゃいけない。
灯は、もう書けないから。
一
柾木夏生です。十九歳になりました。
北の谷に来て、二度目の冬です。
名前のない谷でした。地図にも載っていない、昔の炭焼き小屋が三つあるだけの場所。私たちは、そこを少しずつ直して、十五人で暮らしていました。
灯と私。朔と、猫。山の集落から一緒に逃げてきた子たち。発現者が四人、そうじゃない子が十人。
食べ物は足りませんでした。いつも。でも、誰も器の量を比べませんでした。朔のノートを、みんなが一冊ずつ写していたから。規則八十九、「食べ物は、人数で割る」。
夜は、朔が拾ってきた古いラジオを囲みました。
電池がもつ間だけ、久遠さんの声が聞こえました。どこかの山奥から、短波で、毎晩同じ時間に。
渋谷のことも、そのラジオで知りました。
地下の人たちが、鉄砲を作っていること。狐と呼ばれた男の子が、撃たれたこと。
灯は、その放送を聞いた夜から、あまり眠れなくなりました。
二
最初に気づいたのは、朔でした。
「霜の形が、おかしいです」
朝、小屋の戸口で、朔は窓ガラスを指さしていました。
霜の結晶は、ふつう、羊歯の葉みたいな形に広がります。そのガラスの霜は、違いました。何本もの細い線が、ガラスの一点から、きれいな渦を巻いて広がっていました。まるで、誰かが丁寧に描いたみたいに。
「きれいだね」
私はそう言いました。朔は、答えませんでした。ノートを出して、何かを書きつけていました。
それから、少しずつ、いろいろなものがおかしくなりました。
小屋のまわりの白樺の幹が、ねじれ始めました。一本残らず、同じ方向に、ゆっくりと。
バケツに汲んだ水が、朝には、凍るんじゃなくて、細い針みたいな結晶の束になっていました。
猫の毛が、根元から、透き通るように白くなっていきました。
山の集落から一緒に来た、十一歳の男の子――干し肉を盗んだ、あの子です――の爪が、薄くて硬い、ガラスみたいな質感に変わり始めました。痛くはないって、その子は言いました。でも、怖がって、手袋を外さなくなりました。
朔は、毎日、谷のあちこちで何かを測っていました。木のねじれの角度。霜の渦の中心。結晶の向き。
ある夜、朔は、ノートを一枚破って、地面に置きました。
谷の地図でした。ねじれた木と、渦の中心と、変わった結晶の位置が、点で記されていました。
点は、ひとつの円を描いていました。
円の中心は、灯と私が寝ている小屋でした。
三
「漏れている、んだと思います」
朔は、灯と私の前で、そう言いました。いつもの、平らな声で。
「力は、描いたものにしか働かない、はずです。でも、眠っている間とか、考えていないときとか、描くつもりがなくても、何かを描いてしまうことがあるのかもしれない」
灯は、黙っていました。
「その描いてしまったものが、まわりに、少しずつ、滲み出している。……半径は、毎日、だいたい二十センチずつ広がっています」
朔は、ノートの数字を指でなぞりました。
「このままだと、あと三十日くらいで、谷全体が円の中に入ります」
その夜のラジオで、久遠さんが話していました。
各地で、似たような報告があると。発現者のまわりで、物や生き物の形が、ゆっくりと変わっていく。本人の意思とは関係なく。止める方法は、わかっていない。
「……本人を、隔離するしかないと、言われています」
久遠さんの声は、途切れ途切れでした。
「あるいは――」
そこで、電池が切れました。
灯は、消えたラジオを、長いこと見ていました。
四
「夏生」
小屋の中で、灯が言いました。ろうそくの火が、灯の顔を半分だけ照らしていました。
「私、わかってたの。ずっと前から」
「……何を」
「夢を見るの。渋谷の夢。燃えてる交差点とか、地下に落ちてく天井とか。……それを、止めようとする夢」
灯は、自分の手を見ていました。
「夢の中で、私、ずっと雪を止めてるの。落ちてくる瓦礫とか、火の粉とか、全部。止まれ、止まれって。……目が覚めても、止まらないの。夢の中の絵が」
灯は、笑いました。泣いてるみたいな顔で。
「落ちないでいてくれたらいいのに、って。最初にそう思ったの、覚えてる? 渡り廊下で」
覚えていました。
あの日の雪を。空中に縫い留められた、何千という雪片を。
「あれが、まだ続いてるんだと思う。私の中で。ずっと」
五
灯は、次の朝、いなくなりました。
置き手紙がありました。
「谷の奥に行きます。誰もついてこないで。朔、みんなのこと、お願い。夏生、ごめんね」
私は、手紙を握りしめて、雪の中に飛び出しました。
朔が、ついてきました。
「夏生さん。円の中に入ると、夏生さんも変わります」
「知ってる」
「戻れなくなるかもしれません」
「知ってる!」
私は叫んでいました。朔は、黙りました。それから、私の横を、歩き続けました。
規則一。人が泣いていたら、そばに行く。
私は、泣いていたんだと思います。
灯の足跡は、谷の奥の、沢に沿って続いていました。
歩くにつれて、森が変わっていきました。
白樺が、ねじれているだけじゃなくなりました。幹の表面が、薄い硝子の膜で覆われていました。枝の先に、氷とも水晶ともつかない、細い花みたいなものが咲いていました。
空気が、きらきらしていました。
足跡の先に、小さな岩屋がありました。
灯は、その入口に座っていました。
「来ないでって、書いたのに」
灯は、振り返らずに言いました。
「次も一緒にいるって、言ったでしょ」
私は、灯の隣に座ろうとしました。
足元の雪が、ふわりと浮きました。
違う。
雪が、落ちてこないんです。
空から降ってくる雪が、灯のまわり、五メートルくらいの範囲に入ったところで、ぴたりと止まって、そのまま宙に浮いていました。何千、何万という雪片が。音もなく。時間ごと切り取られたみたいに。
渡り廊下の、あの日と同じでした。
でも、あの日よりずっと広くて、ずっと静かで、ずっと、止まったままでした。
私の髪の先が、その空間に入ったところで、透き通って、細い結晶に変わり始めました。
「夏生」
灯が、やっと私を見ました。
「お願い。出て」
六
長いこと、話しました。
円の、すぐ外側で。私は、髪の先が結晶に変わった分だけ下がって、灯は岩屋の入口に座ったまま。五メートルの距離で。
「止められないの?」
「止め方が、わからない」灯は言いました。「朔が言ってたでしょ。描くつもりがなくても、描いちゃうの。……一番描きたくないものほど、頭から離れない」
「じゃあ、私も、ここにいる」
「駄目」
「いる」
「夏生が変わっちゃう」
「いいよ」
「よくない!」
灯が、初めて叫びました。
円の中の雪が、一斉に震えました。
「夏生は、力がないの。だから、変わったら、戻れないの。私が描いたものに、ずっと閉じ込められるの。……それが、一番、嫌なの」
灯は、両手で顔を覆っていました。
「お母さんに言われたの。あなたが殺されるのも、あなたが誰かを殺すのも、どっちも嫌だって。……私、殺さないでいようって、ずっと思ってた。力を使わないでいようって。ブレーキになろうって」
灯の肩が、震えていました。
「でも、使わないでいても、漏れちゃうんだね」
私は、何も言えませんでした。
朔が、私の隣に来て、黙って座りました。何も言わずに。ただ、座っていました。
長い時間が経ちました。
日が傾いて、森の硝子が、夕焼けの色に光りました。
灯が、顔を上げました。
「夏生。お願いが、あるの」
「……うん」
「ここを、覚えてて」
灯は、自分のまわりの、止まった雪を見上げていました。
「私、たぶん、ここから出られない。出ちゃいけない。ここにいたら、誰も巻き込まない。……円は広がるけど、谷の奥だから、人のいるところまでは届かないと思う。朔、計算して」
朔は、ノートを開いて、何かを書きました。
「広がる速さが、今のままなら。……九十年くらい、かかります。人の住む場所まで」
「九十年」灯は、少しだけ笑いました。「長生きしちゃうかもね」
それから、私を見ました。
「夏生。次も一緒にいる、って言ってくれたよね」
「うん」
「だったら、ここにいて。円の、外に」
灯は、指先で、私と灯の間の、目に見えない線をなぞりました。
「中に入らないで。外にいて。……私がここにいるのを、覚えててくれる人が、一人いればいい」
七
私は、谷に残りました。
円の外側に、小さな小屋を建てました。朔と、谷の子たちが手伝ってくれました。
円は、毎日二十センチずつ、広がっていきます。私は、ひと月ごとに、小屋を少しずつ下流に移します。
毎朝、円の縁まで行って、灯の名前を呼びます。
返事は、ありません。
でも、円の中の雪は、今日も止まったままです。何万という雪片が、硝子の森の中に浮かんで、朝の光を受けて、きらきらしています。
灯が生きている間は、雪は落ちない。
そう思っています。
朔は、春になって、谷の子たちを連れて、南へ下りていきました。
ノートを、もっとたくさんの人に写してもらうためだそうです。渋谷のほうにも、行くかもしれないって。
別れ際、朔は、ノートの一冊を私にくれました。
最後のページに、朔の字で、新しい規則が書き足してありました。
規則二百十八。「約束した場所に、いる」
「夏生さんの規則です」
朔は、そう言いました。
「ぼくには、どうしてそうするのか、わかりません。でも、夏生さんがそうしているのを見て、書きました」
私は、そのノートを抱いて、少しだけ泣きました。
朔は、規則一の通り、そばに来て、黙って座りました。
千年後のあなたへ。
もし、あなたたちの世界のどこかに、雪が降っても地面に落ちない森があったら。
硝子みたいな白樺が、みんな同じ方向にねじれて、空気がいつもきらきらしている場所があったら。
そこは、水無瀬灯という女の子がいた場所です。
誰も殺さないでいようとして、力を使わないでいようとして、それでも力が漏れ出してしまった、十九歳の女の子の場所です。
その森を、怖がらないでください。
化け物の森だなんて、呼ばないでください。
あの子は最初、ただ、雪がきれいだと思っただけでした。
落ちないでいてくれたらいいのに、と。
その願いが、叶ってしまっただけなんです。
――柾木夏生
円の外より