新世界より0年   作:Sub Sonic

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白い猫

白い猫

――『新世界より』前史・二次創作――『落ちない雪』続編

 

スコープの中に、子どもがいた。

 

痩せた、背の低い男の子。十五か、十六。ぼろぼろのリュックを背負って、宮益坂の瓦礫の間を、ゆっくり歩いてくる。

 

走っていない。隠れてもいない。

 

この街で、そんな歩き方をするのは、発現者だけだ。

 

私は、十字をその子の胸に合わせた。

 

距離、四百二十メートル。風、ほぼなし。

 

撃てる。

 

迷わない、と決めたはずだった。

 

橘千景。三十六歳。

 

渋谷の地下に来て、一年が経った。

 

その間に、私は十一人を撃った。坂上の手下が七人。ミヤシタの子が三人。それから、狐。

 

全員、地下を襲いに来た発現者だった。撃たなければ、地下の誰かが死んでいた。そう自分に言い聞かせて、十一回、引き金を引いた。

 

狐のときだけ、一秒迷った。

 

それ以外は、迷わなかった。

 

迷わなくなった自分が、夜中に目を覚ますたびに、少しずつ知らない人間になっていく気がした。

 

「橘さん、撃たないんですか」

 

隣で、沢井くんが囁いた。

 

ヒカリエの十一階。割れた窓の奥。いつもの狙撃位置。沢井くんは、自分で作った鉄砲を抱えて、私の観測手をしていた。

 

「一人です。発現者ですよ。地下の入口に向かってる」

 

わかっていた。

 

あの子の歩く先には、東横線の旧改札に抜ける、地下への入口のひとつがある。瓦礫で塞いであるが、発現者なら一瞬でどかせる。

 

先に撃つ。それが、この街の唯一の規則だった。

 

私は、引き金に指をかけた。

 

そのとき、男の子の肩の上で、何かが動いた。

 

リュックの口から、白いものが顔を出した。

 

猫だった。

 

真っ白な、毛並みが透き通るような猫。

 

猫は、男の子の肩によじ登って、あくびをした。後ろ足を、少しだけかばうような歩き方で。

 

――骨が一度折れて、つながったような。

 

私は、引き金から指を離した。

 

七百メートル。

 

違う街の、違う雑居ビルの屋上。スコープの中の、団地のベランダ。

 

植え込みでうずくまっていた、後ろ足の折れた猫。

 

それを宙に浮かせて、両手で受け取った、表情のない男の子。

 

「目標、兆候、確認できず」

 

二年前に、私がそう言って、撃たなかった子。

 

後任から、伝言をもらっていた。辞令が出て、部隊が解散する前の、最後の日に。後任の彼は、目を真っ赤にして、私に言った。

 

猫は、元気です、と。

 

あの子がそう言っていた、と。

 

「……撃たない」

 

私は、ライフルを床に置いた。

 

「沢井くん。あの子のところへ行く」

 

「は? 何言って――」

 

「あの子は、撃たない」

 

沢井くんは、私の顔を見て、それ以上何も言わなかった。

 

宮益坂の途中で、男の子は、立ち止まっていた。

 

私が瓦礫の陰から出ていくと、男の子は、こっちを見た。

 

表情が、ほとんど動かなかった。二年前と同じ。

 

「撃たないんですか」

 

男の子は言った。平らな声で。

 

「さっき、ずっと、あのビルの窓から見ていましたよね。レンズが、光っていました」

 

「……気づいてたの」

 

「はい。西日が当たる時間なので」

 

私は、笑いそうになった。二年前と、同じことを言っている。

 

「あなたが撃っても、たぶん、止まります」男の子は言った。「半径三メートルの中に入ってくる速いものは、止まるように描いてあるので。でも、止まったら、あなたが怖くなると思って。……だから、撃たないでくれて、よかったです」

 

「私のこと、覚えてる?」

 

男の子は、少し首を傾げた。

 

「七百メートル先の、屋上の人ですか。最初の」

 

「うん」

 

「猫は、元気です」

 

男の子は、肩の上の白い猫を、両手で抱き下ろして、私に見せた。

 

「白くなりましたけど。元気です」

 

私は、瓦礫の上に、膝をついていた。

 

泣いていたと思う。

 

十一人を撃った手で、顔を覆って。

 

男の子は、猫を抱いたまま、私の隣に来て、黙って座った。

 

何も言わずに。ただ、座っていた。

 

二年前、後任の彼の隣にも、こうやって座ったんだろうと思った。

 

男の子の名前は、朔といった。

 

北の山から、ノートを持って下りてきたのだと言った。二百十八個の規則が書いてあるノートを。何冊も。

 

「写してもらおうと思って」

 

地下の作業場で、朔は、錆びた調理台の上にノートを並べた。

 

地下の住人たちが、遠巻きに朔を見ていた。怯えた目で。沢井くんは、鉄砲を手放さなかった。何人かは、はっきりと朔に銃口を向けていた。

 

朔は、気にしていないようだった。

 

いや。たぶん、気にしているということが、わからないんだろう。

 

「規則一は、これです」

 

朔は、最初のページを開いて、読み上げた。

 

「人が泣いていたら、そばに行く」

 

地下の空気が、少しだけ動いた。

 

「規則二百六。力で、人を壊さない。絶対に」

 

「……発現者の、規則か」

 

誰かが言った。朔は、首を振った。

 

「誰の規則でもないです。ぼくのお母さんが、ぼくのために書いてくれたものです。ぼくには、みんなが持っているものが足りないので。代わりに」

 

朔は、ページをめくった。

 

「でも、足りていても、守れない人がいると思います。だから、誰が写してもいいです」

 

地下の誰も、すぐにはノートに手を伸ばさなかった。

 

最初に手を伸ばしたのは、沢井くんだった。

 

鉄砲を、調理台の脇に置いて。

 

「……規則二百六って、発現者じゃない奴も、守れるのか」

 

朔は、少し考えた。

 

「力で、を、鉄砲で、に書き換えれば」

 

沢井くんは、しばらく黙っていた。

 

それから、ノートの白紙のページに、鉛筆で、何かを書き写し始めた。

 

坂上が攻めてきたのは、その三日後の夜明けだった。

 

ミヤシタとの抗争で手下を半分失った坂上は、地下を丸ごと手に入れようとしていた。地下の住人を、働き手にするために。水と食い物を運ばせるために。

 

北の山で、蓮という男の子がやったのと同じことだと、朔は言った。

 

十五人の発現者が、渋谷駅の東口に集まっていた。

 

地下への入口を、一斉にこじ開ける気だった。

 

私は、ヒカリエの十一階にいた。沢井くんと、撃ち方を覚えた地下の住人が二十人、それぞれの窓に散っていた。

 

十五人。二十丁の鉄砲。

 

先に撃てば、勝てる。

 

たぶん。

 

朔が、東口の真ん前に出ていった。

 

誰も止められなかった。瓦礫の間を、あの歩き方で、ゆっくりと。

 

坂上の手下たちが、朔に気づいた。

 

朔は、地下の入口の前で、立ち止まった。

 

背中を、入口に向けて。坂上たちに、顔を向けて。

 

「ここから先は、壊さないでください」

 

平らな声が、崩れた交差点に響いた。

 

坂上が、笑った。二十歳くらいの、派手な髪の男だった。

 

「なんだ、お前。地下の犬か」

 

「犬ではないです」

 

「じゃあ何だ。発現者だろ。なんで鶏の側についてんだよ」

 

鶏。

 

地下の住人を、坂上たちはそう呼んでいた。狐が死んでから、この街で一番流行っている呼び方だった。

 

朔は、少し首を傾げた。

 

「鶏ではないです。人間です」

 

坂上の力が、朔を打った。

 

見えなかった。ただ、朔の前の空気が、硝子が割れるように軋んで、朔の足元のアスファルトが、放射状にひび割れた。

 

朔は、立っていた。

 

鼻から、血が一筋流れていた。

 

坂上の手下たちが、一斉に力を放った。

 

朔のまわりの空気が、悲鳴を上げた。見えない球が、四方八方から押し潰されて、軋んで、たわんで、それでも――

 

割れなかった。

 

朔は、一歩も下がらなかった。

 

誰にも、力を向けなかった。

 

そのとき、私の横で、誰かが引き金を引いた。

 

地下の住人の一人だった。窓の隣の、別の窓から。

 

朔を狙っていた。

 

発現者だから。坂上と同じ、発現者だから。先に撃つ。それがこの街の規則だから。

 

弾丸は、朔の背中の三十センチ手前で、止まった。

 

空中で、回転していた。

 

朔は、振り返りもしなかった。

 

弾丸は、そのまま、ゆっくりと地面に落ちた。

 

私は、スコープを覗いていた。

 

十字の中に、坂上がいた。

 

坂上は、笑っていなかった。朔の背中に向けて撃たれた弾丸と、それを振り返りもしない朔を見て、口を開けていた。

 

怯えていた。

 

蓮と同じだ、と思った。朔から、話を聞いていた。

 

自分より弱いはずのものが、自分を恐れないことに、怯えていた。

 

坂上の右手が、持ち上がった。朔にではなく――地下の入口の、その奥に向けて。

 

朔の球の、届かない場所に向けて。

 

私は、坂上の顔を見た。

 

四百メートル先の、その顔を。

 

迷わなかった。

 

でも、見た。

 

一秒かけて、見た。

 

それが、人間の顔かどうか。朔が「人間です」と言った、その意味を、私の目で確かめるために。

 

人間の顔だった。

 

怯えて、追い詰められて、それでも誰かを壊そうとしている、人間の顔だった。

 

私は、撃った。

 

坂上が倒れたあと、手下たちは、逃げていった。

 

誰も、それ以上撃たなかった。

 

朔は、地下の入口の前で、ずっと立っていた。

 

夕方、朔は、坂上が倒れた場所に行って、しばらく立っていた。それから、地下に戻ってきて、ノートに何かを書き足していた。

 

「何を書いたの」

 

私が訊くと、朔は、ノートを見せてくれた。

 

規則二百十九。「撃たれても、振り返らない。振り返ると、相手が怖くなるから」

 

「……それは、あなたの規則?」

 

「はい。今日、わかったので」

 

朔は、ノートを閉じた。

 

「橘さんは、坂上さんを撃ちましたね」

 

「うん」

 

「迷いましたか」

 

私は、少し考えた。

 

「迷わなかった。でも、見た」

 

朔は、しばらく私の顔を見ていた。

 

「それは、規則にできますか」

 

地下と、ミヤシタとの間に、協定ができたのは、その一か月後だった。

 

ミヤシタの十七歳の頭が、自分から地下に降りてきた。坂上が撃たれたことを知って。朔が撃ち返さなかったことを知って。

 

協定の中身は、簡単だった。

 

ミヤシタは、地下を襲わない。地下は、ミヤシタを撃たない。そして、両方とも、ノートを写す。

 

協定書の代わりに、朔のノートの白紙のページに、両方の代表が、名前を書いた。

 

一番上に、新しい規則が書き足された。

 

規則二百二十。「撃つ前に、一秒、顔を見る」

 

私の規則だった。

 

この協定は、たぶん、長くはもたない。

 

わかっている。

 

渋谷の外では、今もどこかで誰かが先に撃っている。北の山では、蓮の国が大きくなっているらしい。国の偉い人たちは、鍵をかける研究を続けていて、陽性の子どもを「悪鬼」と呼んで、処分する準備をしている。久遠さんのラジオは、先月から聞こえなくなった。

 

世界は、ノートよりも鍵を選ぶだろう。

 

一人ひとりの顔を見るより、全員に鍵をかけるほうが、ずっと早くて、ずっと確かだから。

 

たぶん千年後、あなたたちが生きている世界は、そうやってできている。

 

それでも、書いておきます。

 

二年前、七百メートル先で、私は一人の子どもを撃たなかった。迷ったから。

 

その子は、猫の骨をつないで、白い猫を肩に乗せて、ノートを抱えて、この街に来ました。

 

そして、撃たれても振り返らずに、地下の入口の前に立っていました。

 

私の迷いは、百九人を死なせた。

 

私の迷いは、あの子を生かした。

 

どちらが正しかったのか、今もわかりません。

 

でも、今の私には、規則がひとつあります。

 

撃つ前に、一秒、顔を見る。

 

鍵がなくても、それだけは、できる。

 

――橘千景

 

渋谷、地下にて

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