新世界より0年   作:Sub Sonic

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狐と鶏

狐と鶏

――『新世界より』前史・二次創作――『鶏小屋の王』続編

 

右手の小指は、今でも少し曲がってる。

 

王様が折った指だ。鍵の試験で。

 

痛みは、もうない。でも、鉄砲の引き金を引くときは、この指じゃなくて、人差し指を使う。

 

当たり前だけど。

 

陸。十四歳。

 

干し肉を盗んだガキ、って言ったほうが、たぶん通じる。

 

三年前、この谷の分校の校庭で、指を折られかけた。朔って陽性の子が断って、灯って人が雪を止めて、俺は助かった。それで、灯さんたちと北の谷へ逃げた。

 

灯さんは、谷の奥の、雪の落ちない森に消えた。夏生さんは、その森の外に残った。朔は、ノートを持って南へ下りた。残った子たちは、ばらばらになった。

 

俺は、姉ちゃんに会いたくて、一人でこの谷に戻ってきた。

 

姉ちゃんは、発現者だ。三年前、校庭で、蓮の手下に地面に押さえつけられて、俺の名前を叫んでた。

 

戻ってきたら、谷は国になってた。

 

姉ちゃんは、同族になってた。

 

俺は、鶏になった。

 

姉ちゃんは、今も、俺に優しい。

 

夜中に、こっそり鶏の小屋まで来て、自分の分の干し肉を半分くれる。三年前の俺が盗んだのと同じ、干し肉を。

 

でも、王様が俺の小指を折ったあの日、姉ちゃんは広場の端にいて、何もしなかった。

 

できなかったんだと思う。鍵のせいじゃない。姉ちゃんにも、もう鍵がかかってた。鶏を守るために、同族の王様に力を向けたら、姉ちゃんの喉が締まる。

 

でも、それだけじゃなかった気もする。

 

姉ちゃんの目が、少しだけ、遠かった。

 

同族じゃないものを、見る目だった。

 

「野火」が来たのは、秋の終わりだった。

 

最初は、噂だった。東の山を越えた先の町が、一晩で焼けた。南の集落が、丸ごと消えた。発現者の集団が、北へ向かってる。

 

鍵のない、発現者の集団が。

 

王様は、宮の広間に発現者を全員集めた。

 

俺は、鶏の小屋の窓から、宮の明かりを見てた。

 

姉ちゃんが、あとで教えてくれた。広間で何が話されたか。

 

誰も、戦い方がわからなかったんだって。

 

「相手が来たら、どうするの」

 

姉ちゃんは、俺の小屋の隅で、膝を抱えてた。

 

「壊せないの。相手が同族だったら。壊そうとしたら、自分が壊れる。……蓮さん、ずっと黙ってた」

 

野火は、夜明けに来た。

 

二十人くらいだった。たった二十人。

 

国には、四百人の発現者がいた。

 

最初に、谷の入口の見張りが、二人、宙に吊り上げられた。

 

見張りは、反撃しようとした。手を上げた。

 

その瞬間、見張りの二人は、喉を押さえて、空中でもがき始めた。自分の鍵が、自分の喉を締めたんだ。

 

野火の連中は、それを見て、しばらく黙ってた。

 

それから、笑い出した。

 

谷中に響くような声で。

 

先頭にいたのは、三十くらいの男だった。

 

痩せた、目の細い、表情のない男。服装だけは、妙にきちんとしてた。

 

男は、吊り上げた見張りを、ゆっくり地面に下ろした。見張りは、息も絶え絶えだった。

 

男は、見張りの顔を覗きこんだ。

 

「お前ら、自分に何をした」

 

男の声は、静かだった。

 

「反撃できないのか。俺たちに」

 

男は、顔を上げて、谷を見渡した。宮を。畑を。鶏の小屋を。

 

「……四百人の、羊か」

 

それから、野火は、宮に向かって歩き始めた。

 

急がなかった。

 

急ぐ必要がなかった。

 

宮の前に、発現者たちが並んでた。四百人。王様を守るために。でも、誰も、手を上げなかった。上げたら、喉が締まる。

 

野火の男が、指を一本、動かした。

 

先頭の発現者の頭が、ありえない角度に曲がった。

 

その隣の発現者が、悲鳴を上げて、反射的に手を上げた。喉を押さえて、倒れた。自分の鍵に、首を絞められて。

 

次の発現者は、手を上げなかった。

 

ただ、立ったまま、死んだ。

 

俺は、鶏の小屋の窓から、それを見てた。

 

四百人の発現者が。

 

鶏を人間だと思わないように教え込まれた、同族たちが。

 

一人ずつ、狐に食われていくのを。

 

誰も、逃げなかった。逃げられなかったんだと思う。逃げようとして背を向けた瞬間に、狙われる。反撃は、できない。

 

鶏小屋の鶏みたいに。

 

姉ちゃんが、あの中にいた。

 

小屋の戸が、開いた。

 

大人の女の人が立ってた。ぼろぼろの防寒着に、長い布包み。その後ろに、若い男の人。大きな荷物を背負って。

 

それから、もう一人。

 

痩せた、背の低い男の子。

 

肩に、白い猫を乗せてた。

 

「……朔?」

 

三年ぶりだった。

 

朔は、俺を見て、少しだけ首を傾げた。

 

「陸くんですね。指は、治りましたか」

 

俺は、何も言えなかった。

 

朔は、俺の右手を見た。曲がった小指を。

 

それから、窓の外の宮を見た。倒れていく発現者たちを。

 

「久遠さんが、渋谷に来ました」

 

朔は、平らな声で言った。

 

「この国で、何が起きたか。鍵のことも。……だから、来ました」

 

女の人――橘さんは、布包みを解いた。

 

中から、長い鉄砲が出てきた。

 

若い男の人――沢井さんは、背中の荷物を下ろした。

 

中から、鉄砲が、十丁、二十丁、出てきた。

 

「撃ち方は、教える」

 

橘さんは、小屋の中の鶏たちを見回した。

 

「あの二十人は、鍵がない。でも、見えないものは止められない。遠くから、先に撃てば、倒せる」

 

鶏たちは、誰も動かなかった。

 

一人が、ぽつりと言った。

 

「……なんで、俺たちが、あいつらを助けなきゃいけない」

 

宮のほうを、顎で指して。

 

「あいつら、俺たちを鶏って呼んで、畑で働かせて、逆らったら殺したんだぞ。王様は、この子の指を折ったんだぞ」

 

俺のほうを、見て。

 

小屋の中が、静かになった。

 

橘さんは、何も言わなかった。

 

沢井さんも。

 

朔が、ノートを一冊、リュックから出した。

 

「規則一」

 

朔は、読み上げた。

 

「人が泣いていたら、そばに行く」

 

窓の外で、誰かが泣き叫んでた。

 

発現者の、誰かが。

 

「……泣いているのが、誰でも、ですか」

 

朔は、自分に訊くみたいに言った。

 

「わかりません。ぼくには。でも、規則には、誰でも、と書いてあります」

 

俺は、窓の外を見た。

 

宮の前で、姉ちゃんが、立ってた。

 

野火の男が、ゆっくりと、姉ちゃんのほうへ歩いていた。

 

俺は、沢井さんの荷物から、鉄砲を一丁、掴んだ。

 

「撃ち方、教えて」

 

教わった時間は、たぶん三分もなかった。

 

構え方。狙い方。息の止め方。引き金は、引くんじゃなくて、絞る。

 

「一秒、顔を見て」

 

最後に、橘さんが言った。

 

「撃つ前に。……相手が、何をしようとしてるか、見て」

 

俺は、小屋の裏の、崩れた石垣の陰に伏せた。

 

宮の前まで、たぶん百メートルくらい。

 

野火の男が、姉ちゃんの前に立ってた。

 

姉ちゃんは、動けなかった。手を上げたら、自分の喉が締まる。逃げようとしたら、背中から狙われる。

 

男が、姉ちゃんの顔を覗きこんでいた。

 

見張りのときと、同じように。

 

「羊だな」

 

男の声が、ここまで聞こえた。

 

「きれいな羊だ」

 

男の手が、ゆっくり持ち上がった。

 

一秒。

 

俺は、男の顔を見た。

 

痩せた、目の細い、表情のない顔。

 

何も、映ってなかった。

 

姉ちゃんが怯えていることも。この谷で何百人が死んでることも。その目には、何ひとつ、映ってなかった。

 

――伊吹って人も、こういう顔だったのかな。

 

一秒は、過ぎた。

 

俺は、人差し指で、引き金を絞った。

 

音が、ひどく大きかった。

 

肩に、殴られたみたいな衝撃が来た。

 

男が、よろめいた。

 

胸を押さえて、自分の手を見て、それから、こっちを見た。

 

見えるはずのない、石垣の陰の、俺を。

 

たぶん、見えてなかったと思う。

 

男は、膝をついた。

 

そのまま、倒れた。

 

谷のあちこちで、音が鳴った。

 

橘さんの音。沢井さんの音。小屋から出てきた、鶏たちの音。

 

野火の連中が、一人ずつ倒れていった。

 

最初は、何が起きてるのかわからない顔をしてた。見えない。止められない。どこから来るかもわからない。それから、みんな、同じ顔になった。

 

怯えた顔。

 

四百人の発現者が、さっきまでしていたのと、同じ顔。

 

野火の最後の三人が、宮の奥に逃げ込んだ。

 

そこには、鶏の子どもたちが、閉じ込められてた。人質にするつもりだったんだと思う。

 

三人のうちの一人が、子どもたちに向けて、力を放とうとした。

 

子どもたちの前に、朔が立ってた。

 

いつの間に、そこにいたのか、わからない。

 

硝子が割れるような音が、宮の中に響いた。

 

朔の鼻から、血が流れた。

 

朔は、一歩も下がらなかった。

 

誰にも、力を向けなかった。

 

三人は、長いこと、朔に力をぶつけ続けた。朔は、ずっと立っていた。顔が真っ白になって、膝が震えて、それでも倒れなかった。

 

最後に、三人のほうが、疲れて、手を下ろした。

 

「……お前、なんで反撃しない」

 

一人が、息を切らしながら訊いた。

 

「お前、鍵、かかってないだろ。わかるぞ。俺たちと同じ匂いがする」

 

朔は、答えた。

 

「規則二百六。力で、人を壊さない。絶対に」

 

三人は、顔を見合わせた。

 

それから、一人ずつ、宮の外へ出ていった。

 

外で、橘さんが待ってた。

 

野火は、二十人のうち、十七人が死んだ。

 

三人は、橘さんに縛られて、谷の牢に入れられた。朔が、撃たないでほしいと言ったから。規則を、写してもらうために。

 

国の発現者は、百二十七人が死んだ。

 

四百人のうちの、百二十七人。

 

誰も、反撃できずに。

 

姉ちゃんは、生きてた。

 

俺が撃ったあと、宮の前で、へたりこんで、泣いてた。

 

俺は、鉄砲を抱えたまま、姉ちゃんのところへ行った。

 

規則一。人が泣いていたら、そばに行く。

 

姉ちゃんは、俺の顔を見た。

 

それから、俺の腕の中の、鉄砲を見た。

 

姉ちゃんの目が、また、少しだけ遠くなった。

 

――鶏が、鉄砲を持っている。

 

たぶん、そういう目だった。

 

でも、姉ちゃんは、俺の曲がった小指を、両手で包んだ。

 

「……ごめんね」

 

姉ちゃんは、そう言った。

 

何に謝ったのか、俺にはわからなかった。

 

三日後、王様が、鶏の小屋に来た。

 

一人で。

 

小屋の中の鶏たちは、みんな、鉄砲を持ってた。

 

王様は、戸口で立ち止まった。

 

誰も、撃たなかった。

 

誰も、下ろしもしなかった。

 

「……助けてくれて、礼を言う」

 

王様は、頭を下げた。

 

二十一歳の、背の高い男が。俺の小指を折った男が。

 

鶏たちは、黙ってた。

 

「この国は、お前たちに守られた」

 

王様は、顔を上げた。

 

「だから、頼みがある。……この国に、残ってくれ。守り手として。鉄砲を持ったままで、いい。外から、また鍵のない奴らが来たら、俺たちには、何もできない」

 

長い沈黙だった。

 

最初に口を開いたのは、朔だった。

 

「ぼくは、残れません」

 

朔は、王様をまっすぐ見ていた。

 

「ぼくには、鍵がかかっていません。守り手になれると思います。でも、ぼくは、誰も壊さないので。守り手には、なれません」

 

王様は、朔を見た。三年前、指を折れと命じて、断られた、あの陽性の子を。

 

「……じゃあ、どうすればいい」

 

「わかりません」

 

朔は言った。

 

「でも、あなたたちが作った鍵は、同族を守るものではなかったと思います。同族を、壊せなくするものでした。……守れなくするものでした」

 

王様は、答えなかった。

 

鶏たちは、残らなかった。

 

少なくとも、俺たちは。

 

鉄砲を持った鶏のうち、半分くらいが、橘さんと沢井さんについて、谷を出ることにした。山の奥で、自分たちだけで暮らすんだって。鉄砲と、ノートを持って。

 

残りの半分は、谷に残った。鉄砲を持ったまま。王様と、何か約束をしたらしい。守り手として、飯と寝床を保証する、とか。

 

どっちが正しいのかは、わからない。

 

出ていく前の晩、王様が、もう一度、小屋に来た。

 

今度は、俺に。

 

「お前の姉さんは、残ると言っている」

 

俺は、知ってた。

 

姉ちゃんは、同族だから。

 

鍵がかかった体で、鉄砲を持った鶏たちと一緒に、山で生きていくのは、無理だって。もし山で、鍵のない発現者に会ったら。反撃できないまま、また羊になるだけだって。

 

「……それに」

 

王様は、少しだけ言葉を詰まらせた。

 

「あいつは、もう、お前を――」

 

最後まで、言わなかった。

 

言わなくても、わかった。

 

姉ちゃんの、あの遠い目。

 

鍵は、姉ちゃんの中で、ちゃんと働いてる。俺は、もう、姉ちゃんの同族じゃない。

 

王様は、しばらく黙ってから、言った。

 

「あの陽性の子が言ってたことを、考えてる」

 

「……守れなくするもの、って」

 

「ああ」

 

王様は、窓の外を見た。谷のあちこちに、まだ焼け跡が残ってた。

 

「鍵のない奴らから、この国を守るには、鍵のない何かがいる。俺たちの代わりに、壊してくれる何かが。……鶏でもなく、同族でもない何かが」

 

王様は、自分の手を見てた。

 

「人間じゃない、何かが」

 

俺は、背筋が冷たくなった。

 

「何を、作る気だよ」

 

王様は、答えなかった。

 

朝、俺は、谷を出た。

 

鉄砲と、ノートを持って。

 

姉ちゃんは、宮の前で、手を振ってた。

 

遠い目のまま、手を振ってた。

 

山の中で、朔が、ノートに新しい規則を書き足していた。

 

「何書いたの」

 

俺が訊くと、朔はページを見せてくれた。

 

規則二百二十一。「守るために、壊せなくしてはいけない」

 

「……それ、わかるの? 朔に」

 

朔は、少し考えた。

 

「わかりません。でも、今日、見たので」

 

朔は、ノートを閉じて、肩の上の白い猫を撫でた。

 

「たくさん、泣いている人を、見たので」

 

俺は、手紙は書かない。

 

千年後に、何が残ってるかなんて、わからない。

 

でも、もし、あんたたちの町に、鍵がかかってて。

 

鍵のない誰かが来たら、誰も反撃できなくて。

 

代わりに戦う、人間じゃない何かがいたら。

 

それを作ったのは、たぶん、あの谷の王様だ。

 

同族を守ろうとして、同族を守れなくしてしまった、あの人だ。

 

そして、そのとき、あんたたちの町の外の、山の奥のどこかで、鉄砲を持った鶏の子孫が、まだ生きてるかもしれない。

 

俺たちみたいに。

 

姉ちゃんの同族じゃない、俺たちみたいに。

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