虎の規則
――『新世界より』前史・二次創作――『狐と鶏』続編
虎には、鍵がかからない。
当たり前だ。虎にとって、人間は同族ではないのだから。
だから、選ばれた。
迷わない何かとして。
一
真田です。三十歳。
群馬の施設で、梶原さんの点滴を替えていた助手です。防護服を着て、梶原さんに腕を握られた、あの真田です。
左腕には、今でも、雨の日に鈍い痛みが出ます。
あの施設が閉鎖されたあと、私は国の別の研究所に移されました。北関東の、元は自衛隊の駐屯地だった場所。新しい部署の名前は、「特定危険発現者対応技術開発室」。
長い名前でした。
中身は、ひとつの言葉で言えました。
処分。
久遠さんがいなくなったあと、国の中で、鍵の研究は二つに分かれました。
ひとつは、発現者全員に鍵をかける研究。遺伝子に刻む、何世代もかかる研究。
もうひとつが、私たちの部署でした。
鍵のかからない者を、どうするか。
ラーマン型。クロギウス型。鶏小屋の狐。鍵がかからない以上、止める方法は、殺すことしかない。でも、人間の狙撃手は迷う。渋谷の報告では、撃つ前に「一秒、顔を見る」なんて規則を作った狙撃手がいるそうです。
上の人たちは、それを聞いて、眉をひそめていました。
一秒。
悪鬼相手に、一秒は長すぎる。
二
最初に連れてこられたのは、雌の虎でした。
多摩の動物公園の、廃墟から。飼育員が全員逃げたあと、二年間、檻の中で生き延びていた虎です。痩せこけて、毛並みがぼろぼろで、それでも目だけは、ぎらぎらしていました。
名前は、ミナ。檻のプレートに、そう書いてありました。
「こいつを、作り変える」
室長はそう言いました。五十代の、元は大学で動物行動学を教えていた人です。
「PKで。遺伝子を待っていたら、百年かかる。PKなら、一個体ずつ、直接いじれる」
私は、その言葉の意味を、すぐには理解できませんでした。
「誰が、いじるんですか」
室長は、廊下の奥を指さしました。
ガラス張りの部屋の中に、白髪まじりの男の人が座っていました。
梶原さんでした。
三
「よう、真田さん」
梶原さんは、私の顔を見て、少しだけ笑いました。
前より痩せていました。目の下に、濃い隈がありました。
「腕、どうだ」
「……雨の日だけ、痛みます」
「そうか」
梶原さんは、それ以上、何も言いませんでした。謝りもしませんでした。二年前、病室に見舞いに来てくれたときに、もう十分謝ってくれていたから。
「なんで、ここに」
私が訊くと、梶原さんは、窓の外を見ました。
「鍵がかかった発現者で、一番精密な絵を描けるのが、俺だからだとよ」
梶原さんは、自分の手を見ていました。
「鍵は、人間にしか効かねえ。虎の脳みそなら、いくらいじっても、俺の喉は締まらねえ。……だから、俺が呼ばれた」
「断れなかったんですか」
「断ったさ。最初はな」
梶原さんは、ポケットから、くしゃくしゃになった紙を出しました。
新聞の切り抜きでした。渋谷の地下街が、「狐」と呼ばれた少年に崩された記事。死者三十八人。
「娘がな、渋谷の近くの避難所にいたんだ。あの日」
梶原さんは、切り抜きを、丁寧にたたみ直しました。
「無事だった。でも、あと百メートル、あいつの絵が届いてたら、わからなかった」
四
ミナの頭の中を、梶原さんは、三か月かけて作り変えました。
私は、その隣で、ミナの呼吸と心拍を記録していました。
作業は、恐ろしく細かいものでした。
梶原さんは、ミナの脳の断面図を、何百枚も頭に叩き込みました。それから、目を閉じて、ミナの頭蓋骨の内側を「描いて」いきました。神経の一本一本。シナプスの一つ一つ。千分の一ミリの精度で。
「旋盤と同じだ」
梶原さんは、作業の合間に言いました。
「削りすぎたら、戻せねえ。ゆっくり、ゆっくり、面を出していく」
室長が求めたのは、三つでした。
一つ。特定の匂いと、特定の脳波パターンを持つ人間を、見分けること。久遠さんが作った検査の、陽性のパターン。
二つ。それを見つけたら、迷わずに、殺すこと。
三つ。それ以外の人間には、絶対に手を出さないこと。
「虎にとって、人間は同族じゃない」
室長は、満足そうに言いました。
「だから、鍵はいらない。迷いもない。……標的を、人間だと思っていないんだから」
私は、梶原さんの横顔を見ていました。
梶原さんは、何も言いませんでした。
五
最初の実地試験は、四か月目でした。
試験の対象は、野火の生き残りでした。
北の王国で捕まった三人のうちの一人。国が、王国と交渉して、引き取った男でした。二十代半ば。クロギウス型。王国の牢で、ノートを写すことを、最後まで拒んだそうです。
男は、試験場の中央に、鎖で繋がれていました。力は、薬で抑えられていました。
檻が開きました。
ミナが、出てきました。
三か月前の、痩せこけた虎ではありませんでした。毛並みは艶を取り戻して、体は一回り大きくなって、目は――
目は、静かでした。
ぎらぎらしていませんでした。ただ、静かに、男を見ていました。
男が、ミナを見て、何かを叫びました。
ミナは、走りました。
一秒も、かかりませんでした。
私は、記録用紙に、心拍数を書き込んでいました。
ミナの心拍は、試験の前後で、ほとんど変わっていませんでした。
獲物を狩る興奮も。人間を殺す躊躇も。何ひとつ。
室長が、ガラスの向こうで、拍手をしていました。
梶原さんは、作業室の隅で、座りこんでいました。
「……効いたな」
梶原さんは、ひとりごとみたいに言いました。
二年前、医務室で、同じ言葉を言っていたのを、私は覚えていました。自分に鍵がかかったと知った、あのときに。
「真田さん」
「はい」
「あの男は、ノートを写さなかったんだってな」
「……そう聞いています」
「朔って子のノートだ。二百何十個の規則が書いてある。……あいつは、それを最後まで拒んだ」
梶原さんは、自分の手を見ていました。
「なら、仕方ねえ。……そう思うことにする」
でも、梶原さんの手は、震えていました。
六
処分対象の名簿が、室に届いたのは、翌月でした。
私は、その名簿を、梶原さんに見せる役目を与えられました。ミナが「覚える」べき匂いと脳波のデータが、そこに添付されていたから。
名簿には、四十三人の名前がありました。
久遠さんの検査で、陽性と判定された者。その中でも、特に数値の低い者。
年齢の欄を見て、私は、手が止まりました。
十一歳。十三歳。十四歳。十二歳。
ほとんどが、子どもでした。
何もしていない、子どもでした。
四十三人目の名前を見て、梶原さんは、長いこと動きませんでした。
名前の横に、注記がありました。
「渋谷地下において、非発現者と共同生活。規則体系と称する文書を配布し、各地の非発現者集団に影響力を拡大中。北方王国の事件にも関与。鍵の適用不可」
朔。
十五歳。
「……この子、知ってるのか」
私が訊くと、梶原さんは、ゆっくり首を振りました。
「会ったことはねえ。でも、久遠から聞いてる」
梶原さんは、名簿を机に置きました。
「猫の骨を、図鑑見ながらつないだ子だ」
七
その夜、梶原さんは、一人で作業室に残りました。
ミナの最後の調整だと言って。
私は、記録係として、隣にいました。
梶原さんは、ミナの頭に手をかざして、目を閉じていました。いつもより、ずっと長く。
夜明け近くに、梶原さんは、目を開けました。
「真田さん」
「はい」
「今夜、俺がやったことを、記録に残さないでくれるか」
私は、梶原さんの顔を見ました。
「……何を、したんですか」
梶原さんは、ミナの頭を、そっと撫でました。
ミナは、目を細めて、喉を鳴らしました。
「規則を、一個だけ、彫った」
「こいつは、陽性の奴を見分けて、殺す。迷わねえ。それは、変えてねえ。変えたら、室長にばれる」
梶原さんは、ミナの耳の後ろを、指先でかきました。
「でもな。ひとつだけ、例外を彫った」
「例外」
「相手が、座ったら」
梶原さんは、静かに言いました。
「ミナの前で、相手が、力を使わずに、ただ座ったら。……こいつは、襲わねえ。隣に、伏せる」
私は、息を呑みました。
「朔って子は、撃たれても振り返らねえらしい。泣いてる奴がいたら、そばに行って、黙って座るらしい」
梶原さんは、少しだけ笑いました。
「虎の前でも、たぶん、座るんじゃねえかな。……規則一だっけか。久遠が言ってた」
「でも、それじゃ――」
「ああ。座る奴は、助かる。暴れる奴は、殺される」
梶原さんは、ミナから手を離しました。
「伊吹や狐みてえな奴は、座らねえだろう。……座れる奴だけ、生き延びる。それが、俺にできる、精一杯だ」
八
ミナは、翌週、実地に放たれました。
最初の報告は、東北の山村からでした。十三歳の陽性の少年。処分完了。
二件目は、長野の避難所から。十二歳の少女。処分完了。
三件目も、四件目も。
私は、報告書を読むたびに、トイレで吐きました。
梶原さんは、報告書を読まなくなりました。
座らなかった子たちだ、と、私は自分に言い聞かせました。座る前に、怖くて、力を使ってしまった子たちだ、と。
十一歳の子が、虎を見て、座れるわけがない。
わかっていました。
十九件目の報告は、渋谷からでした。
私は、それを、震える手で開きました。
対象:朔。十五歳。
処分:未了。
報告者の記述は、短いものでした。
――対象は、渋谷駅地下街の旧改札付近にて、処分個体と接触。処分個体の接近に対し、対象は抵抗せず、その場に座った。処分個体は、対象の約一メートル手前で停止し、対象の隣に伏せた。以後、約四時間にわたり、同位置を維持。対象は、処分個体の頭部に手を置いていた。
――対象の肩には、白色の猫が一匹いた。処分個体は、これにも手を出さなかった。
――回収班が到着した際、対象は、処分個体を指さし、「この子は、規則を持っていますね」と述べた。
私は、その報告書を、梶原さんの部屋に持っていきました。
梶原さんは、ベッドの上で、窓の外を見ていました。
私は、黙って、報告書を差し出しました。
梶原さんは、それを読みました。
長いこと、読んでいました。
それから、両手で顔を覆って、肩を震わせていました。
泣いているのか、笑っているのか、わかりませんでした。
たぶん、両方だったと思います。
九
ミナは、回収されました。
室長は、報告を読んで、激怒しました。欠陥だ、と。調整ミスだ、と。
梶原さんは、何も言いませんでした。
私も、何も言いませんでした。約束だったから。
一か月後、梶原さんは、室を外されました。
後任は、梶原さんほど精密な絵を描けない、若い発現者でした。鍵のかかった。
室長は、方針を変えると言いました。
一個体ずつ、PKで作り変えるのは、効率が悪い。精度にばらつきが出る。欠陥が混ざる。
これからは、繁殖させる。
最初から、陽性を見分けて、迷わずに殺すように作った個体同士を、掛け合わせる。何世代もかけて。遺伝子に刻む。
例外のない、個体を。
ミナは、繁殖用の個体として、別の施設に送られました。
梶原さんの彫った規則が、ミナの子どもに受け継がれるのかどうかは、わかりません。
たぶん、受け継がれないと思います。
梶原さんが彫ったのは、ミナの脳の、神経の配線です。遺伝子じゃない。
ミナの子どもたちは、座った相手の隣に、伏せたりしないでしょう。
千年後の、あなたへ。
みんなが手紙を書いていると、梶原さんから聞きました。私も、書きます。
あなたたちの町に、もし、子どもを殺すための獣がいるなら。
人間を同族と思わず、迷わず、例外なく、判定された子どもを始末する何かがいるなら。
その最初の一頭は、ミナという名前の、多摩の動物公園の雌の虎でした。
そして、その虎には、一度だけ、規則がありました。
相手が座ったら、隣に伏せる。
鍵のかかった、五十歳の旋盤工が、夜明けまでかけて彫った、たったひとつの規則が。
それは、ミナの子どもたちには、受け継がれませんでした。
でも、ミナは、一度だけ、それを守りました。
渋谷の地下で、白い猫を肩に乗せた十五歳の男の子の隣で。
四時間、じっと伏せていました。
頭の上に、その子の手を乗せたまま。
――真田