新世界より0年   作:Sub Sonic

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雪が落ちる日

雪が落ちる日

――『新世界より』前史・二次創作――『虎の規則』続編

 

ぼくは、七十五歳になりました。

 

ノートは、四十二冊目です。

 

規則は、三百十一個あります。

 

最初のページの一番下には、今でも、母の太い字があります。

 

壊さない。

 

あれから、六十年が経ちました。

 

世界は、終わりませんでした。

 

でも、前と同じ世界でもなくなりました。

 

人間の数は、たぶん、昔の百分の一より少なくなりました。都市は、ほとんど森に沈みました。渋谷の交差点には、今は、欅が生えています。

 

残った人間は、三つに分かれました。

 

ひとつは、鍵を持つ人たち。

 

国の研究は、遺伝子に鍵を刻むところまで、たどり着きました。三代前から、鍵を持って生まれる子どもが出てきました。その子どもたちが、あちこちに、小さな町を作っています。同族同士は、決して傷つけ合わない町。町には委員会があって、子どもが生まれると、検査をします。陽性の子どもは、委員会に連れていかれて、戻ってきません。

 

町には、猫がいます。

 

大きな、白っぽい、静かな目をした猫です。ミナの、何代目かの子孫です。町の人たちは、その猫を、名前で呼びません。

 

ふたつめは、王国です。

 

北の谷の、蓮さんの国。蓮さんは四十年前に死んで、今は、蓮さんの孫が王です。王国では、力を持つ者が同族で、持たない者は、今でも鶏と呼ばれています。

 

みっつめは、山の人たちです。

 

鉄砲を持った、鶏の子孫。陸さんが、長いこと頭でした。陸さんも、十年前に死にました。山の人たちは、町とも、王国とも、ほとんど関わりません。見えない場所から、先に撃つことだけを、子どもに教えています。

 

ぼくは、そのどこにも属していません。

 

六十年間、三つの間を、歩いてきました。ノートを持って。

 

写してくれた人は、たくさんいました。途中で捨てた人も、たくさんいました。

 

ノートの規則を、鍵の代わりにしようとした町は、ひとつもありませんでした。

 

橘さんが言っていた通りでした。

 

世界は、ノートよりも、鍵を選びました。

 

夏生さんのところへ、行くことにしました。

 

谷の奥の、雪の落ちない森。

 

円は、六十年で、半径四キロを超えました。ぼくが最初に計算した通りの速さで。

 

円の外には、今も、夏生さんがいます。

 

七十九歳。毎月、小屋を少しずつ下流に移して、六十年。円の縁に、毎朝、灯さんの名前を呼びに行って、六十年。

 

三か月前、夏生さんから、手紙が来ました。

 

山の人たちが、届けてくれました。

 

「円が、下の町に届きそうです」

 

字が、ひどく震えていました。

 

「町の委員会が、森を処理すると言っています。助けてください」

 

円の外の小屋に、夏生さんはいました。

 

白髪で、背中が曲がって、両手が枝みたいに細くなっていました。

 

でも、ぼくを見て、笑いました。

 

「朔。……おじいちゃんになったね」

 

「はい。夏生さんも、おばあちゃんになりました」

 

夏生さんは、声を出して笑いました。それから、咳き込みました。

 

ぼくは、規則一の通り、隣に座りました。

 

下の町の委員会の人たちが、次の日、来ました。

 

五人。みんな、三十代くらい。鍵を持って生まれた、三代目の人たちです。

 

きれいな服を着て、穏やかな顔をしていました。

 

委員長の女の人が、言いました。

 

「円の中心にいるのは、発現者ですね。制御不能の、漏出型の」

 

「はい」夏生さんが答えました。「水無瀬灯。私の、友達です」

 

「私たちは、同族を処分できません」

 

委員長は、静かに言いました。

 

「鍵があるからです。私たちの誰も、円の中心にいる方に、力を向けることはできない」

 

夏生さんが、少しだけ、息を吐きました。

 

「でも」

 

委員長は、続けました。

 

「円は、あと二年で、町に届きます。私たちの子どもたちの、家に」

 

「だから、猫を送ります」

 

委員長は言いました。

 

「猫は、同族を持ちません。鍵もありません。……漏出型の処分も、猫の役目です」

 

「円の中に入ったら、猫も変わるわ」

 

夏生さんが言いました。

 

「硝子みたいになって。……それでも、中心まで届くと思う?」

 

委員長は、少し黙りました。

 

「わかりません。でも、他に方法がないのです」

 

それから、委員長は、ぼくを見ました。

 

穏やかな目でした。

 

「あなたは、朔さんですね。規則のノートの」

 

「はい」

 

「町の古い記録に、あなたの名前があります。陽性。鍵の適用不可。……処分対象」

 

委員長の後ろの四人が、ほんの少しだけ、身じろぎしました。

 

「あなたなら、円の中心の方を、処分できるのではありませんか。鍵がないのですから」

 

ぼくは、ノートを開きました。

 

四十二冊目の、最初のページ。母の字。

 

「規則二百六。力で、人を壊さない。絶対に」

 

委員長は、しばらく、そのページを見ていました。

 

「……そうですか」

 

委員長は、立ち上がりました。

 

「では、猫を送ります。三日後に」

 

それから、振り返らずに、言いました。

 

「それと、あなたのことも、委員会で協議します」

 

その夜、夏生さんは、眠りませんでした。

 

小屋の戸口に座って、円の方を見ていました。

 

円の中では、今も、雪が止まっていました。六十年分の雪が。何億、何十億という雪片が、硝子の森の中に、層になって浮かんでいました。月の光を受けて、谷全体が、ぼんやりと光っていました。

 

「朔」

 

「はい」

 

「私ね、ずっと考えてたの」

 

夏生さんは、円を見たまま言いました。

 

「灯は、まだ、描いてるのかな。六十年も。……落ちないでいてくれたらいいのに、って」

 

ぼくには、わかりませんでした。

 

「灯が止めてる雪、ぜんぶ落ちたら、どうなるんだろうね」

 

夏生さんは、少し笑いました。

 

「六十年分の雪。……きっと、きれいだろうね」

 

「私、行こうと思う」

 

夏生さんは、言いました。

 

「猫が行く前に。円の中に」

 

「夏生さんは、変わります。硝子に」

 

「知ってる」

 

「中心まで、四キロあります。たぶん、途中で、動けなくなります」

 

「知ってる」

 

夏生さんは、ぼくを見ました。

 

「次も一緒にいる、って言ったの。十七のときに。……六十年、外にいたよ。約束通り。灯に言われた通り」

 

夏生さんは、自分の手を見ました。細くて、しわだらけの手を。

 

「でも、もう、いいと思うの。外にいなくても」

 

ぼくは、ノートを開きました。

 

規則二百十八。「約束した場所に、いる」

 

夏生さんの規則です。六十年前に、ぼくが書きました。

 

夏生さんは、それを見て、少し笑いました。

 

「ねえ、朔。規則って、書き換えてもいいの?」

 

ぼくは、考えました。

 

規則を書き換えたことは、一度もありませんでした。付け足したことは、何度もあったけれど。

 

「……わかりません」

 

「じゃあ、付け足して」

 

夏生さんは、ぼくの手から、鉛筆を取りました。

 

ノートの、二百十八の下に、震える字で、書きました。

 

「約束した場所が、動いたら、ついていく」

 

夜明けに、夏生さんは、円の中に入りました。

 

ぼくは、円の縁まで、ついていきました。

 

夏生さんが、一歩、踏み込みました。

 

白髪の先が、きらきらと、透き通り始めました。

 

二歩。三歩。

 

夏生さんの足跡が、雪の上に、硝子の花みたいに残りました。

 

止まった雪の層の中を、夏生さんは、ゆっくりと歩いていきました。雪片が、夏生さんの肩に触れて、触れたところから、夏生さんの服が、細い結晶に変わっていきました。

 

夏生さんは、一度だけ、振り返りました。

 

「朔。あとで、灯の分も、手紙を書いておいて」

 

それから、また、歩き始めました。

 

ぼくは、円の縁に、座りました。

 

夏生さんの姿が、硝子の森の奥に、見えなくなるまで。

 

見えなくなってからも。

 

一日が過ぎました。

 

二日が過ぎました。

 

三日目の朝、下の町から、猫が来ました。

 

大きな、白っぽい、静かな目をした猫でした。

 

猫は、円の縁で立ち止まって、ぼくを見ました。

 

ぼくは、座ったままでいました。

 

猫は、ぼくの匂いを嗅ぎました。

 

陽性の匂い。

 

ミナの子孫の猫には、梶原さんの規則はありません。座った相手の隣に、伏せたりしません。

 

ぼくは、それを知っていました。

 

でも、座っていました。

 

規則一。人が泣いていたら、そばに行く。

 

夏生さんは、泣いていなかったと思います。でも、ぼくは、夏生さんのそばに、いたかったのかもしれません。

 

わかりません。

 

猫の筋肉が、縮むのが見えました。

 

そのとき、円の中で、音がしました。

 

音、というより。

 

六十年間、止まっていたものが、動き出す気配でした。

 

雪が、落ちました。

 

谷全体の、何十億という雪片が。六十年分の、止まった雪が。

 

一斉に。

 

音もなく。

 

硝子の森の、ねじれた白樺の間を、ゆっくりと、ゆっくりと、落ちていきました。朝の光を受けて、谷全体が、真っ白に輝きました。

 

猫が、動きを止めて、空を見上げていました。

 

ぼくも、見上げていました。

 

きれいでした。

 

ぼくには、きれいという気持ちが、よくわかりません。六十年経っても、わかりませんでした。

 

でも、夏生さんが言っていた通りだと思いました。

 

きっと、きれいだろうね、と。

 

雪は、半日、降り続けました。

 

降り終わったとき、円は、消えていました。

 

硝子の森は、硝子の森のまま、残っていました。でも、もう、広がってはいませんでした。空気は、きらきらしていませんでした。

 

猫は、いつの間にか、いなくなっていました。

 

なぜ、ぼくを襲わなかったのか、わかりません。

 

雪を見ていたのかもしれません。

 

猫にも、きれいという気持ちが、あるのかもしれません。

 

わかりません。

 

ぼくは、森の中に、入りました。

 

四キロ、歩きました。

 

中心の岩屋の前で、二人を見つけました。

 

硝子になった、二人を。

 

一人は、岩屋の入口に座っていました。十九歳のままの、女の子の形をしていました。

 

もう一人は、その隣に座って、女の子の手を握っていました。白髪の、背中の曲がった、おばあさんの形をしていました。

 

二人の手は、素手でした。

 

手袋をしていない、素手でした。

 

ぼくは、規則一の通り、二人の隣に座りました。

 

雪が、二人の肩に、薄く積もっていました。

 

千年後の、あなたへ。

 

夏生さんに頼まれたので、灯さんの分も書きます。

 

灯さんは、十七歳の冬に、渡り廊下で、雪がきれいだと思いました。落ちないでいてくれたらいいのに、と思いました。

 

その願いは、六十年、叶い続けました。

 

夏生さんが、灯さんの手を握るまで。

 

灯さんが最後に何を描いたのか、ぼくにはわかりません。

 

でも、たぶん、描くのをやめたんだと思います。

 

止めていたものを、全部、手放したんだと思います。

 

隣に、夏生さんがいたから。

 

もう、雪を止めていなくても、よかったから。

 

ぼくのことも、少しだけ書きます。

 

町の委員会は、ぼくのことを、処分対象として協議すると言いました。

 

たぶん、そのうち、また猫が来ると思います。

 

その猫は、雪を見上げたりしないかもしれません。

 

そのときも、ぼくは、座ると思います。

 

ノートの最後に、規則を、ひとつ付け足しました。

 

三百十二個目です。

 

たぶん、これが最後になります。

 

規則三百十二。

 

「わからなくても、きれいだと言っていい」

 

あなたたちの世界にも、雪は降りますか。

 

降ったら、どうか、落ちるまで、見ていてください。

 

――朔

 

硝子の森にて

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