遅い手
――『新世界より』前史・二次創作――
ニュースじゃ、目覚めるのはガキばっかりだって話だった。
十代、せいぜい二十代の前半。千人にひとり。原因不明。そういうもんだと思ってた。テレビの向こうの話で、俺には関係ねえ話だと。
四十八だぞ、俺。
腰は痛えし、老眼は進んでるし、健康診断じゃ毎年γ-GTPで怒られてる。そういうオッサンに、今さら何が目覚めるってんだ。
目覚めたんだよ、それが。
一
梶原鉄男。蒲田の町工場で旋盤を回して三十年になる。
社員は社長入れて七人。自動車部品の下請けの、そのまた下請け。図面が来たら削る。削ったら納める。それだけの人生だ。文句はねえ。いや、文句はあるが、言ったところでどうにもならねえから言わねえ。
その日は、入って半年の若いのに汎用旋盤を教えてた。沢井って二十一の小僧で、手先は器用だが注意が足りねえ。
「袖、まくれって言ったろ」
言ったそばからだった。
チャックが回ってる。沢井が身を乗り出す。作業着の袖口が、回転するワークに触れた。
巻き込まれる。
三十年やってりゃ、その瞬間がどういう音で、どういう結果になるか、嫌ってほど知ってる。昔、隣の工場の親方が腕を持ってかれたのを見た。
非常停止ボタンまで、俺の手は一メートル半。
間に合わねえ。
――止まれ。
そう思った、ってのとは少し違う。頭の中に、図面みたいに浮かんだんだ。チャックの爪の一本一本。主軸の回転。ベルトとプーリー。それが全部、ぴたりと止まってる絵が。
止まった。
モーターは唸ってた。電気は来てる。なのにチャックは、刃物を当てる寸前のワークを咥えたまま、ぴくりとも動かなかった。ベルトがプーリーの上で空転して、焦げ臭え煙を上げてた。
沢井が袖を引っこ抜いて、尻もちをついた。
俺はゆっくり歩いて、非常停止を押した。モーターが止まった。
工場の中が、しんとした。
「……梶原さん」
沢井が、俺を見上げてた。
助けてもらった顔じゃなかった。
化け物を見る顔だった。
二
登録センターってのは、職業訓練所の跡地だった。
窓に鉄格子。入口で指紋と虹彩。首から番号札。待合室には高校生くらいのガキが何人もいて、どいつも親に付き添われてた。
俺には誰もいなかった。女房とは十年前に別れた。娘はそっちについていった。
ガキどもが、ちらちら俺を見てた。そりゃそうだ。付き添いの親でもねえのに番号札をぶら下げたオッサンなんて、珍しいだろうよ。
面談室には、ぼさぼさ頭の男がいた。四十そこそこ。ネクタイがだらしねえ。
「久遠です。研究のほうの」
そいつは俺の書類を見て、眉を上げた。
「四十八。……珍しいですね」
「俺もそう思ってますよ」
「発現のきっかけは」
旋盤の話をした。そいつは、最初は普通に聞いてたが、チャックの爪を一本ずつ思い浮かべたってところで、ペンを止めた。
「一本ずつ、ですか」
「そりゃそうでしょう。三つ爪なんだから」
「主軸とベルトも?」
「止めるなら全部止めなきゃ意味ねえでしょうが」
久遠は、しばらく俺の顔を見てた。それから、机の上に一円玉を置いた。
「これの直径、わかりますか」
「二十ミリ。厚さ一・五」
「こいつを、半分の厚さにできますか」
妙なこと聞きやがる、と思った。だが、やってみた。
頭の中でノギスを当てる。一・五を〇・七五へ。表面の凸凹を、アルミの粒を、端から均していく絵を描く。旋盤で面を引くのと同じだ。バイトの刃先が走る。切粉が落ちる。
目を開けたら、一円玉は薄くなってた。
久遠は、ポケットからマイクロメーターを出して、そいつを測った。
長い間があった。
「〇・七五〇」
久遠は、ほとんど囁くみたいに言った。
「千分の一ミリまで、ぴったりです」
「そりゃどうも」
「梶原さん。この力はね、想像の精度で決まるんです。若い子たちは、ぼんやりとしか思い描けない。だから力はでかいけど、雑になる」
久遠は一円玉を机に置いた。
「あなたは違う。三十年、金属の形を頭の中で描き続けてきた人だ」
褒められてる気はしなかった。
そいつの目が、ちょっと怯えてたからな。
三
工場に戻ったら、社長が待ってた。
「鉄ちゃん、ちょっといいか」
社長とは二十年の付き合いだ。先代から工場を継いで、不景気と下請けいじめに揉まれて、髪がすっかり白くなった男だ。
事務所で、社長は茶を淹れてくれた。珍しいこともあるもんだ。
「……うちな、厳しいんだわ。来月の手形が、ちょっとな」
「知ってますよ」
「でな。これ」
社長が出したのは、図面だった。航空機部品。公差がえらく厳しい。うちの機械じゃ、どうやったって無理な仕事だ。
「鉄ちゃんなら、できるんじゃねえか。機械なしで。……その、あれで」
俺は図面を見た。見りゃわかる。できる。たぶん、朝飯前だ。
「社長」
「頼むよ。な。みんなの給料がかかってんだ」
社長の手が震えてた。拝むみてえに、図面を押し出してた。
俺はそいつを受け取った。断れるわけがねえ。
その晩、誰もいねえ工場で、俺はアルミの塊を削った。触りもせずに。旋盤も回さずに。頭の中で図面をなぞるだけで、金属が溶けるみてえに形を変えていった。
三十年かけて覚えた技術が、全部いらなくなった夜だった。
できあがった部品は、完璧だった。俺が機械で削ったどんな部品よりも。
俺は、それを見て、ちょっとだけ泣いた。
四十八のオッサンが、誰もいねえ工場で。
四
名簿が流出したのは、それから二週間後だ。
ネットに住所と顔写真が出回った。発現者の家に石が投げ込まれて、車が燃やされて、子どもがいなくなった。海の向こうで暴走した奴がいて、死人が出て、その数字が毎日増えてた。みんな怖かったんだ。わかってる。俺だって怖かった。
工場に連中が来たのは、金曜の夕方だった。
十人くらい。鉄パイプだの、バットだの。先頭にいたのは、近所の酒屋の親父だった。俺が月に一度、焼酎を買いに行く店の。
「梶原ぁ。出てこい」
社長が青い顔で前に出ようとしたのを、俺は止めた。沢井は、奥の休憩室に隠れてた。あいつが一番、俺を怖がってたからな。
俺はひとりで、シャッターの外に出た。
「なんだよ、大将」
「お前、化け物なんだってな」
酒屋の親父は、鉄パイプを握ってた。握る手が白くなってた。
「……うちの甥っ子がな、向こうで死んだんだよ。お前らみてえのに殺されたんだ」
ああ、と思った。
こいつも、怖えんだ。怖くて、怒ってて、どうしていいかわかんねえんだ。
鉄パイプが振りかぶられた。
その瞬間、俺の頭には、全部見えてた。
鉄パイプの肉厚。親父の手首の骨。膝の関節。後ろの連中が持ってるバットの木目。そいつらの頭蓋骨の、どこをどう押せば、どう潰れるか。
三十年、金属の形を描いてきた頭だ。人間の形だって、描こうと思えば描ける。
描けちまうんだよ。
――久遠の言ってたのは、これか。
若い連中は、ぼんやりとしか描けない。だから暴走しても、どこかに隙がある。
俺には、ねえ。
俺が一枚描けば、それで終わる。ここにいる十人、誰も痛いと思う間もなく。
胃の底が冷たくなった。
俺は知ってるんだ。自分の中に、そういう奴がいることを。
四十八年生きてりゃ、何度かある。本気で誰かを殺してえと思った夜が。別れた女房の男の顔。俺をクビにしようとした元請けの課長。夜中に酒を飲みながら、そいつらの顔を思い浮かべて、どうしてやろうかって考えた夜が。
やらなかったのは、手が遅かったからだ。
酒が抜けるまでの時間。電車に乗って、そいつの家まで行く時間。その時間のうちに、俺は毎回、ただの情けねえオッサンに戻れた。
今の俺には、その時間がねえ。
鉄パイプが、振り下ろされた。
俺は、描いた。
――鉄パイプだけを。
パイプは、親父の手の中で、ゆっくりと曲がり始めた。ねじれながら、巻き込むように、螺旋を描いて。旋盤で削り出したみてえに、一ミリの狂いもねえ、きれいなコイルばねになった。
親父は、自分の手の中のそれを見て、へたりこんだ。
誰も動かなかった。
「帰れ」
俺は言った。声が震えてねえか、それだけが心配だった。
「帰ってくれ、大将。……頼むから」
連中は帰っていった。逃げるみてえに。
酒屋の親父は、最後まで俺の顔を見なかった。
五
その夜、工場の片隅で、ひとりで焼酎を飲んだ。酒屋の親父の店で買った、最後の一本だった。
わかってた。
俺は、あいつらを傷つけなかった。でも、あいつらはもう、俺を見るたびにあのコイルばねを思い出す。俺がやろうと思えば何でもできるってことを、あいつらは知っちまった。
我慢して見せたって、恐怖は消えねえんだ。
我慢できる化け物は、我慢できねえ化け物より、ちょっとマシなだけの化け物なんだよ。
月曜日、俺は辞表を出した。社長は引き止めなかった。引き止めねえことを、社長自身が一番恥じてるのがわかった。あの航空機部品の金で、手形は落ちたらしい。それでいい。
沢井は、最後に休憩室から出てきて、頭を下げた。
「……あのとき、ありがとうございました」
それだけ言って、また引っ込んだ。震えてたけど、言いに来ただけ、あいつは偉いと思う。
六
もう一度、センターに行った。
閉鎖が決まったとかで、中はがらんとしてた。久遠は、段ボールだらけの部屋で、コンビニのおにぎりをかじってた。
「梶原さん」
「あんたら、研究してるんだろ。俺たちに、なんか……ブレーキみてえなもんをかける方法」
久遠は、おにぎりを置いた。
「……鍵、って呼んでます。人を傷つけようとしたら、力が止まるような。何世代もかかると思いますけど」
「頭ん中、いじるのか」
「最終的には、遺伝子を」
「それ、実験台はいるのか」
久遠が、黙った。
「ガキどもで試すんだろ。待合室にいた、あいつらで」
「……他に、いないので」
「いるだろうが。ここに」
俺は、自分の胸を親指で差した。
「オッサンで試せ。若い連中の前に」
久遠は、長いこと俺を見てた。
「危険ですよ。何が起きるか、正直わかりません」
「知ってるよ。三十年、危ねえ機械の前に立ってきたんだ」
「……どうして」
どうして、か。
酒屋の親父の顔が浮かんだ。沢井の震える声が浮かんだ。十年会ってねえ娘の、小学生のときの顔が浮かんだ。娘は今、十七になってるはずだ。千人にひとり。あいつが目覚めてねえって保証は、どこにもねえ。
「俺はな、久遠さん」
言葉を探した。うまく言えなかった。
「手が遅えほうが、よかったんだ」
久遠は、何も言わなかった。
「若え連中は、まだ知らねえんだよ。自分の中に、どんな奴がいるか。……俺は知ってる。だから、俺で試せ」
窓の外で、夕立が降り出してた。
ガラスを叩く雨粒の一つ一つが、俺には全部見えた。形も、重さも、どこに落ちるかも。止めようと思えば、全部止められる。
止めなかった。
四十八年、俺はずっと、雨に濡れて生きてきた。これからも、そうしていたかった。
遅い手のままで。