一秒のない男
――『新世界より』前史・二次創作――
最初に壊したのは、知らない男の手首だった。
朝の京浜東北線。いつもの満員電車。背中を押された。押し返した。舌打ちされた。肘で脇腹を突かれた。
その肘の持ち主の手首が、吊り革を握ったまま、反対側に曲がった。
ぱき、と乾いた音がした。割り箸を折るような音だった。
男が悲鳴を上げた。周りの乗客が振り返った。男は自分の手首を見て、それから周りを見回して、最後に俺を見た。
俺は何もしていない。指一本動かしていない。ただ、思っただけだ。
――折れればいいのに。
それだけだ。
男は次の駅で降りた。誰かが駅員を呼んでいた。俺は二つ先の駅まで乗って、いつも通り会社へ行った。
あとで気づいた。
あの日、俺は一度も、ドキッとしなかった。
一
伊吹。二十六歳。派遣で物流倉庫のシステム保守をやっている。
ニュースはもちろん知っていた。海の向こうで最初の報告があって、それから世界中で千人にひとり。PK発現者。俺は、自分がその千人のひとりだと、その日の昼休みに理解した。
コンビニの駐車場で、空き缶を浮かせてみた。できた。握りつぶしてみた。できた。アスファルトに押し込んでみた。缶は、紙みたいに平たくなって、地面にめり込んだ。
面白いとは思わなかった。怖いとも思わなかった。
ただ、ああ、そうか、と思った。
ずっと何かが足りない気がしていた。子どものころから。人が泣いているのを見ても、胸のどこも痛まない。怒られても、怖いより先に面倒くさいが来る。周りの人間が当たり前に持っている何かが、俺にはない。それを隠すのが、俺の人生のほとんどの仕事だった。
足りなかったのは、これだったのかもしれない。
いや、違う。
足りないものは、今も足りないままだ。ただ、足りないことを隠す必要が、なくなっただけだ。
二
課長の名前は、覚えていない。
覚える価値がないと思っていたからだ。四十代の、声の大きい男だった。派遣を人間だと思っていないタイプで、俺はそいつに毎日三回は怒鳴られていた。
その日も怒鳴られた。俺のミスではなかった。正社員のミスを、そいつは俺の机の前で、俺のせいにした。
俺は、そいつの顔を見ていた。
眼鏡。額の汗。脂の浮いた小鼻。喉仏。その奥にある気管。気管の軟骨は、確か輪っかになっている。中学の理科で習った。
輪っかを、少しだけ狭くしたらどうなるだろう。
課長の声が、途中で止まった。
喉に手を当てて、口をぱくぱくさせた。顔が赤くなって、紫になった。周りの社員が駆け寄った。誰かが救急車を呼んだ。背中を叩いている奴がいた。何の意味もないのに。
俺は、自分の席でそれを見ていた。
輪っかを、元に戻した。
課長は床に這いつくばって、ひゅうひゅうと息をした。それから、涙と鼻水だらけの顔で、周りを見回した。
目が合った。
課長は、何かを言おうとした。言わなかった。わかるはずがないからだ。俺は指一本動かしていない。三メートル離れた席に座っていただけだ。
でも、課長はわかったんだと思う。
翌日から、あいつは俺の机に近づかなくなった。
三
登録は、会社の健康診断のついでに引っかかった。
脳波がどうとか、そういう検査が勝手に追加されていたらしい。通知が来て、市の登録センターに行った。元職業訓練所。鉄格子の窓。待合室には高校生くらいの子どもが親に付き添われて座っていた。
面談室には、ぼさぼさ頭の研究者がいた。久遠と名乗った。
「これ、動かせますか」
机の上の硬貨。俺は、少しだけ動かして、止めた。わざと下手にやった。
「ふむ。……何か、発現のきっかけになったことは」
「わかりません。気がついたら」
「力を使ってみて、どう感じましたか。怖いとか」
「怖かったです」
嘘だった。
久遠は、俺の顔を見ていた。長い間。硬貨を指先で転がしながら。
「伊吹さん」
「はい」
「人間が、人を殺さずにいられるのはなぜだと思いますか」
妙な質問だと思った。俺は、正解を考えた。こういうとき、普通の人間なら何と答えるか。二十六年間、ずっとやってきたことだ。
「……いけないことだから、ですか」
「そうですね」久遠は言った。「それが、普通の答えです」
あとで考えれば、あの男だけは気づいていたのかもしれない。俺が答えを選ぶのに、ほんの少し時間がかかったことに。
でも、あいつは俺を帰した。帰すしかなかったんだろう。証拠が何もないんだから。
四
世の中の人間は、ブレーキの話ばかりしていた。
テレビでもネットでも。発現者には、力を抑える何かが必要だ。倫理教育だ。薬だ。遺伝子だ。
誰も言わなかった。
最初からブレーキがついていない人間は、どうするのか。
それは発現者の問題じゃない。俺は力を得る前から、ブレーキを持っていなかった。持っているふりをしていただけだ。力がない人間にとって、ブレーキなんてなくても大した問題じゃなかった。体が遅いから。腕力がないから。捕まるから。
今の俺は、遅くない。
金曜の夜だった。
特に理由はなかった。本当に。何か決定的なことがあったわけじゃない。課長が何か言ったわけでもない。ニュースで何かを見たわけでもない。
ただ、会社のビルのエレベーターホールで、ふと思った。
このビル、何階建てだっけ。
十二階だった。
鉄骨の柱が、どこに何本立っているかは知っていた。システム保守の仕事で、ビルの設備図面を見たことがあったからだ。
柱の一本を、思い描いた。
曲げた。
二本目。三本目。
最初は、誰も気づかなかった。天井のどこかで、低い音が鳴っただけだった。四本目で床が傾いた。五本目で、非常ベルが鳴った。
俺は、階段を降りた。一段ずつ、ゆっくり。
背後で、何かが崩れる音がした。悲鳴が聞こえた。誰かが俺の名前を呼んだ気がした。課長だったかもしれない。わからない。名前を覚えていないやつの声なんて、区別がつかない。
外に出て、振り返った。
ビルが、ゆっくりと膝をつくように沈んでいった。
土煙が夜の街に広がって、街灯がぼやけた。遠くでサイレンが鳴り始めた。
俺は、自分の胸に手を当ててみた。
何も、なかった。
五
パトカーが三台来た。
警官が銃を抜いて、止まれ、と叫んだ。俺は止まった。言われたから止まった。
警官たちは、何をしていいかわからない顔をしていた。当然だ。PK発現者を逮捕する手順なんて、この国のどこにもまだないんだから。
ひとりが撃った。威嚇だったのか、本気だったのか。
弾丸は、俺の目の前で止まった。
空中で、回転したまま。
俺は、それを眺めた。銅の被甲。先端の丸み。ライフリングの溝の跡。きれいだな、と思った。そう思えたことに、少しだけ驚いた。
弾丸を、撃った警官の方へ返した。
それから、パトカーを一台ずつ、丁寧に畳んでいった。紙の箱を潰すみたいに。中に人が乗っていたかどうかは、確かめなかった。
逃げていく人たちの背中が見えた。
誰も、俺を止められない。
たぶん、この国の誰にも。
そう思ったとき、俺は初めて、胸のどこかがかすかに動くのを感じた。
退屈だ、と思った。
これで、全部か。
これだけなのか。
六
見えないものは、描けない。
久遠がそう言っていた。この力は想像力で動く。頭の中に絵を描けないものは、止めることも曲げることもできない。
俺は、周りを見ていた。崩れたビル。畳まれたパトカー。逃げる人たち。街灯。電線。見えるものは、全部描けた。全部、俺のものだった。
だから、七百メートル先の、雑居ビルの屋上のことは、描けなかった。
そこに誰かがいることも。
その誰かが、何日も前から俺を見張っていたことも。
久遠の報告書が、どこかの誰かの机の上に、ちゃんと届いていたことも。
胸に、何かが当たった。
痛い、と思う前に、膝が折れた。アスファルトが近づいてきた。土煙の匂いがした。
弾丸は、見えなかった。
見えないから、止められなかった。
ああ、そうか。
俺の足りなかったものは、最後まで足りないままだった。
でも、この世界の人間たちも、同じだ。
お前らにも、一秒なんてなかったじゃないか。
俺を見つけて、撃つまでの間に。
迷った奴は、ひとりでも、いたのか――