新世界より0年   作:Sub Sonic

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七百メートル

七百メートル

――『新世界より』前史・二次創作――『一秒のない男』続編

 

迷ったか、と訊かれたら、答えはひとつしかない。

 

迷った。

 

だから、ビルは崩れた。

 

橘千景。三十四歳。警視庁特殊部隊、狙撃支援班。

 

あの男――伊吹を監視し始めたのは、事件の九日前だった。

 

上から降りてきたのは、一枚の報告書のコピーだった。登録センターの研究者が書いたもの。「当該人物に、情動反応の顕著な欠落を認める。危険度の評価は困難。継続的な監視を強く推奨する」。

 

推奨、だ。

 

逮捕状は出ない。何もしていないのだから。満員電車で誰かの手首が折れた件も、会社の課長が窒息しかけた件も、あの男と結びつける証拠は何ひとつなかった。指一本触れていないのだから。

 

だから私たちは、見ていることしかできなかった。

 

向かいの雑居ビルの屋上。七百メートル。交代で、九日間。

 

スコープの中の伊吹は、退屈な男だった。コンビニで弁当を買い、会社へ行き、帰って寝る。表情がほとんど動かない。笑わない。怒らない。ときどき、道端の空き缶をじっと見ている。見ているだけで、缶がひしゃげる。

 

それを見るたびに、私の指は冷たくなった。

 

金曜の夜。

 

伊吹が、会社のビルのエレベーターホールに立っていた。何もしていなかった。ただ、立って、天井を見上げていた。

 

無線が鳴った。低い音がする、と地上班が言った。

 

私は、スコープの十字を伊吹の胸に合わせた。

 

「目標、ビル内。射撃許可を」

 

「待て」

 

班長の声だった。

 

「待て、橘。何をしている、目標は」

 

「立っています。ただ――」

 

ただ、何だ。

 

何をしている、と訊かれても、答えられなかった。あの男は立っているだけだった。指一本、動かしていなかった。

 

でも、ビルが鳴っていた。

 

「許可が出ない。上が判断中だ。待て」

 

私は待った。

 

待っている間に、床が傾いた。非常ベルが鳴った。伊吹は、エレベーターホールから消えて、階段のほうへ歩いていった。射線が切れた。

 

そして、ビルが、膝をつくように沈んでいった。

 

私はスコープ越しに、それを見ていた。七百メートル先で。土煙が、街灯の光をのみこんでいくのを。

 

射撃許可が出たのは、伊吹がビルの外に出て、パトカーを畳み始めてからだった。

 

私は撃った。

 

一発。胸に。

 

伊吹は膝をついて、アスファルトに倒れた。それきり動かなかった。

 

死者、百十四名。

 

そのうち、ビルの中にいたのが百九名。

 

私が撃つのを待っていた、あの数十秒の間に、死んだ人たちだ。

 

事件の翌週、名簿が流出した。

 

誰が流したのかは、今もわからない。登録センターの職員だという噂もあった。警察の人間だという噂もあった。どちらでもいい。流れた、という事実だけが残った。

 

狩りが始まった。

 

発現者の家に石が投げ込まれた。車が燃やされた。子どもがいなくなった。蒲田の町工場に、鉄パイプを持った連中が押しかけたという話も聞いた。そっちは、なぜか怪我人が出なかったらしい。

 

私は、非番の日も家から出なかった。

 

テレビでは、伊吹を撃った狙撃手が「英雄」だと言われていた。名前は伏せられていた。ありがたかった。

 

英雄じゃない。

 

私は、百九人を見殺しにした人間だ。

 

もし、あのとき許可を待たずに撃っていたら。立っているだけの、指一本動かしていない男を撃っていたら。

 

私は殺人犯になっていた。

 

どちらが正しかったのか、今もわからない。

 

久遠という研究者が訪ねてきたのは、事件から一か月後だった。

 

ぼさぼさの髪。緩んだネクタイ。目の下に濃い隈があった。

 

「報告書を書いたのは、俺です」

 

玄関先で、彼はそう言って頭を下げた。

 

「もっと強く書くべきだった。推奨じゃなくて、即時拘束を要請すると。……書けなかった。根拠がなかったから」

 

「根拠があっても、拘束はできませんでしたよ」私は言った。「法律がないんですから」

 

「ええ」

 

「だから、私が撃ったんです。ビルが崩れたあとで」

 

久遠は、顔を上げた。

 

「今日は、謝りに来ただけじゃないんです」

 

彼は、鞄から書類の束を出した。

 

「上から、仕事を頼まれました。発現者の中から、伊吹のような人間を、事前に見分ける方法を作れと」

 

「……見分けて、どうするんですか」

 

久遠は答えなかった。

 

書類の束を、私に渡した。

 

表紙に、新しい部署の名前が書いてあった。長ったらしい名前だった。「特定危険発現者対応」なんとか。

 

その下に、私の名前があった。

 

久遠の作った検査は、よくできていた。

 

脳波。瞳孔反応。表情筋の微細な動き。他人の苦痛を見せられたときに、体がどう反応するか。普通の人間なら、映像の中で誰かが殴られるのを見るだけで、心拍が少し上がる。瞳孔が少し開く。

 

伊吹のような人間は、上がらない。開かない。

 

陽性判定の子どもは、登録者の中に何人かいた。

 

「陽性イコール伊吹、じゃないんです」

 

久遠は、会議室で何度もそう言った。誰も聞いていなかった。

 

「情動反応が薄い子は、いくらでもいる。発達の個人差もある。環境の問題もある。この検査は、あくまで参考で――」

 

「参考で百十四人死んだんだよ、先生」

 

誰かがそう言った。久遠は黙った。

 

それで決まった。

 

陽性判定が出た発現者のうち、特に数値の低い者を「特定危険」に指定する。指定された者は、監視下に置く。そして、監視下で兆候が確認された場合――

 

兆候が何なのかは、誰も定義しなかった。

 

定義できなかったんだと思う。伊吹だって、あのエレベーターホールで、ただ立っていただけなのだから。

 

最初の対象は、十三歳の少年だった。

 

名前は書かない。書いたら、この手紙を読んだ誰かが、彼の家族を探すかもしれないから。

 

陽性。数値は、伊吹とほぼ同じ。

 

彼はまだ、何もしていなかった。

 

私は、また屋上にいた。七百メートル。違う街の、違う雑居ビル。スコープの中に、少年の住む団地の、ベランダが見えた。

 

今回は、許可を待つ必要はないと言われていた。

 

兆候を確認したら、現場の判断で撃ってよい。

 

判断するのは、私だ。

 

三日目の夕方だった。

 

少年がベランダに出てきた。痩せた子だった。手すりにもたれて、下を見ていた。下の植え込みで、猫が一匹、うずくまっていた。

 

少年は、猫を見ていた。

 

じっと。表情を動かさずに。

 

伊吹が空き缶を見ていたときと、同じ目だと思った。

 

私の指が、引き金にかかった。

 

猫が、ふわりと浮いた。

 

植え込みから、ゆっくりと。宙を昇って。三階の、少年のベランダまで。

 

少年は、それを両手で受け取った。

 

猫の後ろ足が、おかしな方向に曲がっていた。車にでも轢かれたのかもしれない。少年は、猫を胸に抱いたまま、表情ひとつ変えずに、部屋の中へ入っていった。

 

私は、スコープから目を離せなかった。

 

あれは、何だった。

 

助けたのか。

 

それとも、持って帰って、壊すつもりなのか。

 

わからなかった。あの子の顔からは、何も読めなかった。伊吹と同じで。

 

私は、無線を取った。

 

「目標、兆候、確認できず」

 

翌週、私は外された。

 

後任が誰になったのか、私は知らない。知らないようにしている。

 

あの少年がどうなったのかも。

 

久遠は、辞表を出したらしい。最後に一度だけ、電話がかかってきた。

 

「上の人たちが、別の方法を考え始めています」

 

久遠の声は、ひどく掠れていた。

 

「人間の狙撃手は、迷うから。……迷わない何かに、やらせる方法を」

 

「何か、って」

 

「わかりません。まだ、誰にも。でも、いつかできると思います。命令されたら迷わない。相手が子どもでも、猫を抱いていても。そういう、何かが」

 

それから久遠は、こう言った。

 

「発現者の側にも、鍵をかける研究が進んでます。人を傷つけようとしたら、自分が死ぬような。……両方から、迷いを取り上げようとしてるんです、俺たちは」

 

電話が切れた。

 

千年後のあなたへ。

 

あなたたちの世界に、迷わずに子どもを始末する何かがいるのなら。

 

それを作ったのは、私たちです。

 

私が七百メートル先で迷ったせいで、百九人が死んだ。私が迷ったおかげで、猫を抱いた少年が、少なくともあの日は生き延びた。

 

どちらの迷いが正しかったのか、私にはわからない。

 

わからないまま、迷いを取り上げてしまった世界で、あなたたちは生きているのかもしれない。

 

それが、私たちの時代の出した答えでした。

 

私は今も、あの少年の手の中の猫のことを考えます。

 

あの子が、あの猫をどうしたのか。

 

一秒でいい。誰か、確かめてあげてほしかった。

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