猫の骨
――『新世界より』前史・二次創作――『七百メートル』続編
猫の後ろ足は、大腿骨が二か所で折れていた。
ぼくはそれを、猫を抱いたときに知った。手のひらに伝わる形でわかった。骨の断面が、ずれて重なっている。筋肉が引っぱって、ずれが広がろうとしている。
部屋に入って、図書館で借りた動物の解剖図鑑を開いた。猫の骨格のページ。大腿骨。長さ、太さ、曲がり方。
ぼくは、骨を元の位置に戻した。
ずれた断面を、ぴったり合わせた。それから、ほんの少しだけ、合わせ目のまわりを押し固めた。ギプスの代わりに。
猫は鳴かなかった。痛くなかったのかもしれない。ぼくが、痛くないように描いたから。
それが、あの日ぼくが猫にしたことです。
たぶん、七百メートル先の誰かが、知りたがっていたことです。
一
ぼくの名前は、朔といいます。十三歳。
ぼくには、みんなが持っているものが、少し足りません。
小学二年のとき、クラスの女の子が転んで泣きました。みんなが駆け寄りました。ぼくは駆け寄りませんでした。駆け寄る理由が、わからなかったからです。膝をすりむいただけで、骨も折れていないし、血もすぐ止まる。
先生に、冷たい子だと言われました。
家に帰って、母にその話をしました。母は、長いこと黙っていました。それから、ノートを一冊出してきて、最初のページに書きました。
「人が泣いていたら、そばに行く」
「どうして」とぼくは訊きました。
「わからなくていい」と母は言いました。「わからなくていいから、そうしなさい。それが規則」
ノートは、今は四冊目です。
規則は、二百十七個あります。
一番大事なのは、最初のページの一番下に、母が太い字で書いたものです。
「壊さない」
二
去年の秋、ぼくは力に目覚めました。
きっかけは、覚えていません。気がついたら、机の上の消しゴムが、考えた通りに動くようになっていました。
ぼくは、ノートに書き足しました。
規則二百四。「力のことは、母にだけ話す」 規則二百五。「力で、生きているものを動かさない」 規則二百六。「力で、人を壊さない。絶対に」
最後のは、書かなくても最初のページにあります。でも、もう一度書きました。念のため。
母は、力のことを聞いて、泣きました。
ぼくは、規則の一番目の通り、そばに行きました。母は、ぼくを抱きしめて、もっと泣きました。どうしてもっと泣いたのかは、わかりませんでした。
登録は、母が連れていってくれました。
検査がありました。映像を見せられました。誰かが殴られている映像。子どもが泣いている映像。ぼくの頭と胸には、いろいろな線がつながっていました。
終わったあと、検査の人が、母だけを別の部屋に呼びました。
帰り道、母は一言もしゃべりませんでした。家に着いて、玄関の鍵をかけて、それから床に座りこんで、ぼくを見ました。
「朔」
「はい」
「あなた、陽性だって」
ぼくは、その言葉の意味を知っていました。ニュースで見ていたからです。ビルを崩した人。伊吹という人。あの人と、同じ種類だということ。
「お母さん」
「うん」
「ぼくは、あの人と同じですか」
母は、答えませんでした。
答えられないことを訊いてはいけない、という規則は、まだノートにありませんでした。その夜、書き足しました。
三
見られている、と気づいたのは、猫を拾った日の四日後でした。
夕方、ベランダに出ると、遠くのビルの屋上で、何かが一瞬光ることがありました。西日が当たる時間だけ。角度を計算すると、光っているのは、ちょうどこのベランダを向いたレンズでした。
ぼくは、図書館で調べました。狙撃。有効射程。伊吹が撃たれたときのニュース記事。
伊吹は、見えない弾丸を止められなかった。
それはそうです。この力は、頭の中に描いたものにしか働かない。見えないものは、描けない。
ぼくは、何日も考えました。
見えないものを、どうやって止めるか。
答えは、見えないまま描く、でした。
弾丸を描くんじゃない。ぼくのまわりの、空気を描く。半径三メートルの、球。その内側に、ある速さを超えて入ってくるものがあったら、止まる。そういう「規則」を、空間そのものに描く。
最初は、うまくいきませんでした。一日中その絵を保っていると、頭が割れるように痛くなりました。でも、何日か続けるうちに、呼吸と同じくらい自然にできるようになりました。
母には、言いませんでした。
言ったら、母がまた泣くと思ったからです。
四
撃たれたのは、猫の骨がつながった日の夕方でした。
ぼくはベランダで、猫を膝に乗せていました。猫は、もう後ろ足をかばわずに歩けるようになっていました。
音はしませんでした。
ただ、ぼくの左のこめかみから、五十センチくらいのところで、空気が何かを掴みました。
見ると、小さな金属の塊が、空中で回転していました。銅の色。先が丸くて、少しつぶれていて、まだ熱を持っているのがわかりました。
ぼくは、それを眺めました。
一秒。
二秒。
屋上のレンズが、もう一度光りました。撃った人は、まだそこにいる。次を撃つかもしれない。
規則を、頭の中で順番に確かめました。
規則二百六。力で、人を壊さない。 規則一。人が泣いていたら、そばに行く。
撃った人は、泣いていないと思いました。でも、怖がっていると思いました。怖がっている人のそばに行くという規則は、まだありませんでした。
ぼくは、猫を部屋の中に下ろして、ベランダの手すりを越えました。
七百メートルを、歩くと十二分かかりました。
空中を、まっすぐ歩いたわけではありません。そんなことをしたら、下にいる人たちがパニックになります。規則百三十一、「人を驚かせない」。ぼくは普通に階段を降りて、普通に道を歩いて、信号を守って、そのビルまで行きました。
弾丸は、ずっとぼくの左肩の上に浮かべたまま持っていきました。
非常階段を上りました。屋上のドアは、鍵がかかっていました。ぼくは、鍵の内側を描いて、開けました。
屋上に、男の人がいました。
大きな銃を、床に置いていました。手に、黒い拳銃を持っていました。その拳銃が、ぼくを向いていました。ひどく震えていました。
撃ってきました。三発。
三発とも、ぼくの前で止まりました。
男の人は、拳銃を落としました。膝をつきました。顔が、真っ白でした。
ぼくは、四つの弾丸を、男の人の前の床に、そっと並べました。
五
「ぼくは、あなたの気持ちがわかりません」
ぼくは言いました。
男の人は、何も言いませんでした。
「今、あなたが何を感じているのか、たぶん怖いんだと思うけど、よくわかりません。あなたがぼくを撃った理由も、頭ではわかるけど、ここのところでは、わかりません」
ぼくは、自分の胸を指さしました。
「伊吹という人も、わからなかったんだと思います」
男の人の喉が、ごくりと鳴りました。
「でも、あなたを壊さない理由は、言えます」
ぼくは、指を折って数えました。
「ひとつ。母との約束だから。 ふたつ。あなたを壊しても、ぼくの得にならないから。次の人が来るだけです。 みっつ。あなたを壊したら、あの検査が正しかったことになるから。そうしたら、ぼくと同じ判定の子が、みんな撃たれるから。 よっつ。猫の骨が、今日つながったから」
男の人が、初めてぼくの顔を見ました。
「……猫?」
「はい。前の人が、見ていたと思います。ぼくがあの猫をどうするか。前の人は、撃ちませんでした。だから、あの猫は歩けるようになりました」
ぼくは、言葉を探しました。規則のノートには、こういうときに言うことは書いてありませんでした。
「前の人に、伝えてください。猫は、元気です、って」
男の人は、しばらく口を開けていました。
それから、両手で顔を覆って、泣き始めました。
ぼくは、規則の一番目の通り、そばに行きました。
しゃがんで、隣に座りました。それ以外に、何をすればいいのかは、わかりませんでした。
六
その夜、ぼくは家を出ました。
ここにいたら、また次の人が来る。次の人は、もっと上手に撃つかもしれない。見えないまま描くのにも、限界があります。眠っている間は、保てないかもしれない。
それに、ぼくがここにいたら、母が危なくなります。
母には、手紙を書きました。
「規則は、持っていきます。全部守ります。猫も連れていきます。ごめんなさい」
ごめんなさい、と書いたのは、規則四十二があるからです。「人を悲しませたら、謝る」。母が悲しむことは、わかっていました。どうして悲しいのかは、わからないけれど、悲しむことは、わかっていました。
猫を、リュックに入れました。
ノートを四冊、リュックに入れました。
真夜中の街を、歩きました。
聞いた話では、ぼくみたいな子は、他にもいるそうです。
名簿が流れて、狩りが始まって、家にいられなくなった子たち。陽性の子も、陰性の子も。どこかの山の中に、集まり始めているそうです。
そこで、何が起きるのか、ぼくにはわかりません。
力を持った子どもたちが、大人のいない場所で、何を始めるのか。規則を持っていない子が、そこにどれくらいいるのか。
ぼくは、ノートを持っていきます。
二百十七個の規則を。
もし誰かが欲しがったら、写させてあげようと思います。
わからなくてもいいから。
わからなくても、そうすれば、壊さずにいられるから。
千年後の、誰かへ。
ぼくは、あなたたちの気持ちも、たぶんわからないと思います。
でも、規則なら書けます。
一番目は、これです。
人が泣いていたら、そばに行く。
理由は、わからなくていいです。