山の王
――『新世界より』前史・二次創作――『猫の骨』続編
千年後のあなたへ。
もう一度、手紙を書きます。水無瀬灯です。
前の手紙で、私は「誰も誰かを傷つけられない仕組みは、私たちの恐怖の形です」と書きました。
今は、少し違うことを考えています。
恐怖だけじゃなかった。
私たちは、あの山で、王様を作ってしまったんです。
一
家に火をつけられたのは、夏の終わりでした。
夜中に、母の悲鳴で目が覚めました。窓の外が赤かった。玄関に灯油が撒かれていて、誰かが走っていく足音がしました。
私は、炎を押さえつけました。思い描いて、酸素を追い出して。消えるまでに、十分かかりました。家族は無事でした。家は、半分焼けました。
翌朝、玄関の壁に、スプレーで一言だけ書いてありました。
読みたくない言葉でした。
その日のうちに、母は私に言いました。「逃げなさい」と。泣きながら。「ここにいたら、あなたが殺される。あなたが誰かを殺すかもしれない。どっちも嫌なの」
どっちも嫌。
母の言葉の、後ろ半分のほうが、ずっと深く刺さりました。
夏生が、ついてきました。
止めました。何度も。あなたは発現者じゃない。家に帰れば、普通に暮らせる。一緒にいたら、あなたまで狩られる。
「次も一緒にいる、って言ったでしょ」
夏生はそれしか言いませんでした。リュックに、着替えと、懐中電灯と、私の好きなお菓子を詰めて。
私たちは、噂を頼りに北へ向かいました。
山の中に、発現者の子どもたちが集まっている場所がある。そこなら、狩られない。
二
集落は、廃村でした。
ダム建設で住民が出ていったあと、放置された谷の村。二十軒くらいの古い家と、小学校の分校跡。そこに、百人近い子どもたちがいました。
発現者が、六十人くらい。
残りは、発現者の兄弟や、友達や、恋人。夏生みたいに、ついてきた子たち。
最初の数週間は、本当に楽しかったんです。
誰も石を投げない。誰も化け物と呼ばない。力を隠さなくていい。発現者の子たちは、倒れかけた家を持ち上げて直しました。谷川の水を引いて、畑を作りました。夜は分校の校庭で火を焚いて、みんなで歌いました。
その真ん中に、いつも御堂蓮がいました。
十八歳。この集落を最初に作った子です。背が高くて、よく笑って、誰の名前も一度で覚えました。力も、誰より強かった。谷の向こう側の岩壁を、一人で削って道を作ったのは彼でした。
「ここは、俺たちの国だ」
焚き火の前で、蓮はよくそう言いました。
「外の連中は、俺たちを怖がって、狩った。でも、ここでは誰も狩られない。力がある奴も、ない奴も。みんな家族だ」
みんな、歓声を上げました。
私も、夏生も。
蓮に妹がいたことを知ったのは、ずっと後でした。
名簿が流出した最初の週に、狩りで死んだそうです。十四歳。発現者でした。
蓮は、その話を一度もしませんでした。
三
最初の違和感は、食料でした。
秋が深まって、蓄えが減り始めました。発現者の子たちは、力で木を切り、獣を狩り、川で魚をとりました。発現者じゃない子たちは、それを運び、料理し、洗濯をしました。
役割分担だ、と蓮は言いました。力がある者はある者の仕事を。ない者はない者の仕事を。
おかしいとは思いませんでした。最初は。
でも、いつの間にか、食事の配り方が変わっていました。
発現者が先。発現者じゃない子は、あと。
量も、少しずつ違ってきました。
「働いた分だけ食う。当然だろ」
蓮の側近の男の子が、そう言いました。夏生の器には、私の半分くらいしか盛られていませんでした。
私は、自分の器を夏生と取り替えました。
側近の子が、じっと私を見ていました。
四
朔が来たのは、十月の終わりでした。
十三歳くらいの、痩せた男の子。リュックの中に猫を入れて、ノートを何冊も抱えていました。
表情が、ほとんど動かない子でした。
最初の夜、焚き火の前で、蓮が朔に訊きました。
「お前、陽性なんだってな」
どこから聞いたのか、わかりません。でも、集落の中では、もう噂になっていました。ビルを崩した男と同じ判定の子が来た、と。
「はい」朔は言いました。
「怖くないのか。自分が」
「わかりません」
蓮は、面白そうに笑いました。
「いいな、お前。気に入った」
私は、その笑い方が嫌でした。
蓮が朔を見る目は、人を見る目じゃなかった。
道具を見る目でした。
朔とは、すぐに話すようになりました。
分校の裏で、猫にご飯をあげているところに、たまたま行き合ったんです。猫の後ろ足には、骨が一度折れてつながったような、かすかな歪みがありました。
「この子、怪我したの」
「はい。治しました」
「……力で?」
「はい。図鑑を見ながら」
朔は、ノートを一冊、私に見せてくれました。細かい字で、びっしりと何かが書いてありました。
規則、と朔は言いました。
「ぼくは、みんなが持っているものが、少し足りないので。代わりに、これを持っています」
最初のページの一番下に、大人の字で、太く書いてありました。
壊さない。
私は、なぜか涙が出そうになりました。
五
十一月、最初の雪が降った日に、それは起きました。
食料庫から、干し肉が盗まれたんです。
犯人は、すぐに見つかりました。発現者じゃない、十一歳の男の子でした。発現者の姉についてきた子。お腹がすいていた、と泣きながら言いました。その子の器には、ずっと、ほんの少ししか盛られていなかったから。
蓮が、校庭にみんなを集めました。
雪が、静かに降っていました。
「ここは、俺たちの国だ」
蓮は言いました。焚き火のときと、同じ言葉。でも、声が全然違っていました。
「国には、法がいる。盗んだ奴は、罰を受ける。外の連中と同じだ。……いや、外の連中よりちゃんとやる。俺たちは、あいつらみたいに、何もしてない奴を狩ったりしない。やった奴だけを、罰する」
男の子のお姉さんが、泣き叫んでいました。側近の子たちが、力で彼女を地面に押さえつけていました。
蓮は、朔を見ました。
「朔。お前がやれ」
校庭が、しんとなりました。
「こいつの指を、一本ずつ折れ。盗んだ手だからな。……お前なら、できるだろ。何も感じないんだから」
私は、自分の心臓の音を聞いていました。
わかりました。蓮が何をしようとしているのか。
陽性の子に、罰を執行させる。何も感じない道具に。そうすれば、他のみんなは、自分の手を汚さずに済む。自分たちが、残酷なことをしているとは、思わずに済む。
外の世界で、大人たちが考えたのと、まったく同じことを。
朔は、ノートを開きました。
ページをめくって、何かを確かめました。それから、ノートを閉じて、蓮を見ました。
「できません」
「……あ?」
「規則二百六。力で、人を壊さない。絶対に」
蓮の顔から、笑いが消えました。
「お前、自分が何か、わかってんのか」
「陽性です」
「そうだよ。お前は、ビルを崩した奴と同じだ。人の痛みなんて、わかんねえんだろ。なら、なんでやれねえんだよ」
「わからないから、規則があります」朔は言いました。「わかっていたら、規則はいりません」
朔は、少しだけ首を傾げました。
「蓮さんは、わかるんですよね。この子が痛いこと」
蓮の拳が、震えました。
「わかるのに、どうしてやるんですか」
六
蓮の力が、朔を打ちました。
見えませんでした。何が起きたのかも。ただ、朔の前の空気が、硝子が割れるみたいに軋んで、朔の体が後ろに滑りました。
朔は、倒れませんでした。
ずっと、自分のまわりに何かを描いていたんだと思います。半径三メートルの、見えない球みたいなものを。
蓮が、もう一度打ちました。球が軋みました。朔の鼻から、血が一筋流れました。
「やめて!」
夏生の声でした。
夏生が、朔の前に飛び出していました。両手を広げて。発現者じゃない、何の力もない体で。
蓮の目が、夏生に向きました。
その目を、私は知っていました。
止めた雪を、私が初めて見たときの、夏生の目と同じでした。
怯えている目でした。
蓮は、怯えていたんです。自分より弱い誰かが、自分に逆らうことに。力を持たない子が、力を持つ自分を、恐れないことに。
蓮の手が、夏生に向けて持ち上がりました。
その先を、私は思い描かなかった。
代わりに、雪を描きました。
校庭に降っていた雪が、全部、止まりました。
一ひら残らず。蓮の頭上にも、みんなの頭上にも。空から地面まで、何万という雪片が、空中に縫い留められて、夕方の光を反射していました。
時間が止まったみたいでした。
誰も動きませんでした。蓮も。
「蓮さん」
私は、自分の声が震えていないことに驚きました。
「私は、この雪を、全部あなたに向けることができます」
嘘ではありませんでした。一ひら一ひらを、針みたいに尖らせて、同時に。描こうと思えば、描けました。
「でも、やりません」
蓮が、私を見ました。
「あの子の指も、朔の骨も、夏生も。誰も壊さない。……ここがあなたの国なら、それを最初の法にしてください」
長い、長い沈黙でした。
蓮の手が、ゆっくりと下りました。
私は、雪を放しました。
何万という雪片が、一斉に、ふわりと落ちました。蓮の肩にも、夏生の髪にも、泣いている男の子の頬にも。
七
その夜、私たちは集落を出ました。
私と、夏生と、朔と、猫と。それから、指を折られずに済んだ男の子と、そのお姉さん。ほかに、発現者じゃない子が七人。発現者が三人。
蓮は、止めませんでした。
村の出口で、振り返ると、分校の窓に明かりが一つだけついていて、そこに蓮が立っているのが見えました。
何を考えていたのか、私にはわかりません。
妹のことだったのかもしれない。
あとから、噂を聞きました。
私たちが出ていったあと、集落には「法」ができたそうです。発現者は、発現者でない者を守る。その代わり、発現者でない者は、発現者に仕える。
守る、と、仕える。
言葉だけ聞けば、悪くないのかもしれません。
でも私は、あの校庭で、夏生の器に盛られていた干し肉の量を、覚えています。
千年後のあなたへ。
あなたたちの歴史の本に、もし「最初の王国」みたいなものが載っているなら。力を持つ者が、持たない者を支配した時代のことが載っているなら。
その始まりは、たぶん、悪い人たちじゃありませんでした。
狩られて、怯えて、家族を失って、それでも「みんな家族だ」と言おうとした、十八歳の男の子でした。
彼は、わかっていたんです。人の痛みが。
わかっていて、それでも、怖かったんです。
朔は、わからないのに、壊さなかった。
蓮は、わかるのに、壊そうとした。
どっちが化け物なのか、私にはもう、わかりません。
今、私たちは、さらに北の、名前のない谷にいます。
朔が、ノートを写させてくれています。みんなで、一冊ずつ。二百十七個の規則を。
夏生は、一番目の規則を、一番大きな字で書いていました。
人が泣いていたら、そばに行く。
雪が、また降っています。
今日も、止めません。