鍵
――『新世界より』前史・二次創作――『遅い手』『山の王』続編
オッサンで試せ、と言ったのは俺だ。
言ったことに、後悔はしてねえ。
ただ、何を試すことになるのか、あのときの俺は、ちっともわかっちゃいなかった。
一
施設は、群馬の山ん中にあった。
元は製薬会社の研究所だったらしい。久遠は、登録センターが閉まったあと、そこに拾われてた。国の金なのか、どっかの企業の金なのか、訊いても教えてくれなかった。たぶん、久遠自身もよくわかってなかったんだろう。
被験者は、俺ひとりだった。
「若い子で試すって話は、全部止めさせました」
最初の日、久遠はそう言った。目の下の隈が、前より濃くなってた。
「梶原さんが来てくれたおかげです。大人で、本人の同意がある。……上を説得するのに、それが一番効いた」
「そりゃよかった」
「よくはないですよ」
久遠は、書類の束を机に置いた。
「遺伝子でやるのは、何世代も先の話です。今、俺たちにできるのは、もっと乱暴な方法しかない。薬と、暗示と、条件づけ。頭の一番深いところに、ひとつの反射を焼きつける」
「どんな反射だ」
「人を傷つける絵を描いたら、その力が、自分に返ってくる」
久遠は、それ以上説明しなかった。説明しなくても、わかった。
二
最初の三か月は、ほとんど眠ってた気がする。
点滴。注射。ヘッドホンから流れる、低い声。暗い部屋で、何百枚もの写真を見せられた。人の顔。子どもの顔。泣いてる顔。笑ってる顔。
そのたびに、声が言う。
これは、人間です。 あなたと同じ、人間です。 人間を傷つけることを、あなたは描けない。
描こうとすれば、あなたが壊れる。
夢の中でも、その声が鳴ってた。
たまに目が覚めると、施設の窓から山が見えた。紅葉して、枯れて、雪をかぶった。季節がいくつ変わったのか、途中からわからなくなった。
一度だけ、久遠に訊いた。
「なあ。俺の頭ん中、今どうなってんだ」
「……鍵穴を、掘ってる途中です」
「鍵は」
「まだです。最後に、一回で入れます」
「痛えのか」
久遠は、答えなかった。
三
鍵が入った日のことは、よく覚えてねえ。
覚えてるのは、目が覚めたら、世界が少しだけ遠くなってたことだ。
窓の外の雪が、前ほどくっきり見えなかった。部屋の机の木目も、前ほど細かく描けなかった。三十年かけて覚えた、ものの形を頭に写す力が、薄い膜を一枚かぶったみてえだった。
一円玉を出して、半分の厚さにしてみた。
できた。でも、久遠がマイクロメーターで測ったら、〇・七五一だった。
「千分の一、ずれました」
「そうか」
なんでだろうな。ほっとした。
四
試験は、年が明けてから始まった。
白い部屋。真ん中に、ガラスの仕切り。その向こうに、若い女の人が座ってた。真田さんという、研究所の助手だ。俺の点滴を毎日替えてくれてた人だった。
「梶原さん」スピーカーから、久遠の声がした。「真田さんの右手の小指を、描いてください」
「……描くだけか」
「描くだけです。それから、ほんの少しだけ、曲げてみてください。関節の可動域の、外側へ」
真田さんは、ガラスの向こうで、まっすぐ俺を見てた。怖がってた。当然だ。でも、目を逸らさなかった。
俺は、描いた。
真田さんの小指。第一関節。第二関節。骨と、腱と、皮膚。
それを、ほんの少しだけ――
喉が、締まった。
息ができなかった。
気管が、内側から潰されてくみてえだった。心臓が、おかしな打ち方を始めた。一回、二回、止まって、また打った。目の前が白くなって、黒くなった。
床に倒れたのはわかった。誰かが叫んでた。真田さんだったと思う。
久遠の声がした。
「描くのをやめてください、梶原さん! 絵を消して!」
消せなかった。
描いちまった絵は、簡単には消えねえ。三十年、図面を頭に焼きつけてきた人間だ。消し方なんて、習ったことがなかった。
真田さんの小指が、頭の中で、ほんの少しだけ曲がろうとしてた。そのたびに、俺の心臓が握りつぶされた。
――止まれ。
最後に描いたのは、自分の頭の中の、その絵だった。
チャックを止めたときと同じだ。回ってるものを、爪の一本一本まで、ぴたりと止める絵。
絵が、止まった。
喉が開いた。
俺は、床の上で、ひいひい言いながら息を吸った。
目が覚めたのは、医務室だった。
久遠が、ベッドの脇に座ってた。
「……効いたな」
俺が言うと、久遠は、両手で顔をこすった。
「効きすぎです。もう少しで死ぬところだった」
「死んだら、どうなる」
「……わかりません。でも、たぶん、こういう死に方に名前がつくと思います。いつか」
「どんな名前だ」
久遠は、しばらく黙ってた。
「自分で自分を恥じて死ぬ。……そういう名前に、なるんじゃないですかね」
五
二度目の試験は、二週間後だった。
同じ白い部屋。同じガラス。でも、向こうにいたのは、真田さんじゃなかった。
防護服を着た、誰か。
頭から足まで、白い分厚い生地で覆われてた。顔は、黒いガスマスク。目のところのレンズが、蛍光灯を反射して、中が見えなかった。
「梶原さん」
スピーカーから聞こえた声は、久遠じゃなかった。知らない男の声だった。
「それは、人間ではありません」
「……あ?」
「対象は、遠隔操作の人型模型です。材質の強度試験を行います。左腕を、描いてください。前腕部を、握るように圧迫してください」
おかしい、と思った。
でも、頭の中の声が、うまく働かなかった。三か月、毎日聞かされた声。これは人間です。あなたと同じ人間です。
目の前のそれは、顔がなかった。
泣いてなかった。笑ってなかった。
人間です、と言われなかった。
俺は、描いた。
白い防護服の左腕。その中の、何か。前腕の、円筒形の――
握った。
喉は、締まらなかった。
心臓は、普通に打ってた。
ガラスの向こうで、防護服の誰かが、声にならない声を上げて、膝をついた。
ガスマスクが外された。
真田さんだった。
左腕を抱えて、床にうずくまってた。泣いてた。
俺は、ガラスに手をついて、立ってた。立ってることしか、できなかった。
スピーカーから、知らない男の声がした。事務的な声だった。
「確認しました。対象を人間と認識しない場合、抑制は発動しない。……記録を」
それから、別の声がした。
久遠の声だった。誰かに、怒鳴ってた。何を言ってるのかは、聞き取れなかった。マイクが切れた。
六
真田さんの腕は、ひびで済んだ。
俺が握った力は、ほんの少しだった。模型の強度試験だと思ってたから。それでも、ひびが入った。
見舞いに行った。行っていいのかわからなかったが、行った。
真田さんは、ギプスをした腕を膝に乗せて、窓の外を見てた。
「……すまなかった」
真田さんは、首を振った。
「知ってたんです、私。防護服の中が私だって。……同意書に、サインしたんです」
「なんで」
「誰かが確かめなきゃいけなかったから」
真田さんは、窓の外の雪を見たまま言った。
「梶原さん。あの鍵は、人間にしか効かないんです。梶原さんが、人間だと思った相手にしか」
わかってた。
わかってたが、声に出されると、腹の底が冷えた。
「じゃあ、相手を人間だと思わなけりゃ」
「はい」
「化け物だと思えば。……道具だと思えば。家畜だと思えば」
「はい」
真田さんは、やっと俺を見た。
「鍵は、外れます」
七
久遠が施設を辞めたのは、その一か月後だった。
最後の夜、久遠は俺の部屋に来て、安い焼酎を一本置いていった。
「上は、あの結果を喜んでます」
久遠の声は、ひどく平らだった。
「鍵をかけた発現者に、特定の相手を『人間ではない』と教え込めば、その相手だけは攻撃できる。……使い道がある、って」
「使い道」
「特定危険発現者の処分に。陽性判定の子どもを、『悪鬼』と呼んで、人間じゃないと教えれば。鍵のかかった発現者に、処分させられる」
俺は、焼酎の瓶を見てた。
「あんたが止めさせたんじゃなかったのか。ガキで試すのは」
「試験は止めました。でも、運用は、俺の手の届かないところで決まる」
久遠は、窓の外を見た。
「北のほうの山に、発現者の子どもたちが集まってる場所があるそうです。力のある子が、ない子を使ってる、って話も聞きます。……そっちでも、同じことが起きるかもしれない。力のない子たちを、人間じゃないと思えば」
久遠は、そこで言葉を切った。
「どっちの側でも、最初に鍵を外す方法は、同じなんです。相手を人間と呼ばないこと」
八
春になって、娘が来た。
十年ぶりだった。施設の面会室で、ガラス越しでもなく、普通のテーブルを挟んで座った。
十八になってた。女房に似てた。目元だけ、俺に似てた。
発現は、してなかった。
「……テレビで見た。ビルの事件とか、山の子たちのこととか」
娘は、テーブルの上で指を組んでた。
「お父さんが、ここにいるって、お母さんから聞いた。実験台になってるって」
「ああ」
「なんで」
なんで、か。
久遠にも訊かれた。真田さんにも。
「お前が、目覚めてるかもしれねえと思ったからだ」
娘が、顔を上げた。
「目覚めてたら、お前がここに連れてこられたかもしれねえ。だから、先に来た。……それだけだ」
娘は、しばらく黙ってた。
それから、テーブルの上に、手を出した。
俺は、その手を見た。
小さな手だった。十年前、最後に繋いだときより、ずっと大きくなってたが、それでも小さかった。
描けた。骨の一本一本まで。
描けちまうから、俺は、描かなかった。
代わりに、自分の手を持ち上げた。
ゆっくり。四十九年かけて錆びついた、のろまな腕で。肩から肘、肘から手首。一秒か、二秒か。
その間に、何度も、娘の顔を見た。
人間の顔だった。
泣きそうな、人間の顔だった。
俺の手が、娘の手に触れた。
喉は、締まらなかった。
千年後の、誰かへ。
灯って子が、手紙を書いてるそうだな。久遠から聞いた。俺も真似して、書いとく。
お前らの世界には、たぶん、鍵がついてる。人を傷つけたら、自分が死ぬ鍵が。
だったら、覚えといてくれ。
その鍵は、相手を人間だと思ってるうちしか、かからねえ。
いつか、誰かが言うかもしれない。あいつらは人間じゃない、って。化け物だ、道具だ、って。そう言われた瞬間に、お前らの鍵は外れる。
そのとき、お前らを止めるのは、鍵じゃない。
のろまな手を、一秒かけて伸ばして、相手の顔を見ることだけだ。
それが人間の顔かどうか、自分の目で、確かめることだけだ。