新世界より0年   作:Sub Sonic

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先に撃て

先に撃て

――『新世界より』前史・二次創作――『命名』続編

 

渋谷のスクランブル交差点が、最後に青信号を点けたのがいつだったか、誰も覚えてない。

 

信号機は、とっくに全部ねじ切られて、交差点の真ん中に積み上げられてる。その上に、焼けたバスが三台、逆さまに突き刺さってる。オブジェみたいに。誰かが力で積んだんだ。暇つぶしに。

 

俺は、そのオブジェを、宮益坂の瓦礫の陰から眺めてる。

 

見られないように。

 

この街じゃ、見られたら終わりだから。

 

沢井。二十三歳。元・旋盤工見習い。

 

蒲田の町工場で、チャックに袖を巻き込まれかけて、梶原さんに助けられた。あれから二年ちょっと経った。

 

二年で、世界はこうなった。

 

最初に政府が「首都機能の一時移転」を発表した。一時、って言葉を信じた奴はいなかった。国会は長野に逃げた。官庁も、大企業の本社も、金を持ってる連中も、みんな西か北へ消えた。

 

残ったのは、逃げる場所も金もない人間と、逃げる必要のない人間だった。

 

発現者だ。

 

警察は、最初の半年はがんばってた。でも、発現者が十人まとまって動いたら、機動隊一個中隊でも止められない。盾は紙みてえに潰されるし、催涙弾は投げ返される。装甲車が、交差点で風船みたいに浮かされて、ビルの五階に叩きつけられるのを、俺は見た。

 

一年目の冬に、警視庁は二十三区から「戦術的撤退」した。

 

それから、渋谷は、誰のものでもなくなった。

 

いや。

 

力のある奴のものになった。

 

今の渋谷には、「王」が三人いる。

 

道玄坂から円山町を仕切ってるのが、「坂上」って呼ばれてる二十歳くらいの男。元はホストだったらしい。十人くらいの発現者を従えて、坂の上のホテル街を丸ごと城にしてる。

 

宮下公園から原宿方面は、「ミヤシタ」って集団。こっちは十代ばっかり。一番上が十七の女で、名前は知らない。

 

で、駅の南、桜丘の再開発跡地を根城にしてるのが、「狐」。

 

十五歳の男だって噂だ。見た奴は、たいてい生きてない。

 

非発現者は、地下にいる。

 

渋谷駅の地下街、東横線と副都心線の構内、ヒカリエの地下駐車場。電気は来てない。水は、漏水した配管から溜めて、煮沸して飲む。食い物は、夜中に地上に出て、崩れたコンビニやデパ地下の残骸を漁る。

 

地下にいる理由は簡単だ。

 

発現者の力は、見えないものには届かない。

 

コンクリートの天井と、何層もの床と、暗闇。それが、俺たちの鎧だ。

 

地上に出る奴は、みんな同じことを覚える。

 

走るな。止まるな。ビルの窓を見るな。目が合ったら、終わりだ。

 

去年の夏、地下の仲間の女の子が、水を汲みに出て、道玄坂の途中で坂上の連中に見つかった。

 

俺は、地下鉄の通風口から、それを見てた。

 

女の子は、アスファルトから三メートルの高さに浮かされて、ゆっくりと回されてた。連中は、笑ってた。ビルの屋上から、缶ビールを飲みながら。回転がどんどん速くなって、女の子の悲鳴が聞こえなくなって、それから連中は飽きて、手を離した。

 

三メートルの高さから。

 

――あいつらに、鍵なんてかかってない。

 

梶原さんが実験台になったって噂は、地下にも届いてた。鍵の研究。人を傷つけたら、自分が死ぬ仕組み。

 

いつかは、そういう世界が来るのかもしれない。

 

でも、今この渋谷にいる連中には、何の関係もない話だった。

 

俺が地下でやってるのは、鉄砲作りだ。

 

作り方は書かない。千年後に届くかもしれない紙に、そんなもんを書くほど馬鹿じゃない。

 

ただ、ひとつだけ言っとく。

 

梶原さんが教えてくれた旋盤の技術が、全部、そこに注ぎ込まれてる。

 

あの人は、俺に、ものを削ることを教えた。百分の一ミリを合わせることを。材料の癖を読むことを。

 

俺は、それを、人を殺す道具に使ってる。

 

最初に作った一丁を完成させた夜、俺は、ヒカリエの地下駐車場の隅で、一人で吐いた。

 

それから、次の一丁を作った。

 

鉄砲が、なんで効くのか。

 

簡単な話だ。弾は、速くて、小さい。発現者の目には、見えない。

 

見えないものは、描けない。描けないものは、止められない。

 

発現者を殺す方法は、ひとつしかない。

 

向こうに気づかれる前に、遠くから、先に撃つ。

 

それだけだ。

 

橘さんが地下に来たのは、今年の春だった。

 

三十代半ばの女の人で、ボロボロの防寒着に、長い布包みを背負ってた。地下の見張りが止めようとしたら、布包みを少しだけ開いて見せた。

 

それだけで、見張りは道をあけた。

 

「沢井くん、だっけ。鉄砲を作ってるって聞いた」

 

橘さんは、俺の作業場――元はパン屋の厨房だった場所――の、錆びた調理台に座って、そう言った。

 

「……誰から」

 

「蒲田の町工場の社長さん。あの人、まだ生きてるよ。長野に逃げてた」

 

梶原さんの名前は、出さなかった。俺も、訊かなかった。

 

「私も、昔、撃ってたの」

 

橘さんは、布包みを調理台の上に置いた。

 

「あなたが作ったものの、試し撃ちをさせてほしい。それから――」

 

少しだけ、言葉を探してた。

 

「地下の人たちに、撃ち方を教えたい」

 

橘さんが何者なのか、地下の誰も知らなかった。

 

でも、三日もしないうちに、みんな知ることになった。

 

四日目の夜明け前、坂上の手下の発現者が二人、地下への入口を探して宮益坂をうろついてた。

 

橘さんは、ヒカリエの十一階の、割れた窓の奥にいた。

 

音は、ほとんどしなかった。

 

二人は、ほとんど同時に倒れた。何が起きたのか、たぶん最後までわからなかったと思う。

 

翌朝、橘さんは、作業場の隅で膝を抱えて座ってた。

 

「……私ね」

 

橘さんは、壁を見たまま言った。

 

「昔、撃つのを迷って、百九人死なせたことがあるの」

 

俺は、何も言えなかった。

 

「だから、もう迷わないことにした」

 

その声は、泣きそうだった。

 

「狐」が地下に降りてきたのは、梅雨の終わりだった。

 

何の前触れもなかった。

 

渋谷駅の地下、東急の旧改札の辺りで、最初の悲鳴が上がった。それから、地下街の天井が、端から順番に落ち始めた。

 

狐は、地上から、地下を「描いて」いた。

 

どうやってかは、わからない。たぶん、昔の地下街のフロアマップを覚えてたんだろう。見えなくても、図面があれば描ける。梶原さんが、チャックの爪を一本ずつ描いたみたいに。

 

天井が落ちる。柱が折れる。避難しようとする人たちが通路に殺到して、その通路の出口が、ちょうどいいタイミングで塞がれる。

 

遊んでた。

 

鶏小屋に入った狐みたいに。

 

久遠って研究者がつけた名前を、地下の誰かが、ラジオで聞いて知ってた。フォックス・イン・ザ・ヘンハウス。鶏小屋の狐。

 

誰が最初に、あの十五歳をそう呼び始めたのかは知らない。でも、ぴったりの名前だった。

 

橘さんは、すぐに動いた。

 

「沢井くん。一番遠くまで届くやつ、どれ」

 

俺は、作業台の下から、一番新しい一丁を出した。まだ試し撃ちもしてないやつ。

 

「……わかんないです。まだ、ちゃんと調整してない」

 

「あなたが作ったなら、合ってる」

 

橘さんは、それを担いで、崩れかけた非常階段を駆け上がっていった。

 

俺も、ついていった。なんでかは、わからない。ただ、自分が作ったものが何をするのか、見届けなきゃいけない気がした。

 

地上は、燃えてた。

 

桜丘の再開発跡地。鉄骨だけになったビルの、二十階くらいの高さ。その鉄骨の上に、細い影が立ってた。

 

子どもだった。

 

痩せた、髪の長い、十五歳くらいの男の子。

 

両手を広げて、渋谷の街を見下ろしてた。足元で、地下街が崩れていく音がしてた。煙が上がってた。

 

その子は、笑ってた。

 

遠すぎて、顔は見えなかった。でも、肩が震えてるのがわかった。笑ってるんだ、と思った。楽しくて、楽しくて、たまらないって体で。

 

橘さんは、崩れた歩道橋の上で、腹ばいになって、構えてた。

 

距離は、たぶん五百メートルくらい。

 

「……子どもだ」

 

俺は、思わず言ってた。

 

橘さんは、答えなかった。

 

一秒。

 

橘さんの背中が、ほんの少しだけ、固まった。

 

それから、撃った。

 

鉄骨の上の影が、揺れた。

 

一度だけ、こっちを見た気がした。

 

そのまま、二十階の高さから、燃える瓦礫の中に落ちていった。

 

地下街の崩落が、止まった。

 

死んだのは、地下の住人、三十八人。

 

狐が何人殺したのかは、誰も数えてない。渋谷に来る前にも、いろんな街で。

 

地下の連中は、橘さんを英雄だって言った。

 

橘さんは、その夜、作業場の隅で、また膝を抱えてた。

 

「迷った」

 

橘さんは言った。

 

「一秒だけ。……でも、迷った」

 

「間に合ったじゃないですか」

 

「うん」

 

橘さんは、自分の手を見てた。

 

「次は、迷わないかもしれない。それが、怖い」

 

狐が死んで一週間で、坂上とミヤシタが、桜丘の縄張りを巡って殺し合いを始めた。

 

渋谷の空が、毎晩赤くなった。

 

地下の俺たちは、その間に、鉄砲を増やした。十丁。二十丁。撃ち方を覚えた奴が、五十人。

 

坂上もミヤシタも、地下に鉄砲があることに、気づき始めてる。

 

向こうが先に地下を潰すか。

 

こっちが先に、窓の奥から撃つか。

 

久遠さんのラジオ放送で、昔、聞いたことがある。この力が文明を壊したのは、発現者が強いからじゃない。

 

先に攻撃したほうが勝つから、だって。

 

見ただけで殺せる奴と、見られる前に殺すしかない奴。どっちも、相手を信用できない。信用した瞬間に、死ぬから。

 

だから、みんな、先に撃つ。

 

渋谷は、それが一番早く、一番わかりやすく起きただけの場所だ。

 

灯って子や、梶原さんや、久遠さんは、千年後に手紙を書いてるらしい。

 

俺は、書かない。

 

書くことが、ない。

 

俺にできるのは、鉄を削ることだけだ。梶原さんが教えてくれたみたいに、百分の一ミリまで。

 

削ってる間は、何も考えなくていい。

 

ただ、ひとつだけ、梶原さんに謝りたい。

 

あの日、チャックが止まったとき、俺はあの人を、化け物を見る目で見た。

 

今の俺は、化け物を殺す道具を作ってる。

 

どっちが化け物なのか、渋谷の地下の暗闇の中じゃ、もう誰にもわからない。

 

千年後に届くものがあるとしたら、たぶん、紙じゃない。

 

鉄と、火薬の匂いだけだ。

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