俺だけレベルアップな件 × 名探偵コナン 【 水篠旬は、米花町へと迷い込む 】 作:冷凍シャケ
ペナルティ・シークエンスが開始されてから数日が経った。
水篠旬の身体には、今のところ何の異常も起きていない。能力が制限されたわけでもなく、突然どこかへ転送されることもない。システムも、それ以上の説明をする気はないらしかった。
それがかえって不気味だった。
ホテルの部屋で『帰還の羅針盤』のレシピを眺めながら、旬は小さく息を吐く。最初の素材である『次元の残滓』は手に入ったが、残り四つについては手掛かりすらない。
ペナルティについても同じだ。
何も起こっていないのか。
それとも、自分の知らないところで既に何かが始まっているのか。
判断する材料がない以上、今はクエストを続けながら警戒するしかなかった。
そんな時だった。
旬の意識に、突然鋭い違和感が走った。
「……?」
言葉ではない。
声でもない。
自分と繋がっている影の一つが、異常なほど強く警戒している。
旬はすぐに目を閉じ、意識をそちらへ向けた。
江戸川コナン。
以前から護衛のため、その影へ潜ませている兵士の反応だった。
普段とは明らかに違う。
位置は米花町の工業地帯。
そして、護衛対象へ危険が迫っている。
かなり切迫している。
旬は立ち上がった。
「……コナン君か」
あの少年なら、自分から危険へ首を突っ込んだ可能性も高い。
だが今回は、そう笑って済ませられる感覚ではなかった。
影がここまで強く反応するということは、既に命に関わる状況に入っている。
旬は立ち上がった。
「……また何かやってるのか」
そして。
コナンの影に潜ませている兵士へ意識を向ける。
「影の交換」
次の瞬間。
旬の姿がホテルの部屋から消えた。
◇
その頃。
コナンは古びた廃工場の中を走っていた。
少し前まで追っていたのは、連続窃盗事件の容疑者だった。蘭や小五郎、警察と共に追跡していたはずが、逃げた男を見失うまいと一人で工場内部へ入り、そのまま他の者たちとはぐれてしまった。
「待て!」
男の背中が角を曲がる。
コナンも続く。
しかし、その先には誰もいなかった。
「……?」
足を止める。
遅れて気づいた。
静かすぎる。
次の瞬間、少し離れた場所で金属の落ちる音が響いた。
ガァン――!
「っ!」
天井付近から錆びた鉄材が落下する。
コナンは寸前で飛び退いた。
「くそっ、罠か!」
犯人は最初から、自分が後を追っていることに気づいていた。
しかも逃走する際、老朽化していた設備の一部を壊したらしい。
嫌な音が。
工場全体へ広がっていく。
ミシッ。
ミシミシッ――。
「まずい……!」
コナンが走り出す。
直後、背後で壁の一部が崩れた。
粉塵が一気に吹き上がり、視界が白く染まる。出口へ戻ろうとするが、来た道にも瓦礫が落ち、完全に塞がれていた。
「ちっ……!」
別の出口を探す。
しかし建物そのものが限界だった。
天井からコンクリート片が落ちる。
鉄骨が軋む。
さらに大きな崩落音。
コナンは腕で顔を庇いながら、僅かに開いている通路へ駆け込んだ。
だが。
その先も。
塞がれていた。
「嘘だろ……」
振り返る。
上を見る。
巨大な鉄骨が。
支えを失い。
ゆっくりと傾き始めていた。
逃げる場所はない。
キック力増強シューズでも。
麻酔銃でも。
どうにもならない。
(……まずいな)
不思議と。
頭は冷静だった。
蘭。
父さんと母さん。
博士。
灰原。
少年探偵団。
いくつもの顔が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
そして。
鉄骨が落ちた。
コナンは反射的に目を閉じた。
轟音。
床が揺れる。
だが。
いつまで経っても。
身体に衝撃は来なかった。
代わりに。
突然、身体が浮いた。
「……っ!?」
誰かの腕に抱え上げられている。
コナンが目を開く。
黒い服。
粉塵の中でも見間違えるはずがない。
「水篠……さん?」
旬だった。
「掴まってろ」
低い声。
次の瞬間。
景色が消えた。
いや。
そう感じただけだった。
旬が地面を蹴った。
それだけで二人の身体は数メートル先まで移動し、直後、先ほどまでいた場所へ巨大な鉄骨が叩きつけられる。
轟音が背後で響いた。
コナンの目が大きく見開かれる。
(なんだ……今の……)
速い。
そんな言葉では足りない。
旬は落ちてくる瓦礫を見てから避けている。
それも。
自分一人ではなく。
コナンを抱えたまま。
再び天井が崩れる。
旬は僅かに身体を傾けるだけで瓦礫をかわし、そのまま床を蹴った。
今度は。
跳んだ。
コナンは言葉を失った。
普通の人間なら助走をつけても届かない高さ。
旬はコナンを片腕で抱えたまま、崩れた壁の隙間へ軽々と飛び上がる。
数秒後。
二人は崩落の中心から離れた場所へ着地していた。
旬がコナンを降ろす。
「大丈夫か?」
「……」
返事がない。
旬が眉を寄せる。
「コナン君?」
「あ……う、うん」
ようやく声が出た。
「怪我は?」
「ない……と思う」
旬が素早くコナンの身体を見る。
大きな怪我はない。
額に小さな擦り傷。
それだけだった。
「ならいい」
旬が立ち上がる。
そのまま去ろうとする。
コナンは我に返った。
「ちょ、ちょっと待って!」
旬が足を止める。
「どうして……」
聞きたいことが多すぎる。
どうしてここにいる。
どうやって自分の居場所が分かった。
今の速度は何だ。
あの跳躍は。
そもそも。
どうやって、この崩れかけた工場の中へ入ってきた。
「どうして俺がここにいるって分かったんだ?」
旬は答えない。
「それに今の……」
コナンは旬を見つめる。
「今の動き、何なんだよ」
子供らしい口調を作る余裕さえなかった。
旬は少しだけ沈黙した。
見られた。
完全に。
今さら『気のせいだ』で済ませるには無理がある。
それでも。
説明するつもりはなかった。
「気にするな」
「気にするなって……!」
「生きてるなら、それでいいだろ」
「そういう問題じゃ――」
そこで。
遠くから声がした。
「コナン君ー!」
蘭だ。
その後ろから複数の足音も聞こえてくる。
旬がそちらを見る。
「すぐ他の奴らが来る」
「待って、水篠さん!」
旬はコナンを見る。
「今日見たことは、好きに考えろ」
「え?」
「ただ、俺のことは話さない方がいい」
「どういう――」
問い終える前に。
旬が歩き出す。
そして。
粉塵の向こうへ入った瞬間。
姿が消えた。
「……」
コナンはしばらく動けなかった。
あれほど近くにいた。
なのに。
また。
消えた。
(何なんだよ……あの人)
以前から。
普通ではないと思っていた。
灰原の前から消えた。
事件の手掛かりを、あり得ないほど正確に見つける。
調べても過去が出てこない。
そして今。
自分の目の前で。
人間には不可能な速度と跳躍を見せた。
それでも。
最も頭に残っているのは。
そこではなかった。
旬は。
自分を助けに来た。
理由も言わず。
見返りも求めず。
ただ。
助けた。
(……また助けられたな)
疑念は。
むしろ増えた。
だが。
同時に。
一つだけ変わったものがあった。
もう。
単純に『危険だから警戒する相手』とは思えなかった。
◇
「コナン君!!」
蘭が駆け込んできた。
次の瞬間には、コナンの身体を強く抱きしめていた。
「もうっ……! 本当に心配したんだから!」
「ご、ごめん蘭姉ちゃん……」
「怪我は!? どこか痛くない!?」
「大丈夫だよ。ちょっと擦っただけ」
遅れて小五郎、目暮、高木、佐藤たちもやってくる。
周囲の惨状を見た小五郎の顔色が変わった。
「おいコナン! お前こんなところまで一人で入りやがって!」
「ごめんなさーい……」
「ごめんなさいで済むか!」
怒鳴ってはいるが。
声には明らかに安堵が混ざっている。
目暮もコナンへ近づいた。
「しかしコナン君……よく無事だったね。この崩れ方では、逃げ道もほとんどなかったはずだが」
コナンの表情が僅かに止まる。
旬の言葉を思い出した。
『俺のことは話さない方がいい』
実際。
あの動きをそのまま説明したところで。
誰が信じる。
いや。
信じられれば。
もっと面倒なことになる。
「えっとね……」
コナンは子供らしい顔へ戻る。
「もうダメだって思った時に、水篠さんが来たんだ」
「水篠さん?」
佐藤がすぐに反応した。
「また彼がいたの?」
「うん。でもね、水篠さんが『そっちならまだ崩れてない』って、安全な方を教えてくれたんだ。それで僕、必死に走って……気づいたらここにいたの」
完全な嘘ではない。
ただ。
最も重要なところを。
全部隠しただけだ。
「またあの兄ちゃんか……」
小五郎が渋い顔をする。
「本当にどこにでも出てくる奴だな」
高木も周囲を見回した。
「でも、水篠さんは?」
「もういないよ」
「……またですか」
高木が苦笑する。
佐藤は笑っていない。
「どうして彼が、こんな工場の中にいたのかしら」
誰も答えられない。
コナンだけは。
知っている。
旬は。
明らかに。
自分を助けるために来た。
◇
その夜。
阿笠博士の家。
コナンはソファに座り、向かいにいる灰原を見ていた。
博士は別の部屋にいる。
今なら。
二人だけで話せる。
「灰原」
「何?」
「今日の工場のことなんだけど……」
灰原が本から目を上げる。
コナンの顔を見た瞬間。
何かあると察したらしい。
「警察に話したこととは違うのね」
「ああ」
コナンは昼間の出来事を話した。
鉄骨が落ちてきたこと。
完全に逃げ道を失ったこと。
その瞬間に旬が現れたこと。
そして。
自分を抱えたまま、崩落する工場内を人間とは思えない速度で抜けたこと。
話を聞き終えた灰原は、しばらく黙っていた。
「……直接?」
「ああ」
「あなたを抱えて?」
「ああ」
灰原の眉が僅かに動く。
コナンは思い出しながら続けた。
「信じられないと思うけど、本当に見たんだ。鉄骨が落ちてくるより速く動いて、俺を抱えたまま何メートルも跳んだ。あれは……」
一度言葉を止める。
「人間の動きじゃない」
灰原は否定しなかった。
以前。
自分も旬の異常さを目の前で見ている。
男二人をほとんど何もさせず制圧したこと。
そして。
目の前から消えたこと。
「そう」
灰原が静かに言う。
「やっぱり、私たちが思っていた以上に普通じゃなかったみたいね」
「驚かないんだな」
「驚いてるわよ。でも、あの人なら何が出てきてもおかしくない気がしてきただけ」
「それ褒めてねーだろ」
「褒めてないもの」
いつもの調子。
だが。
コナンの表情は戻らなかった。
「それだけじゃない」
灰原が見る。
「俺があそこにいることを、あの人は知ってた」
「……連絡したの?」
「してない。電話する暇なんてなかった。蘭たちだって、俺が工場のどこまで入ったのか分かってなかったはずだ」
灰原の目が僅かに細くなる。
廃ビルの時と同じ。
旬は。
誰にも知らされていないはずの危険を察知し。
正確な居場所まで辿り着いた。
「監視されている、と考える?」
「それも考えた。でも……」
コナンは俯く。
もし旬が常に自分たちを監視しているなら。
確かに不気味だ。
ただ。
その監視のおかげで。
今日は命を救われた。
「分かんねえんだよ」
「何が?」
「水篠さんが、何を考えてるのか」
コナンはソファへ背を預ける。
「最初は、危険な奴かもしれないって思ってた。今も正体は分からねえし、あの力だって危険なのは間違いない。でも……俺を殺すつもりなら、今日わざわざ助けに来る必要なんてない」
「そうね」
「それに、灰原の時もそうだった」
灰原は何も言わない。
「俺たちが危ない時、あの人は助けてる」
短い沈黙。
やがて灰原が本を閉じた。
「だから信用するの?」
コナンは少し考える。
「……まだ、そこまでは言わねえよ」
「そう」
「でも」
コナンは顔を上げる。
「少なくとも、今すぐ敵だと決めつける気はねえよ」
灰原は。
少しだけ目を細めた。
「あなた、随分あの人に甘くなったわね」
「命助けられたんだから仕方ねえだろ」
「それで正体を調べるのはやめる?」
「それとこれとは別だ」
即答だった。
即答だった。
灰原が小さく笑う。
「でしょうね」
コナンも苦笑する。
ただ。
今日の出来事で。
水篠旬という存在への見方が。
確実に変わった。
何者か分からない。
何のために事件へ関わっているのかも分からない。
どうして自分たちの危険を察知できるのかも。
分からない。
けれど。
少なくとも。
自分たちを見捨てる人間ではない。
今は。
それだけで十分だった。
その一方で。
二人の知らない山奥では。
この世界に存在するはずのないゲートが。
静かに。
ダンジョンブレイクへの時間を刻み続けていた。