俺だけレベルアップな件 × 名探偵コナン 【 水篠旬は、米花町へと迷い込む 】 作:冷凍シャケ
阿笠博士が襲われた事件から数日が経過した。博士の体調はすっかり回復していたが、「見えない敵」の存在は、コナンと灰原の心に重い影を落としていた。
特に灰原は、博士の服に残された穴と、傷一つない身体のことが頭から離れなかった。博士を助けたのが水篠旬なのかどうかは分からない。ただ、あの男が何かを知っていることだけは間違いないように思えた。
その日、灰原は調べ物のために訪れていた図書館からの帰り道、一人で夕暮れの公園を歩いていた。人通りは少なく、聞こえるのは木々が風に揺れる音だけだった。
その時。
不意に、肌を粟立たせるような悪寒が走った。
「……?」
灰原が足を止める。
姿は見えない。
けれど。
すぐそばに何かがいる。
博士が話していた「見えない何か」が、頭をよぎった。
(……まさか、博士を襲ったのと同じ……?)
咄嗟に身構えるが、相手の姿は見えない。ただ、明確な殺意だけが、冷たい圧力となって灰原を包み込んでいた。
逃げ場を探す。
だが、周囲には身を隠せる場所も少ない。
空気が、陽炎のように僅かに歪んだ。
次の瞬間、鋭い風切り音が走る。
灰原が反射的に身体を引くと、目の前を何かが通り過ぎ、背後にあった木の幹へ深い傷が刻まれた。
「……っ!」
見えない。
それなのに、確かに何かがいる。
そして。
自分を殺そうとしている。
もう一度、目の前の空間が揺らぐ。
絶体絶命かと思われた、その瞬間。
「――そこまでだ」
低い声が響いた。
灰原が振り向く。
すぐ隣に、いつの間にか水篠旬が立っていた。
彼がどのように現れたのか、灰原には全く分からなかった。ただ、旬が現れた瞬間、それまで周囲を満たしていた見えない敵の殺意が、明らかに揺らいだ。
旬は灰原を背に庇うように立ち、何もない空間を冷たい目で睨みつける。
「……姿を見せろ」
返事はない。
だが旬には、そこに敵がいることが分かっているらしい。
「隠密は、解け」
低く、静かな声だった。
同時に、旬の纏う気配が変わった。
その強大な力のほんの一端が、不可視の襲撃者へ向けて解放される。
灰原は息を呑んだ。
以前、路地裏で助けられた時にも、旬から人間とは思えないほど強烈な圧力を感じた。
だが今回は。
それ以上だった。
そして、その威圧が自分ではなく、目の前の「何か」だけへ向けられていることも分かった。
ピシッ、と空気が軋む。
何もないはずの空間が大きく揺らぎ、そこにほんの一瞬だけ異形の姿が浮かび上がった。
鋭い爪。
人間とは異なる長い四肢。
禍々しい姿をした、明らかにこの世界の生物ではない何か。
灰原の目が見開かれる。
(あれが……博士を……!?)
姿を現したのは一瞬だった。
圧倒的な上位者の存在を感じ取ったのか、不可視のモンスターは再び姿を消し、そのまま公園の奥へ向かって逃走していった。
旬は追わなかった。
ただ、その気配が完全に遠ざかるまで、静かに見送る。
「……行ったか」
そう呟いて、ようやく灰原の方へ振り返った。
灰原はまだ僅かに震えていた。
それでも。
旬から目を逸らすことはなかった。
「今のは、何……?」
旬は黙っている。
「博士を襲ったのも、あれなの? あなた、やっぱり知っていたのね!? 一体、何が起こっているの!? 説明して!」
旬は、灰原の真剣な眼差しを真正面から受け止めた。
そして。
しばしの沈黙の後、重々しく口を開いた。
「……あれは、俺の世界の住人だ。モンスター……と、俺たちは呼んでいる」
灰原の表情が変わった。
これまで旬がどこから来たのかについて、彼自身から明確な答えを聞いたことはない。
だからこそ。
その言葉の意味は大きかった。
「あなたの世界の……モンスター……?」
灰原の声が僅かに震える。
「どうして、それがこの世界に……? まさか、あなたが連れてきたわけじゃ……ないでしょうね!?」
「違う」
旬はきっぱりと否定した。
「俺も、なぜ奴らがこの世界に現れ始めたのか、その全貌はまだ掴めていない。だが……」
一度。
言葉を切る。
「原因の一端は、俺にあるのかもしれない。俺がこの世界に来たことと、無関係ではないだろう」
ペナルティのことまでは話さない。
だが、自分がこの世界へ来たことと、モンスターの出現が無関係ではない可能性は、旬自身も既に疑っていた。
「あなたに……原因が……?」
灰原の表情が硬くなる。
そして。
最も聞かなければならない問いを口にした。
「じゃあ、あなたは……一体……私たちの、敵なの……?」
旬は、灰原の目を真っ直ぐに見据えた。
「まだ、君に全てを話すことはできない。状況が、それを許さない。だが、時が来れば、必ず話す。……ただ、これだけは言っておく」
灰原は黙っている。
「あれは、俺が元いた世界の脅威だ。そして、奴らがこの世界に現れた以上、それは俺が解決しなければならない問題だ」
旬の声は静かだった。
けれど。
そこに迷いはない。
「この世界も……君も、君たちが大切にしている日常も……俺が護る」
灰原の瞳が僅かに揺れる。
「俺は、君たちの敵ではない。それだけは……信じてほしい」
それ以上。
旬は何も言わなかった。
灰原も、すぐには答えなかった。
目の前の男は、計り知れない力を持っている。
何を考えているのか分からないことも多い。
今まで自分のことをほとんど語らず、何度問いかけても核心から距離を置いてきた。
けれど。
路地裏で、自分を助けた。
崩落した廃工場では、コナンを助けた。
そして。
博士が襲われたあの夜にも。
おそらく。
今もまた。
見えない怪物から、自分を守るために現れた。
疑問は消えていない。
見えない敵への恐怖も。
旬への警戒心さえ、全てなくなったわけではない。
それでも。
「私たちの敵なの?」
その問いに。
旬は迷わず「違う」と答えた。
灰原は、しばらく旬の目を見つめていた。
嘘を見抜こうとするように。
その奥にあるものを確かめようとするように。
やがて。
小さく。
しかし、はっきりと。
一度だけ頷いた。
完全に理解したわけではない。
全てを信じたわけでもない。
ただ。
水篠旬という男が。
自分たちを害する側ではない。
そして。
少なくとも今は。
自分たちを守ろうとしている。
そのことだけは。
信じてもいいのかもしれない。
夕暮れの公園に、再び静けさが戻る。
だが。
その日。
灰原哀は初めて知った。
自分たちの日常のすぐ隣に。
これまで存在すら知らなかった「モンスター」という脅威が。
既に入り込んでいることを。