俺だけレベルアップな件 × 名探偵コナン 【 水篠旬は、米花町へと迷い込む 】 作:冷凍シャケ
日が沈み、住宅街を薄暗い闇が包み始めていた。
阿笠博士に頼まれた買い物を終えた灰原哀は、小さな袋を片手に、一人で博士の家へと戻っていた。
昼間なら人通りのある道も、この時間になると静かで、聞こえるのは遠くを走る車の音と、自分の足音くらいだった。
灰原はいつものように淡々と歩いていた。
だが、ある角を曲がったところで足取りがわずかに変わった。
「……」
背後に誰かいる。
最初は偶然、同じ方向へ歩いているだけかと思った。だが、一度曲がってもまだいる。さらに道を変えても、足音は離れなかった。
(……つけられてる)
灰原は振り返らず、顔にも出さないまま歩く速度を少し上げる。
黒ずくめの組織――。
一瞬、最悪の可能性が頭をよぎったが、すぐに否定する。
あの独特の恐怖。組織の人間が近くにいる時に感じる、身体の奥から這い上がってくるような感覚がない。
(組織じゃない……)
だからといって、安全という意味ではなかった。
相手が何者なのかは分からない。ただ、自分を追っていることだけは確かだった。
灰原は人通りのある大通りへ出ようとする。
しかし、その手前の細い路地へ差しかかった時、前方から男が一人現れた。
「……」
灰原が足を止める。
背後にも、もう一人。
挟まれた。
二人とも、明らかに善意で近づいてきた顔ではない。
「よう、お嬢ちゃん」
前にいる男が笑った。
「ちょっと付き合ってもらおうか」
灰原は黙ったまま周囲を見る。
助けを呼べる距離に人はいない。携帯電話へ手を伸ばそうにも、相手との距離が近すぎる。
(まずいわね……)
本来の自分なら、もう少し選択肢はあったかもしれない。
だが今の身体は小学生。力で大人の男二人をどうにかできるはずもない。
それでも、灰原は表情を崩さなかった。
「小学生一人を二人がかりで囲んで、ずいぶん立派な大人ね」
「……あ?」
「褒めてないわよ」
男の顔が歪む。
「ガキが……!」
腕が伸び、灰原は咄嗟に後ろへ下がった。
だが、背中が壁に触れる。
逃げ場がない。
男の手が灰原の腕を掴もうとした、その瞬間だった。
「――やめろ」
低い声。
男の手が止まり、灰原も顔を上げる。
路地の入り口、街灯の光が届かない場所に誰か立っている。
黒い服に長身。
ゆっくりと闇の中から歩いてくるその顔を見た瞬間、灰原の瞳が僅かに見開かれた。
(……水篠旬)
何度か事件現場で見かけた男。
コナンがずっと気にしている人物であり、灰原自身も初めて会った時から、どうしても警戒心を拭えなかった相手。
男たちが旬を睨む。
「あぁ? なんだテメェ」
旬は答えず、ただ男たちを見る。
「関係ねぇ奴は消えろ!」
それでも旬は動かない。
「聞こえなかったのか?」
旬が言った。
「その子から離れろ」
声は大きくない。怒鳴ってすらいない。
なのに、灰原はぞくりとした。
先ほどまで感じていた男たちへの恐怖とは、まるで種類が違う。
静かだった。
あまりにも静かで、だからこそ恐ろしい。
男の一人も何かを感じ取ったらしく、一瞬怯んだ。
だが、仲間の前で引けなくなったのか。
「舐めてんじゃねぇぞ!」
旬へ殴りかかる。
灰原は反射的に目を見開いた。
次の瞬間――男が倒れていた。
「……え?」
何をしたのか、ほとんど見えなかった。
旬はほんの僅かに身体を動かしただけだった。
殴りかかってきた腕を避け、手首を取り、そのまま一度、男の身体を崩した。
それだけに見えた。
だが男は地面に倒れ、苦痛に顔を歪めながら起き上がれない。
「て、テメェ!」
もう一人が懐からナイフを取り出した。
「……!」
灰原の表情が変わる。
だが旬は、ナイフを見ても眉一つ動かさなかった。
むしろ、その瞬間だった。
空気が変わった。
ほんの僅か、旬が殺気を滲ませる。
それだけなのに、ナイフを持った男の顔から血の気が引いた。
「……っ」
握っている手が震えている。
まるで、目の前にいる相手が自分とはまったく違う何かだと、身体だけが先に理解してしまったかのように。
旬が一歩進む。
男は一歩下がった。
さらに旬が進む。
「ひ……」
ナイフが地面へ落ち、金属音が静かな路地に響く。
「ひぃっ……!」
男は踵を返し、そのまま走り去った。
倒れていた仲間すら置き去りにして。
旬は追わず、ただ逃げていく男の背中を無表情に見ていた。
その横顔を見て、灰原は言葉を失っていた。
強い。
そんな言葉だけでは説明できない。
空手が強いとか、格闘技が得意とか、そういうものとは何かが違う。
相手は旬とまともに戦う前に、恐怖だけで逃げ出した。
(何なの……この人)
路地が静かになる。
旬はようやく灰原へ視線を向けた。
さっきまでの、人を凍りつかせるような気配は既に消えている。
「怪我は?」
それだけだった。
灰原は一瞬遅れて答える。
「……ないわ」
「そうか」
旬はそれ以上何も言わず、倒れている男の様子を確認する。
死んではいない。意識もある。
ただ、しばらくまともには動けないだろう。
旬はそのまま立ち去ろうとした。
「待って」
灰原が呼び止める。
旬の足が止まった。
灰原はその背中を見つめ、迷った末に口を開く。
「……あなた」
旬は振り向かない。
「何?」
「何者なの?」
沈黙。
灰原は続ける。
「普通じゃないわよね。今の動きもそう。あの男、あなたに何もされていないのに怯えて逃げた」
旬が僅かに横顔を向ける。
その目を見た瞬間、灰原は無意識に息を止めた。
暗い。
だが、ただ冷たいだけではない。
もっと深い場所に、何かがいる。
そんな錯覚。
「知らない方がいい」
旬はそれだけ言った。
「……」
「俺のことは詮索するな」
静かな声だった。
脅しているわけではない。
だが、冗談でもないことはすぐに分かった。
灰原は旬を見つめた。
普通なら、そこで引いたかもしれない。
だが彼女自身、普通とは言い難い人生を送ってきた。
本来の名は宮野志保。
かつて黒ずくめの組織で、シェリーというコードネームを与えられていた科学者。
APTX4869。
工藤新一と、自分自身の身体を幼児化させた薬を研究していた人間でもある。
だからこそ灰原は、人が隠し事をしている時の空気をよく知っていた。
「……私たちに危害を加えるつもりはある?」
旬の視線が灰原へ向く。
少しだけ間があった。
「ない」
短い。
迷いもない。
それだけで、不思議と嘘には聞こえなかった。
「そう」
灰原は僅かに目を伏せる。
「なら……今日のところは信じてあげる」
旬は特に反応しない。
灰原は少しだけ皮肉っぽく笑った。
「助けてもらった人間が言う台詞じゃないかもしれないけど」
「別にいい」
旬は再び歩き始める。
「待って」
また止まる。
「水篠旬……だったわね」
「ああ」
「一つだけ聞いていい?」
返事はない。
それを許可だと解釈して、灰原は言った。
「どうして助けたの?」
旬はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「目の前にいたからだ」
それだけ。
灰原が少し驚いた顔をする。
「……それだけ?」
「ああ」
そして今度こそ、旬は歩き出した。
数歩、闇の中へ進む。
「……!」
灰原が瞬きをした。
その瞬間、旬の姿が消えた。
「え……?」
足音もない。
気配もない。
ほんの一瞬前まで確かにそこにいたのに、今は最初から誰もいなかったかのように、路地には灰原と動けずにいる男だけが残されている。
「……消えた?」
灰原はしばらく、旬がいた場所を見つめ続けた。
コナンから聞いたことがある。
初めて水篠旬と会った時、目の前から突然姿が消えた、と。
その時は、コナンが見失っただけではないかと心のどこかで考えていた。
だが今、自分も見た。
見失ったのではない。
隠れたのでもない。
突然、存在そのものが消えた。
(……何なのよ)
灰原は自分の腕を抱く。
怖くない。
そう言えば、嘘になる。
あの男は怖い。
黒ずくめの組織とは違う意味で。
何を考えているのか、どこから来たのか、どんな力を持っているのか、何一つ分からない。
そして、それだけの力がありながら、なぜ何度も事件に現れ、人を助けるのかも分からない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
水篠旬は自分を助けた。
見返りも求めず、名前すら聞かず、ただ『目の前にいたから』という、それだけの理由で。
(組織の人間じゃない……)
それだけは、なぜか強く思えた。
ジンたちとは違う。
組織の人間が持つ、冷たく粘つくような悪意とはまるで違う。
旬から感じたものは、もっと得体が知れず、もっと大きい。
まるで、人間の形をしているだけの何か。
そんな不吉な想像すら頭をよぎる。
それでも。
「……助けられちゃったわね」
灰原は小さく呟いた。
恐怖、警戒、疑念。
そして、ほんの僅かな安心。
矛盾した感情が胸の中に残っている。
水篠旬。
彼が何者なのか、灰原にはまだ分からない。
ただ、これまでのように単純に『危険な存在』とだけ見ることは、もうできそうになかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
まだまだ物語は続きます。
水篠旬とコナンたちが、これからどう関わっていくのか――ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。
感想や気になったところなどあれば、ぜひ聞かせてください!