俺だけレベルアップな件 × 名探偵コナン 【 水篠旬は、米花町へと迷い込む 】 作:冷凍シャケ
翌日。
阿笠博士の家を訪れたコナンは、リビングへ入ってすぐに違和感を覚えた。
灰原哀が、ソファに座ったまま考え込んでいる。手元には雑誌が開かれているが、ほとんど読んでいる様子はない。ページも、さっきから一度もめくられていなかった。
「……おい、灰原」
「何?」
返事はいつも通り。だが、視線は雑誌へ向いたままだ。
コナンは眉をひそめる。
「何かあったのか?」
「別に」
「別にって顔じゃねーだろ」
「失礼ね。いつもこんな顔よ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
コナンは灰原の向かいへ座る。阿笠博士は奥の部屋で何やら作業をしているらしく、この場には二人しかいなかった。
少しの沈黙の後、コナンは灰原の顔をじっと見る。
「昨日、何かあっただろ?」
「……」
灰原の視線が一瞬だけ止まる。ほんの僅かな変化だったが、それで十分だった。
「やっぱりな」
「……相変わらず嫌なところばかり鋭いわね」
灰原が小さく息を吐く。
「誰に会った?」
「どうしてそうなるのよ」
「お前がこんなふうに考え込む時は、大体ろくなことがねぇからな」
コナンは腕を組み、少し迷ってから一つの名前を口にした。
「……水篠旬か?」
灰原の指が止まった。
コナンの目が鋭くなる。
「当たりか」
「……」
「会ったんだな?」
灰原はしばらく黙っていた。
昨日の夜。薄暗い路地。自分を囲んだ男たち。そして、闇の中から現れた黒い服の男――水篠旬。
一人を一瞬で倒し、もう一人をほとんど何もせずに逃げ出させた。あの時の空気を思い出すだけで、今でも僅かに背筋が冷える。
「……会ったわ」
ようやく灰原が答えた。
「やっぱり!」
コナンが身を乗り出す。
「何があった?」
「声が大きい」
「あ……」
コナンは慌てて声を落とす。
「で?」
「……帰り道に、少し面倒な連中に絡まれたの」
コナンの顔色が変わった。
「は?」
「大したことにはならなかったわ」
「大したことないって、お前――」
「水篠旬が来たから」
コナンがぴたりと黙る。
「……あいつが?」
「ええ」
灰原は淡々と説明する。
「男が二人。私を囲んでた。そこに、いつの間にか現れたのよ」
「いつの間にか?」
その言葉にコナンが反応した。
「それで?」
「一人は殴りかかっていったけど……あっという間だったわ」
「どうやった?」
「よく見えなかった」
「お前にも?」
「ええ」
コナンの表情が変わる。
灰原は格闘技の専門家ではない。だが、人の動きを観察する能力は低くない。その灰原が『よく見えなかった』と言う。
「もう一人は?」
コナンが聞くと、灰原の表情が少しだけ曇った。
「……逃げたわ」
「水篠さんが倒したのか?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
灰原は答えるまでに少し時間がかかった。
「あの人に……見られただけ」
「……は?」
「正確には分からないわ。ただ、水篠旬が少し近づいただけで、男の方が怯え始めたの。ナイフまで持っていたのに、震えて、武器を落として、そのまま逃げた」
「脅したとか?」
「少なくとも、私には何も聞こえなかった」
灰原は昨日の光景を思い出す。
暗い路地。無言で立つ旬。そして、まるで捕食者と向き合ってしまった動物のように怯えていく男。
「あの人……何かしたと思う」
「何かって?」
「分からないから言ってるのよ。でも、普通じゃない」
それは断言だった。
コナンは無意識に拳を握る。自分も何度もそう感じている。
初めて会った日、忽然と姿を消した。宝石店では銃の向きが不自然に変わった。事件現場では誰も見つけられなかった証拠を、まるで最初からそこにあると知っているように発見した。そして今度は、灰原の目の前で大人の男を一瞬で倒した。
「灰原」
コナンは声を低くする。
「お前、あいつのこと……組織の人間だと思うか?」
その質問に、灰原はすぐには答えなかった。
黒ずくめの組織。自分がシェリーとして所属していた場所。ジン、ウォッカ、ベルモット。
組織に属する人間と接した時、灰原は時折、理屈では説明できない独特の恐怖を感じることがある。だが、水篠旬から感じるものはそれとは違った。
「……違うと思う」
コナンが顔を上げる。
「本当か?」
「断言はできないわよ。ただ……組織の人間から感じるものとは違う」
「違う?」
「ええ。あの人から感じるのは……もっと別のもの」
「別って?」
「上手く説明できない」
少し苛立ったように答える。自分でも、うまく言葉にできないのだ。
「組織の連中から感じるのは、人間の悪意とか殺意とか……そういうものなのよ。でも、水篠旬は違う」
灰原の脳裏に、路地に立っていた旬の姿が浮かぶ。
「もっと……冷たい。静かで、深く、底が見えない」
そして、灰原は言った。
「死の匂いがする」
コナンの目が僅かに見開かれた。
「死の……匂い?」
「比喩よ。でも、他に言い方が思いつかない。何人殺したとか、そういう話をしてるんじゃないわ」
灰原はコナンを見る。
「もっと根本的に……あの人のすぐ近くに、ずっと『死』があるような感じがするの」
ぞっとするような表現。だが、昨夜、旬を目の前にした灰原が本当に感じたものだった。
コナンは考え込む。
「それじゃあ……組織より危険ってことか?」
「さあ」
「さあって……」
「危険かどうかと、悪人かどうかは別でしょう?」
灰原は静かに言う。
「昨日、彼は私を助けた。見返りも求めなかったし、私が誰なのかも聞かなかった」
それどころか、自分から話をすることさえほとんどなかった。
『怪我は?』
『知らない方がいい』
『俺のことは詮索するな』
『目の前にいたからだ』
口にした言葉は、その程度。
「理由を聞いたら、『目の前にいたから』って」
コナンが少しだけ驚く。
「それだけ?」
「それだけ」
灰原は僅かに苦笑した。
「だから困ってるのよ」
「何が?」
「分かりやすい悪人なら、警戒するだけで済むでしょう?」
だが、水篠旬は違う。
怖い。得体が知れない。近づくべきではない。
そう思う一方で、彼の行動だけを見るなら、今のところ人を助けている。
「少なくとも、理由もなく誰かを傷つける人間には、今のところ見えないわ」
「今のところ、か」
「当然でしょ。数回会っただけの人間を、全面的に信用するほど私はお人好しじゃないもの」
「そりゃそうだな」
コナンもそこには同意した。
「ああ、そうだ」
灰原が何でもないことのように付け加える。
「帰り際に、消えたわ」
「……」
コナンの動きが止まった。
「今、何て言った?」
「だから、目の前から消えたの」
「……!」
「あなたが前に言ってたでしょう? 初めて水篠旬と会った時、一瞬で姿が消えたって」
灰原は僅かに視線を逸らす。
「正直、あなたが見失っただけじゃないかと思ってた」
「おい」
「でも、昨日、私も見た」
灰原の表情から冗談が消える。
そこにいた。確かに、数メートル先を歩いていた。それなのに、ほんの一瞬で、姿も足音も気配すら完全に消えた。
「隠れたとか?」
「隠れる場所なんてなかった」
「走って逃げた?」
「あなた、私を馬鹿にしてる?」
「……だよな」
コナンは黙り込んだ。
初めて、自分以外の人間が同じものを見た。つまり、あの日、自分が見た現象は気のせいではなかった。
(水篠旬……何なんだ、本当に)
「それと、一つ忠告されたわ」
灰原が言った。
「忠告?」
「『俺のことは詮索するな』」
コナンの表情がさらに険しくなる。
「……本人が?」
「ええ」
「理由は?」
「教えてくれると思う?」
「……思わねぇ」
灰原は小さく息を吐き、コナンを見る。
「だから、あなたも深入りしない方がいいわよ」
「……」
「江戸川君」
「分かってるよ」
コナンが答えると、灰原の目が細くなる。
「嘘ね」
「何が」
「その顔」
「どんな顔だよ」
「『余計に気になった』って顔」
「……」
図星だった。
コナンは視線を逸らす。
「だってよ……」
水篠旬。
公的な素性はほとんど分からない。異常な身体能力。説明できない現象。そして、事件のたびに解決へ繋がる何かを示す。
「ここまで分からないことだらけで、放っておけるかよ」
「ほらね。悪い癖」
灰原が呆れたように言う。
「探偵の性ってやつだ」
「便利な言葉ね」
「でも、無茶はしねぇよ」
コナンは真剣な顔に戻る。
「信用できない台詞ランキングがあったら、上位に入りそうね」
「うるせぇ」
灰原はほんの少しだけ笑ったが、すぐにその表情が戻った。
「本当に気をつけて」
「……」
「私にも分からないのよ。あの人が、何なのか」
人間なのか、そうでないのか。そこまで口にするのは、さすがに馬鹿げている。そう思う。
なのに、昨夜、闇の中に立っていた旬を思い出すと、その考えを完全には否定できなかった。
「分かった」
コナンは今度は少し真面目に頷く。
だが、調べるなとは言わなかった。灰原もそれ以上は言わなかった。彼の性格をよく知っているからだ。
謎を見つけた。答えがない。だから、調べる。それが工藤新一という人間だった。
そして今、その探偵の前に、今まで出会ったどんな事件とも違う一つの巨大な謎がある。
――水篠旬。
どこから来たのか。何を目的としているのか。なぜ事件の鍵を知っているのか。そして、人間には説明できないような力を、なぜ持っているのか。
分からない。何も分からない。
だからこそ、江戸川コナンは知りたくなった。
灰原の警告が正しいと理解していても、その好奇心を止めることはできなかった。
一方、灰原もまた同じ男のことを考えていた。ただ、コナンとは少し違う。
真実を暴きたいわけではない。むしろ、触れない方がいい。そう思っている。
それでも、頭から離れない。
あれほど恐ろしい存在なのに、なぜ自分を助けたのか。そして、あの一言。
『目の前にいたからだ』
何の含みもなく、当然のことのようにそう言った。
灰原は静かに目を伏せた。
水篠旬。
彼に対する印象は、昨日までとは少しだけ変わっていた。
恐ろしい。危険。得体が知れない。
それは今も変わらない。
ただ、そこに一つだけ別の言葉が加わっていた。
――少なくとも、自分の敵ではないのかもしれない。
今は、まだ、それだけだった。
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