俺だけレベルアップな件 × 名探偵コナン 【 水篠旬は、米花町へと迷い込む 】 作:冷凍シャケ
水篠旬――。
その名前は、ここ最近ずっと江戸川コナンの頭から離れなかった。
最初に出会った時、何の遮蔽物もない場所で忽然と姿を消した。
宝石店では、人質へ向けられた拳銃が不可解な方向へ逸れた。その直前、水篠旬は確かに犯人を見ていた。
マンションの密室事件では、自分ですら最初は見落としていた証拠を見つけた。その後の連続脅迫事件でも、東都大学でも、百貨店の爆弾事件でも同じだった。
旬自身が推理を披露するわけではない。事件の中心に立とうとするわけでもない。
ただ、いつも決定的な何かがある場所に気づき、それとなく警察や自分たちへ知らせてくる。
まるで――そこに何があるのか、最初から知っているかのように。
そして昨日、灰原からさらに不可解な話を聞いた。
大人の男を一瞬で制圧したこと。ナイフを持ったもう一人の男が、旬に近づかれただけで怯え、武器を捨てて逃げたこと。そして最後には、灰原の目の前から完全に姿を消したこと。
(やっぱり、俺が見たのも気のせいじゃなかったんだ)
初めて旬と出会った日のことを思い出す。
あの時も、旬は一瞬で消えた。見失ったのではない。
灰原も同じ現象を見たというのなら、それはもう偶然では片づけられない。
どうやっているのか。なぜ、そんなことができるのか。
考えれば考えるほど、分からないことばかり増えていく。
さらに灰原は言った。
水篠旬は黒ずくめの組織とは違う。けれど、普通でもない。
そして――。
『死の匂いがする』
比喩だとは言っていた。それでも、長いあいだ組織の中で生きてきた灰原が、そんな言葉を使った相手だ。簡単に無視することなどできない。
しかも旬自身からは、『俺のことは詮索するな』と忠告されている。
普通なら、そこで距離を置くべきなのだろう。
だが。
「……そんなこと言われたら、余計気になるだろ」
コナンは小さく呟いた。
謎がある。それも、自分の目の前に。
しかも、ただ正体不明なだけではない。旬は何度も事件へ関わっている。
今のところ被害を出す側ではなく、むしろ人を助けている。それでも、何の目的でそんなことをしているのかはまったく分からない。
危険人物なのか。それとも、別の事情があるのか。
少なくとも、そのくらいは確かめておきたかった。
そのために、まずコナンが向かったのは、毛利探偵事務所の一階――喫茶ポアロだった。
「いらっしゃい、コナン君」
カウンターの向こうから、安室透がいつもの爽やかな笑顔を向けてくる。
「今日は一人かい?」
「うん。蘭姉ちゃんたちは買い物」
「そうなんだ。何か飲む?」
「じゃあ、オレンジジュース!」
「はいはい」
安室がジュースを用意している間、コナンは頭の中で質問を組み立てる。
安室透。
表向きは喫茶店員で、私立探偵。そして毛利小五郎の弟子。
しかし、その正体は警察庁公安に所属する降谷零。さらに黒ずくめの組織には、バーボンというコードネームで潜入している。
人間の素性を調べるという点では、これ以上ない相手だった。
安室がグラスをカウンターへ置いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、安室さん!」
コナンは一口飲んでから、何でもないことのように尋ねた。
「ねえ、安室さん」
「ん?」
「水篠さんって知ってる?」
グラスを拭いていた安室の手は止まらない。表情にも変化はなかった。
「水篠さん?」
「ほら、この前の宝石店の事件にいた、背が高くて黒い服のお兄さん!」
「ああ。水篠旬さんだったかな」
「うん。最近、よく事件現場で会うんだ」
「そうなのかい?」
安室は驚いたような顔をしてみせる。
コナンは子供らしい笑顔のまま続けた。
「安室さんって探偵でしょ? 何か知らないかなーって」
「どうして彼のことが気になるんだい?」
質問を質問で返された。
(やっぱり簡単には教えてくれないか)
「だって、ちょっと変わった人なんだもん」
「変わった人?」
「この前もね、誰も気づかなかったものをすぐ見つけたんだよ。百貨店の爆弾も、水篠さんが最初に気づいたんだよね?」
「ああ、そうだったね」
「すごいよね。どうやって分かったのかな?」
安室は少しだけ考えるような仕草をした。
「本人は、音が聞こえたと言っていたけどね」
「安室さんは、それ信じてる?」
ほんの一瞬、二人の視線が合った。
コナンは無邪気な子供の顔。安室も穏やかな笑顔。
けれど、互いに相手の反応を見ていた。
「どうだろうね」
先に安室が視線を外した。
「世の中には、僕たちが思っている以上に勘の鋭い人もいるから」
「ふーん……」
「ただ」
安室が続ける。
「コナン君」
「なに?」
「知らない大人のことを、一人であまり調べ回らない方がいいよ」
声は優しい。だが、ただの子供への注意ではない。それくらいは、コナンにも分かった。
「水篠さんって、危ない人なの?」
「そういう意味じゃないよ」
安室は微笑む。
「まだ何も分からない、というだけさ」
その言葉に、コナンは引っ掛かった。
「安室さんも、水篠さんのこと調べたの?」
一瞬だけ、安室の瞳が鋭くなる。
だが、すぐいつもの笑顔へ戻った。
「さて、何のことかな?」
(やっぱり……)
コナンは確信した。
安室も、水篠旬を気にしている。
おそらく公安として何かしら調べたのだろう。それでも、コナンへ話せるほどの情報はないのか。あるいは、情報はあっても話す気がないのか。
どちらにせよ、これ以上ここで聞いても答えは出ない。
「そっか。じゃあ、いいや!」
コナンはあっさりと引いた。
「そう?」
「うん!」
オレンジジュースを飲みながらも、頭の中では別のことを考える。
安室が言った。
『まだ何も分からない』
もし公安の人間である安室まで、水篠旬の正体を掴めていないのだとしたら。
(本当に何者なんだ、あの人……)
カウンターの向こうでは、安室もまたコナンに気づかれないよう思考を巡らせていた。
水篠旬。
最近になって、米花町周辺で姿を見せ始めた男。
分かっていることは驚くほど少ない。名前。現在の滞在先。そして、いくつかの事件現場で目撃されていること。
公安として照会をかけても、過去へ遡れば遡るほど情報が見えなくなる。
偽名や身分偽装。
最初に考えるべきは、当然そこだ。だが、それにしては不自然だった。
何より、宝石店で見た、あの拳銃の動き。あれを偶然だけで片づけるには、引っ掛かるものがある。
そして今、江戸川コナンもまた、彼を調べようとしている。
(コナン君は、僕が知らない何かを既に見ているのかもしれないな)
安室はそう考えたが、顔には出さなかった。
◇
ポアロを出たコナンは、歩きながら考えていた。
安室から決定的な情報は得られなかった。けれど、一つだけ分かったことがある。
自分だけではない。
安室透――降谷零もまた、水篠旬という存在を警戒している。
それなら、もう一人、話を聞ける相手がいる。
コナンは人通りの少ない場所まで移動すると、スマートフォンを取り出した。登録されている番号を選び、通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音。
やがて、低く落ち着いた男の声が聞こえてきた。
『……もしもし』
「赤井さん?」
『ああ。どうした、ボウヤ』
赤井秀一。
FBI捜査官。
高い推理力と戦闘能力を持ち、かつて黒ずくめの組織へ潜入していた男。現在は死を偽装し、沖矢昴という姿で生活している。
そして東都大学で、既に水篠旬本人とも顔を合わせていた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
『何だ?』
「水篠旬って人のこと」
電話の向こうが、ほんの少し静かになる。
『……彼か』
コナンはその反応を聞き逃さなかった。
「知ってるんだね」
『一度会った。東都大学でな』
「うん。世良のところにいたんでしょ?」
『ああ』
「赤井さんから見て、あの人ってどうだった?」
『ずいぶん曖昧な質問だな』
「じゃあ……普通の人に見えた?」
わずかな沈黙。
『少なくとも、平凡な一般人には見えなかったな』
「やっぱり……」
『だが、それ以上を断定する材料はない』
赤井らしい答えだった。見た印象だけで、相手の正体を決めつけることはしない。
コナンは、昨日灰原から聞いた話を説明した。
灰原が男たちに絡まれたこと。そこへ旬が現れ、大人の男を一瞬で制圧したこと。もう一人は旬へ近づかれただけで怯え、ナイフを落として逃げ出したこと。そして、最後に灰原の目の前から突然姿が消えたこと。
赤井は途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
「それでね」
コナンは続ける。
「赤井さんの方で、何か分からないかなと思って」
『経歴についてか?』
「うん」
『少し待て』
電話の向こうで、僅かな物音がした。
少しして、赤井の声が戻る。
『大学で会った後、俺も個人的に少し調べてみた』
「何か分かった?」
『いや。むしろ逆だ』
「逆?」
『確認できる情報が、あまりにも少ない』
コナンの表情が変わる。
『水篠旬という名前で、日本国内に長く生活していた形跡がほとんど見つからない。学歴や職歴といった過去に繋がる情報も、俺が確認できた範囲では見当たらなかった』
「偽名って可能性は?」
『当然ある。身元を偽装している人間など珍しくない。特に俺たちの周囲ではな』
「……まあ、それはそうだね」
自分も江戸川コナンという名前で生活している。沖矢昴も偽名。安室透も本名ではない。灰原哀も同じだ。
偽名そのものは、確かに決定的な異常ではない。
『だが』
赤井が続ける。
『もし彼が意図的に身元を隠しているのだとすれば、今度は行動が少し妙だ』
「どういうこと?」
『過去を完全に隠したい人間なら、警察や探偵が関わる事件現場へ何度も姿を見せるのは得策ではない』
「……うん」
確かにそうだ。
『身を隠したいように見える一方で、自分から目立つ場所へ現れている。しかも君の話を聞く限り、彼は事件を起こす側ではなく、解決する側へ手を貸している』
「そうなんだ」
コナンも、そこが一番分からなかった。
旬本人は目立ちたがっているようには見えない。事件が解決すれば、さっさと姿を消す。
それなのに、なぜか事件へ現れ続けている。
『行動の目的が見えんな』
「赤井さんは……どう思う?」
『現時点では、敵だと判断する理由はない』
「うん」
『だが、信用する理由もない』
「……そうだね」
『正体も目的も不明だ。能力についても、君と灰原君が見たものが事実なら、通常の方法では説明しにくい』
赤井の声が、少しだけ真剣になる。
『不用意に刺激しない方がいい。注意しろ、ボウヤ』
コナンは一瞬黙った。そして、少し苦笑する。
「灰原と同じこと言うんだね」
『彼女もそう言ったのか?』
「うん。深入りするなって」
『なら、少なくとも二人分の忠告には耳を貸しておいた方がいいんじゃないか?』
「……わかったよ」
返事をしたものの、赤井にはコナンが完全に諦めていないことなど簡単に分かったらしい。
『その言い方では、調べること自体をやめるつもりはなさそうだな』
「別に喧嘩を売りにいくわけじゃないよ」
『それは当然だ』
コナンは少しだけ視線を落とす。
「ただ……」
自分でも、どうしてここまで旬の正体にこだわるのか。理由はいくつもある。
危険な可能性があるから。事件に何度も関わっているから。説明できない現象を起こしているから。
でも、結局のところ、一番大きな理由は。
「知りたいんだ」
短く、そう言った。
水篠旬。
何者なのか。何のためにこの街にいるのか。なぜ事件のたびに、重要な手掛かりを見つけるのか。
そして、あれほど異常な力を持ちながら、どうして今まで一度も自分たちへ敵意を向けてこないのか。
『……そうか』
赤井の声は変わらない。ただ、コナンの性格をよく理解しているようでもあった。
『なら、調べるなら慎重にやれ』
「うん」
『何か分かったら、こちらにも知らせてくれ』
「わかったよ」
『ではな、ボウヤ』
「うん。またね、赤井さん」
通話が切れた。
コナンはスマートフォンを下ろし、そのまましばらく立っていた。
結局、安室からも赤井からも、水篠旬の正体へ繋がる答えは得られなかった。
むしろ、謎は深まった。
過去が見えない。経歴がない。圧倒的な身体能力。説明のつかない消失。不可解な力。
そして、事件のたびに真相へ繋がるものを見つけてくる。
まるで、水篠旬という人間の周囲だけが巨大な見えない壁で覆われているようだった。
外から調べても、何も分からない。人へ聞いても、答えは出ない。
なら、残された方法は。
本人を見ること。本人と話すこと。
それしかない。
もちろん、灰原の警告も赤井の忠告も理解している。安室まで警戒している相手だ。危険な可能性は十分にある。
だからといって、無茶をするつもりはない。
ただ、少しだけ。
水篠旬という人間そのものへ近づいてみる。
そうすれば、何か分かるかもしれない。
「……水篠旬、か」
コナンは小さく呟き、歩き出した。
探偵として、謎を放置することなど、やはりできそうになかった。
そして、その謎の向こう側に、自分がこれまで生きてきた世界とはまるで違う常識が存在していることを。
この時のコナンは、まだ知る由もなかった。