『味方全員を最強にする聖女、敵まで強化していたことが判明しました』 作:深空 律
アーデルの冒険者ギルドでは、朝から数人の職員が地図を囲んでいた。
前日に帰還した冒険者五名の報告を受け、グランデル山脈への調査が決まっている。問題は、どこまで踏み込めるかだった。
「ここから先が通れない、と」
上席の担当者が地図に引かれた線を指でなぞる。隣の職員は、五人から聞き取った内容を読み上げた。
「はい。山道は大きく崩れ、途中から別の尾根へ迂回したそうです。戦闘があった付近では、落石や地割れも確認されています」
「そちらは分かった。ほかの道への影響は?」
「まだ確認できていません」
担当者は地図から顔を上げた。
「なら、まず人が通れるかどうかだな。危険なら入口で止める。奥の遺跡まで調べる必要はない」
「分かりました」
「崩落した場所へ無理に近づくな、とも伝えてくれ。調査員まで遭難したら何の意味もない」
ほどなく、山歩きに慣れた職員と案内役を含む調査隊が出発した。地図、方位を確かめる道具、記録用の紙、それに数日分の食料。特別な魔物討伐を行う装備ではなく、通れなくなった道を調べるための支度だった。
「……山道が崩れただけなら、迂回路を確認すれば済むんだがな」
先頭を歩く案内役が言った。
その言葉に、地図を持つ調査員も頷いた。
「落石が続いているなら、近づくのはやめましょう」
「ああ。あの辺りは岩場が多い。無理はするなよ」
彼らはまだ、五人が見たものと、自分たちがこれから見るものが同じ範囲だと思っていた。
◇
山へ入ってしばらくは、目立った変化はなかった。
細い山道にはところどころ石が転がっていたものの、歩けないほどではない。遠くの山肌には茶色く崩れた部分も見えるが、この辺りでは珍しい光景ではなかった。
「これなら、途中までは通れそうですね」
「まあ、山の様子は奥へ行かないと分からん」
案内役はそう答え、足元の石を避けながら歩き続けた。
やがて、道の脇に落ちている岩の数が増え始める。拳ほどの石に混じって、両腕でも抱えられそうにない岩塊が転がっていた。近くの木は根元から傾き、地面には新しい亀裂が走っている。
「……ずいぶん派手に崩れたな」
調査員が地面へしゃがみ込み、亀裂の奥を覗いた。
「ここはまだ歩けます。でも、荷車は無理でしょうね」
「もともと荷車が通れるような道じゃないぞ」
「それはそうですけど」
案内役は小さく笑ったが、すぐに真顔に戻った。少し先で、道を横切るように斜面が崩れていたからだ。
調査員たちは足を止めた。崩れた土砂は山道を埋め、反対側まで乗り越えられるかも分からない。しかも上の方には、今にも落ちてきそうな岩が残っている。
「五人が言っていたのは、ここでしょうか」
「いや、もっと奥だ。報告にある分岐はまだ先のはずだ」
「……じゃあ、ここも別に崩れているんですね」
「そうなるな」
地図を持つ調査員は、一つ目の印を書き込んだ。
しばらく様子を確認してから、彼らは危険な斜面を避けて上の尾根へ回った。そこなら少し遠回りにはなるが、足場は比較的安定している。
ただ、尾根へ近づくにつれて、周囲の木々の様子が変わっていった。折れた枝があちこちに散らばり、幹の表面が黒く焼けている木もある。倒木は一本や二本ではなかった。
「……火事でもあったんでしょうか」
「山火事なら、もう少し燃え方が違うと思うんだが」
案内役は、葉をほとんど失った木を見上げた。幹は残っているのに、山の奥へ向いた側だけがひどく傷んでいる。その隣では、大木が根ごと地面から引き抜かれ、横倒しになっていた。
「風か……?」
「ここまで木を倒す風なんて、そうありませんよ」
「そうだな」
二人はそれ以上言葉を交わさず、尾根へ続く斜面を登った。
◇
尾根の上に出たところで、先頭の案内役が立ち止まった。
「……おい」
後ろの調査員が顔を上げる。
「どうしました?」
案内役は答えなかった。目の前に広がる山々を、ただ見つめている。
調査員もその隣へ出た。
そして、足を止めた。
眼下に広がっていたのは、見慣れたグランデル山脈ではなかった。
手前の山腹は、巨大な何かに削り取られたかのように深く抉れていた。剥き出しになった岩盤には無数の亀裂が走り、崩れ落ちた岩石が谷底を埋め尽くしている。谷を挟んだ向かい側の斜面からは、森林がほとんど消えていた。
それだけではない。
さらに奥の山でも、尾根の形が変わっていた。稜線の途中が大きく欠け、その下には砕けた岩が何段にも積み重なっている。山肌の広い範囲が黒く変色し、そこから外側へ向かって、倒れた木々が帯のように続いていた。
調査員は地図を開いた。
地図には、二つの尾根の間を通る山道が描かれている。その先で谷を回り込み、さらに奥へ続く道だ。
しかし、肝心の谷の形が違っていた。尾根の一部はなくなり、以前なら向こう側を見通せなかったはずの場所から、さらに奥の山肌まで見えている。
「……ここに、尾根がありますよね?」
調査員が地図の一点を指した。
「ああ」
「この先へ回り込むはずなんですけど……」
「分かってる」
案内役は、地図から目を離さずに答えた。
「俺はここを何度も歩いてる。あそこには、もっと高い岩壁があった」
調査員は顔を上げた。
「じゃあ……」
「なくなってるんだよ」
二人はしばらく黙っていた。
冷たい山風が吹き抜けた。足元では枯れた草が揺れているのに、谷の向こうには葉を残した木がほとんどない。黒い山肌は見渡す限り続き、その先は別の尾根に遮られていた。
「……山道が崩れたっていう報告でしたよね」
「ああ」
「道だけじゃ、ないですよね」
「……ないな」
案内役はようやく地図を畳んだ。
「山が変わってる」
◇
調査隊はその尾根から、見える範囲の被害を記録し始めた。
斜面の崩壊だけなら、雨や地震でも起こり得る。しかし、向かいの山腹には大きな亀裂が幾筋も走り、その周囲の木々は揃って倒れている。さらに離れた場所では、木の幹が焼けたまま立っていた。
「ここから見えるだけでも、かなり広いですね」
調査員が遠くの山を指さした。
「向こうの斜面も黒くなっています。あれも同じ時に?」
「分からん。だが、少なくともあの辺りまで何かが起きている」
「……どこまで続いているんでしょう」
案内役は答えず、少し高い岩の上へ移動した。そこからは、折り重なる尾根の間に、さらに別の谷が見えた。
谷底には土砂がたまり、以前は見えていた細い水の流れが確認できない。流れそのものが失われたのか、岩の下を通っているのかは、ここからでは分からなかった。
「谷も埋まっているぞ」
「……あんなところまで?」
「雨が降れば、あの土砂はまた動くかもしれん。今すぐ下へ入るのは危ないな」
調査員は頷き、地図に印を付けた。その印の数は、最初に想定していた山道の崩落箇所をはるかに超えていた。
「報告では、あの魔族は大きな斧を使ったとありましたね」
「ああ。もう一人の魔族や、巨大な存在とも戦っていたらしい」
「……これを、戦闘で?」
「それも、まだ確かめようがない。ここへ来た時には、もうこうなっていたんだからな」
案内役は焼けた斜面へ視線を戻した。
「だが、少なくとも『山道が崩れた』という部分は、間違いじゃなかった」
調査員は五人の報告書を思い出した。彼らが示したのは、通れなくなった道と、迂回する際に危険だった箇所だ。実際に歩いて確かめた場所を中心に説明していたのだから、当然と言えば当然だった。
「……見たところしか報告できませんよね」
「ああ。あの中を歩いて帰ったんだろう。こんな遠くの尾根まで調べに来る余裕はないさ」
調査員は改めて、眼下の山々を見渡した。
五人が通った道は、この広い被害の中の一本に過ぎなかった。道が崩れたという報告が小さな話に思えるほど、周囲の山々は変わり果てている。
「……私たちも、全部は調べられませんね」
「今日の人数じゃ無理だ。危険な場所も多すぎる」
「どうします?」
「戻って報告する。通行止めにできるところは先に止めないとな」
案内役は地図を指さした。
「迂回路を探すつもりで来たが、まず山のどこが安全なのか調べ直さないといけない」
調査員は静かに頷いた。
彼らは日が傾く前に安全な場所まで戻ることにした。山の奥に残された破壊の全容は、まだ見えない。だが、今回の調査だけで終わらないことは分かっていた。
◇
その頃、アーデルの宿では、エイルたちが遅めの朝食を取っていた。
前日はギルドへの報告を終えたあと、宿に戻って休んだ。十分に眠ったはずなのに、ロディオは椅子へ深くもたれかかっている。
「……今日くらい、本当に何もしなくていいよな?」
「昨日も同じこと言ってたぞ」
エイルが答えると、ロディオは真顔で頷いた。
「昨日はギルドに行った。だから休みじゃない」
「……まあ、それはそうだな」
「今日こそ休みだ」
クラウスは笑いながら、水の入った杯を置いた。
「たまにはいいんじゃないかな。みんな疲れてるし」
「そうそう。クラウスは分かってる」
ロディオは満足そうにパンをちぎった。
メルディアは席についていたが、あまり食事に手を付けていなかった。窓の外へ目を向け、ときどき何かを考え込んでいる。
「メルディア、食べないの?」
ルシエラが尋ねると、メルディアは顔を戻した。
「……食べるよ」
そう答えて、ようやくパンを手に取った。
「山のこと、考えてた?」
「……うん」
メルディアは少し間を置いた。
「グランのお墓、ちゃんと残ってるかな」
エイルたちは顔を見合わせた。墓は岩を積んで作った小さなものだ。あの場所では、今後も落石や崩落が起きるかもしれない。
「……分からないな」
エイルは正直に答えた。
「でも、今すぐ確かめに行くのは危ないと思う」
「うん。分かってる」
メルディアは頷いた。無理に戻ろうと言い出すことはなかったが、表情は少し寂しそうだった。
ロディオはしばらく黙っていたものの、やがて口を開いた。
「……俺が見つけた道も、次に通れるとは限らないからな」
「そうなの?」
ルシエラが尋ねる。
「斜面がかなり緩んでた。戻るなら、また道を探し直さないと」
「……そっか」
メルディアは小さく呟いた。
クラウスが、彼女の前にある皿を見た。
「まずはちゃんと食べよう。身体を休めてからでも、できることはあると思う」
「……うん」
メルディアは今度こそ、パンをひと口食べた。
窓の外では、いつもどおり町の人々が行き交っていた。五人はまだ、自分たちが歩いてきた山道の向こうで、どれほど広い土地が姿を変えていたのか知らなかった。
◇
調査隊がアーデルへ戻ったのは、出発から数日後のことだった。
ギルドの上席担当者は、差し出された地図を見て眉を寄せた。
「……印が多すぎないか?」
「見えた範囲だけです」
「見えた範囲?」
「はい。危険で近づけなかった場所もあります。奥の尾根の向こうは、まだ確認できていません」
担当者は地図を広げ直した。冒険者五人が報告した山道には、確かに崩落の印が付いている。しかし、調査隊が書き足した印はそこに留まらず、谷を越え、複数の山腹へと広がっていた。
「……何が起きたんだ、これは」
「分かりません」
調査員は、見たものを順番に説明した。削り取られた岩壁、形の変わった尾根、埋まった谷、広い範囲で倒れた木々。そして、山の向こうまで続いていた黒い斜面。
担当者は途中から口を挟まなくなった。
「これが本当なら、道を直すどころの話ではないぞ」
ようやく出てきた言葉に、調査員も頷いた。
「ええ。どこを通せば安全なのか、今の地図では判断できません」
「……新しく道を作るにしても、まず地形を調べ直す必要があるな」
担当者はしばらく考え、地図に付いた印を見つめた。
「入山の注意だけじゃ足りん。問題のある経路は当面通行止めにしよう。すでに山へ入っている者がいないかも確認してくれ」
「分かりました」
「調査も追加だ。ほかの尾根から見られる場所があれば、そこを調べる。危険な谷には入らせるな」
指示を受けた職員が退出すると、担当者は五人から受け取った報告書を机に並べた。
そこには、巨大な存在と魔族との戦闘、山道の崩壊、そして魔族の死亡と蘇生について記されている。
「……大げさな話だと思っていたわけじゃないが」
担当者が呟いた。
「むしろ、あの五人は控えめに報告していたことになりますね」
「見えていなかったんだろう。周囲があの状態なら、無理もない」
担当者は書類の一枚を手に取った。
ディモス。
ロザリア。
二人の魔族の名前がそこに記されていた。
調査で確認できたのは、山脈の広い範囲が破壊されているという事実だけだ。それをどちらの魔族がどのように引き起こしたのか、現場に残る痕跡だけでは分からない。しかし、五人が遭遇した相手が非常に危険だったということは、被害の大きさからも十分にうかがえた。
「軍へ送る報告にも、今回の調査結果を添えよう」
「はい」
「ただし、原因は決めつけるな。現地で確認したものと、冒険者たちの証言は分けて書いてくれ」
「承知しました」
担当者は、地図の端に残った空白を見た。
調査員が確認できなかった部分だ。その向こうにも、被害が続いている可能性がある。
「……これ、まだ全体が分かっていないんだな」
「はい」
「そうか……」
担当者は椅子にもたれ、しばらく天井を見上げた。
「山道の調査を頼んだつもりだったんだがな」
職員は何と答えればよいか分からなかった。
机の上には、調査前の地図が一枚。その隣には、破壊された範囲を示す印で埋め尽くされた地図が置かれている。
同じ山脈を描いたはずの二枚は、もはや同じ景色を表していなかった。