自分が誰であったのか、その記憶の輪郭は薄皮を剥ぐように緩やかになくなり、自身の性別すら曖昧になっていた。
覚えているのは、かつて怠惰な人間として生きていたこと。
運よくホワイトな企業に入り、何となく働き、何となく日々を過ごし、そしてある日普通に眠りに就いたことだけ。
そして次に目を覚ました時、自分はあばら骨の浮き出た見知らぬ幼子の体に宿っていたといた。
——ヴエロエルコ。
それが今世の私に与えられた、この幼い肉体の名だ。
生まれた場所は、前世の平和で温室のような世界とは似ても似つかない、暴力と飢餓、貧困と狂気が渦巻くスラムの片隅だった。
親と呼べる存在も一応はいたけれど、それもすぐに死んで居なくなってしまった。
気づいた時には這い回る虫のように、捨てられたゴミを漁り、時には容赦なく暴力を振るわれるリスクを冒して食べ物を盗みながら、必死に生き延びる日々。
前世のゆるやかな記憶と引き換えに手に入れたのは、常に死と飢えが隣り合わせにある悪夢のような日常だった。
そして、泥を啜りながらどうにか命を繋いでいた幼少期のある日、私は一人の男に引き取られた。
男の名は、ジュロイモー。
その男はひどくろくでもない男だった。
貧民街には似つかわしくない貧相ではあるが上等な身なりと、過剰なほど酷く肥えた体型をした男。
初対面の際、男は粘つき、情欲に染まった瞳で私の痩せた身体を嘗め回すように見ていた。
その時点で気づくべきだったのだ。
その名前を注意深く聞いていれば、その男に着いて行くことが、どれほど致命的な意味を持つのか理解できていた筈だったのに。
けれど、私の眼は濁り、曇っていた。
悪夢のような街での日々に心身共に摩耗し、衰弱していた私は気づけなかった。
男の視線に宿る歪んだ欲望に。
そして、その名前が意味する決定的な絶望に。
連れられて到着したのは、ジュロイモーの家だった。
「今日からここがお前の家だ、ヴエロエルコ」
ねっとりとした声でそう耳元に囁くと、ジュロイモーは私の細く折れそうな手首を掴み、奥の部屋へと乱暴に放り込んだ。
部屋には外の光を遮断する窓がなく、重厚で無機質な扉だけがあった。
床には薄汚れ、いつのものかもわからない生臭いシミが幾重にも重なった布切れが敷かれているだけ。
最初の数日は、飢えを凌ぐための食事が与えられた。
パンのくずや、腐りかけたくず野菜の混じった泥のようなスープ。
スラムで命がけで盗んで得た食べ物に比べても、お世辞にも良いとは言えないひどいものだった。
だが、この幼い体での盗みやゴミ漁りには常に命の危険が伴う。
スラムのゴミ捨て場に比べれば遥かにマシな食糧に、私は浅はかにも安堵すら覚えていたのだ。
だが、それらは豚を出荷前に太らせるための餌に過ぎなかった。
異変が起きたのは、引き取られて数日も経っていない、月すら見えない酷く暗い夜のことだった。
重い扉がギギギと不快な音を立てて開いた。
入ってきたのは、酒の臭いをプンプンと撒き散らし、下半身の着衣を乱したジュロイモーだった。
「おい、起きろ……ヴエロエルコ」
松明に薄く照らされた暗闇の中でその目を見た瞬間、私の背筋に猛烈な冷や汗が吹き出した。
前世の記憶——かつて読んだ物語の知識が、麻痺していた脳の奥底で爆発的な警鐘を鳴らした。
何故今この土壇場で思い出したのかはわからない。
それでも、確かな記憶の奔流が私の脳を激しく揺さぶった。
メイドインアビス。
かつての、前世の私が愛読していた物語。
主人公とその相棒がアビスという巨大な大穴に潜り冒険する物語。
その絵本のような可愛らしく温かみのある絵柄からは想像できないほどのシリアスで重厚、そして残酷な世界観が特徴で、あまり漫画を買わない私が定期的に新刊の発売日を確認する程、愛読していた物語だ。
その物語に登場する、ヴエロエルコ。
そして、目の前にいる男、ジュロイモー。
この男が幼少のヴエロエルコに何を行ったのか。
彼女がどのような苛烈極まりない虐待を受け、その身体と心に決して消えない地獄のような傷を刻まれたのか。
薄れかけていた原作の知識が、鮮明な映像と恐怖となって私の脳裏に蘇る。
(まさか……違う、嫌だ……!)
「いい子にしていろよ。お前のようなゴミ拾いのガキを拾ってやったんだ、選ばれた存在である俺に恩返しをするのは当然だろう……?」
汗ばんだ重く湿った手が、私の細い肩を力任せに掴む。
醜く肥えた巨体が押し被さってくる。
その体躯から放たれるのは、圧倒的な暴力と欲望、そして支配の圧力だった。
幼い子供の力で抗える相手ではない。
前世で暴力とは無縁の温室育ちの存在だった私にとって、その恐怖は精神を凍りつかせ、指一本動かすことすらできなくさせるのに十分すぎるものだった。
「やめ……離し、て……!」
声を絞り出そうとしても、引き攣った喉からは掠れた吐息しか漏れない。
服の胸元が無造作に、ビリリと不吉な音を立てて引き破られる。
冷たい空気が裸の肌に触れた瞬間、私の中で何かがぷつりと弾けた。
ここで屈すれば、私は死ぬよりも恐ろしい地獄の中で、永遠に精神を破壊され続けることになる。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
こんな男の欲望の犠牲になって壊されるなんて堪まるか!
そう思って必死に身を捩らせるも、暴れるのを見越していたのか、手足にきつく巻かれていた麻縄のせいで上手く動けない。
「おいおい、暴れるなよ……痛くしないから……」
粘つく不快な声とともに、ジュロイモーの醜く太った顔が視界を覆い尽くした。
酒臭い息と、何日も風呂に入っていない男特有の酷い体臭が鼻腔を突き刺す。
胸元を破られた肌に酷く冷たい空気が触れ、次の瞬間には、脂ぎった熱い手が私のあばら骨の浮き出た腹を舐めるように撫で回した。
「嫌だ……やめて……! やめて!!」
私は必死で叫び、身をよじらせた。
しかし、両手首と両足首を固く縛り上げている粗末な縄が、非情なまでに私の自由を奪っていた。
動こうと抵抗すればするほど麻縄が細い皮膚に深く食い込み、激痛が走る。
ドスンと、彼の重い膝が私の細い太腿を肉ごと押し潰すように押さえつける。
圧倒的な重量感。
前世で現代人として生きていた頃も、今世のヴエロエルコとしての生でも、これほどの生命の危機、あるいは尊厳の蹂躙を感じたことなど一度もなかった。
ましてや今の私は、まともな食事すら与えられていない幼い女児の肉体なのだ。
(死ぬ……いや、死ぬより酷い目にあわされる……!)
脳裏に、かつて画面や紙越しに見知ったメイドインアビスの凄惨な設定が過る。
原作のヴエロエルコが辿った凄惨な未来。
養父であるジュロイモーから受け続けた、精神と肉体を完全に破壊するほどの性的暴行と拷問のような虐待。
心の居場所を完全に奪われ、絶望の果てに大穴アビスへと逃げるように旅立ち、過酷で悲惨な最期を遂げた悲劇の女性。
あんな結末、死んでも御免だ。
私はヴエロエルコとして生まれた。
だが、中身はただの人間だ!
前世で怠惰に生きていたからこそ、こんな理不尽な悪意に踏みにじられて壊されるなんて冗談じゃない!
「おとなしくしろ……!」
ジュロイモーの太い右手が私の喉元を強く圧迫した。
ゴリッと嫌な音がして息が止まる。
視界の端が赤く明滅し、酸素を求めて胸が激しく上下する。
彼の左手が私の腰元へと伸び、下半身の衣類を引きちぎろうと力任せに指を掛けた。
(動け……! 動け、私の体……!!)
呼吸ができない苦しさの中で、脳の奥底が焼けるように熱くなった。
死の恐怖と猛烈な怒りが、私の中に眠っていた生きるための狂気と生存本能の火種に油を注ぐ。
縄で縛られた手首。
だが、焦りと恐怖で大量の汗が噴き出したおかげで、皮肉にも手首と麻縄の間にほんのわずかな滑りが生じていた。
私は皮膚が千切れ飛び血が滲むのも構わず、両手を強引にひねり、力任せに引き抜こうとした。
ギチギチと音を立てて麻縄が肉に食い込み皮膚が裂ける痛みが走るが、そんな激痛はジュロイモーの情欲に満ちた目つきに比べれば何でもなかった。
ズボッと、右手の親指が縄の輪から抜け出た。
そのまま手首を強引にしならせ、片手が自由になった。
その瞬間、私の全神経はただ一つ——─この男を殺すという選択肢だけに研ぎ澄まされた。
平和な日本で生きてきた道徳や記憶など、この極限状態の前には何の役にも立たない。
ここは弱肉強食のスラムであり、目の前にいるのは自分を欲望の餌食にしようとする怪物なのだ。
やられる前に、殺すしかない。
「あ……?」
手が自由になった異変に、ジュロイモーが気づく。
だが、彼が驚愕の声を漏らすよりも早く、私は残された全筋力を振り絞って右腕を伸ばした。
手を伸ばした先は目潰しではない。
無防備な首元だ。
太い首の服の襟ぐりを掴み、自身の体重も利用して此方へと全力で引き寄せた。
私の上に覆いかぶさるような体勢をとっていたジュロイモーは容易に体制を崩し、碌な抵抗も出来ず、私の方に倒れこんでくる。
それに合わせて上体を起こした私は、無防備に晒されたジュロイモーの太い首筋に、幼い歯を全力で突き立て、大きく噛みちぎった。
「がぁッ……!?」
生温かい血の汁が爆発的に弾け、私の口内と顔面を容赦なく濡らした。
生身の肉を断ち切る鋭い感触。
ブチブチと音を立てて筋肉の繊維と脈動する太い血管が食いちぎられる感覚が、舌と歯茎を通じて脳にダイレクトに伝わる。
生臭い鉄の味が喉を侵し、猛烈な吐き気が込み上げたがそれを力任せにねじ伏せ、さらに顎に力を込め、獣のように首の肉を深く抉り取った。
「あ……が、ァえ……ッ!?」
ジュロイモーの口から、悲鳴にもならないゴロゴロという濁った破裂音が漏れた。
頚動脈を完全に破壊された男の喉からは、シャワーのように溢れ出す赤黒い血がドバドバと噴出する。
視界のすべてが赤黒い液体で染め上げられていく。
しかし、死に向かう巨体の底力は、私の想像を遥かに絶していた。
「ごの……ガ、ギがぁああっ!!
言葉にならない狂乱の絶叫。
首から滝のように血を垂れ流し、呼吸器を潰されたジュロイモーは、死の直前の圧倒的な狂乱と恐怖に駆られて太い両手を振り上げた。
その丸太のような両手が、私の細い首筋にガチリと噛み合わさる。
「ぐっ……!?」
万力のような暴力的な力が私の首を締め上げた。
骨がミシミシと悲鳴を上げ、気道が完全に押し潰される。
首を食いちぎられ、絶命へのカウントダウンが始まっている筈の男の筋力は、死に際の狂気によって恐ろしいほど跳ね上がっていた。
喉骨がミシリと嫌な音を立てる。
血を流しすぎて青白くなったジュロイモーの顔面、その眼球が落盤しそうなほど血走り、怨嗟と死相を浮かべながら私を睨みつけている。
喉を潰された彼はゴボッ、ゴボゴボッと己の血を大量に吐き戻しながら、ただ私を道連れにせんと指先に全ての力を込め続ける。
息ができない。
酸素が完全に遮断され、脳が激しく明滅する。
視界の端から深い暗黒が急速に押し寄せてくる。
赤く染まっていた部屋の光景が、徐々にチカッチカッと白黒の雑音ノイズへと変貌していく。
鼓膜の奥でドックン、ドックンと引き攣るような自分の心臓の悲鳴だけが肥大化して聞こえる。
(嫌だ……こんなところで……せっかく、この世界に来たのにこんな死に方なんて!)
前世での生ぬるく平穏だった生活。
この世界で味わった泥とゴミの味。
そして、いま首を絞めつけられる絶望。
意識が急速に遠のいていく。
手足の先端から感覚が失われ、冷たくなっていく。
脳が焼き切れる寸前の、絶望的な浮遊感。
その時——─私の上でのしかかっていた巨体の重みが、徐々に脱力していくのが分かった。
ジュロイモーの腕から、最後の力がじわじわと抜けていく。
ドバドバと流れ続けていた血の勢いが弱まり、男の身体がただの巨大で物言わぬ肉塊へと変わっていく。
だが、私の意識もまた、限界を迎えていた。
男の手が首から力なく滑り落ちた瞬間、私は肺に残っていたわずかな空気を吐き出し、そのまま冷たい床へと崩れ落ちた。
目の前には、首を大きく抉られ、自らの血の海の中で引きつった表情のまま絶命したジュロイモーの死体。
そしてその上で、私もまた荒い呼吸すら満足にできず、死の淵へと引きずり込まれそうになっていた。
「は……っ、が……あ…………」
胸が激しく上下するが、締め付けられた喉は激しい痙攣を起こし、上手く空気を吸い込んでくれない。
視界が完全にぼやけ、世界からすべての音が消えていく。
倒れた私の頬に、ジュロイモーの生温かい血がこびりついて次第に固まり始めていた。
勝った……のか?
殺した……私を壊そうとした男を。
原作のヴエロエルコを絶望の深淵へと叩き落とした、全ての元凶を。
自分の手で、この幼い歯で、喰いちぎって殺した。
………私が、殺したのだ。
残った僅かな力を振り絞り、紅く血に染まった小さな手を天井へ向けて掲げた。
今更ながらに込み上げてきた激しい吐き気を必死に抑え込みながら、私の意識は暗闇の中へと緩やかに消失していった。