眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
第1話
古びた椅子の革が、体重を預けるたびにギチ、と嫌な音を立てて軋む。
狭いアパートの窓ガラスを、雨が叩きつけている。フィルターを通さなければまともに肺に入れることもできない、薄汚れた外気。その重苦しい現実から逃れるように、鈴木悟は長年愛用してきたVRヘッドギアを頭部へとはめ込んだ。
西暦2138年、7月31日、深夜。
かつて一大ブームを巻き起こした体感型オンラインゲーム『ユグドラシル』のサービス終了まで、あとわずか数分――数百秒の領域へと突入していた。
視界の右隅に浮かぶ時計が、「23:55:12」を刻む。
見慣れた絢爛豪華な光景が視界一杯に広がった。
誰もいない巨大なギルドホーム『ナザリック地下大墳墓』の最深部――玉座の間。
「……はぁ。ついに、終わりかぁ」
優雅な刺繍が施されたローブの裾を揺らしながら、モモンガはゆっくりと首を巡らせた。
天井のシャンデリアから放たれる怪しい紫の光が、鏡面のように磨き上げられた大理石の床を照らしている。玉座の左右には、メイドの姿をした戦闘ホムンクルス『プレアデス』や、悪魔、吸血鬼といった禍々しくも美しい造形のモンスターたちが、微動だにせず直立していた。
しかし、彼らの瞳には光がなく、視線はただ虚空の一定の座標に固定されている。
これらはかつて、大切な仲間たちがそれぞれのこだわりと情熱を注ぎ込んで設定を書き上げたNPC――言ってしまえば、ただの電子の人形たちだ。サービス終了を告げるこの最終夜になっても、彼らが意志を持ってモモンガに話しかけてくることもなければ、本物の忠誠を誓うようなプログラムが起動することもない。
モモンガは骨の指先を動かし、世界に一つしか存在しない至高のギルド武器『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』の持ち手をそっと弄んだ。掌に伝わる、今になって知った触感。
かつて、この場所には41人の仲間たちがいた。
毎日、現実世界の過酷な仕事の愚痴をチャットでぶつけ合い、知恵を絞って未踏のダンジョンを攻略し、時に生産スキルの成果を見せ合っては、夜が明けるまで馬鹿騒ぎをした。誰もが、現実に居場所のない孤独をここで埋め合っていた、かけがえのない仲間たちだった。
だが、それも今や、二度と戻らない遠い過去の感傷でしかない。
一人、また一人と、現実世界の容赦のない辛さや、生活の崩壊に追われるようにしてログインしなくなっていった。最後の数年間は、実質的に鈴木悟だけが、この広大すぎる城の灯を守り、繋ぎ続けていた。
(……誰もいないギルドで、一人で骸骨の王様の真似事なんて、我ながら何やってるんだろ。いい歳したおっさんがさ)
彼の眼窩が、自嘲気味に小さく揺れる。
ゲームへの執着というよりも、ただ、あの輝かしかった日々を完全に過去のものとして手放してしまうのが怖かっただけなのかもしれない。誰もいない静まり返ったチャットログを、ただ一人でスクロールし続ける日々は、現実世界の孤独よりもずっと深く、胸を締め付けるものがあった。
けれど、それすらも今日で終わりだ。あと数分でサーバーが閉じられ、この世界はすべてゴミのように消滅し、二度と触れることはできなくなる。
(っていうか……明日、月曜日なんだよなぁ……)
ふと脳裏をよぎった現実に、鈴木悟の胸の奥がどろりと重くなった。
時計の針が24時丁度を回れば、サービスは終了する。そこからヘッドギアを外して、ベッドに入って、眠れるのは早くても24時半。
そしてその数時間後――朝6時には、いつものように目覚まし時計の音で現実へと引き戻されるのだ。マスクを顔に締め付け、満員電車に揺られ、会社へと向かう。待っているのは、理不尽なディストピアだ。
(明日の朝一、営業の進捗会議があるんだっけ。あー、行きたくない。マジで仕事行きたくない。いっそこのまま、サービス終了が伸びてくれないかなぁ。……なんてね。そんなわけないか)
サラリーマンとしての諦観が、骨の身体から深い沈黙となって漏れ出す。
鈴木悟という男の人生には、何の希望もない。ただ会社という巨大なシステムの歯車として磨り減り、消費されるためだけに存在している。それを、自分自身で納得するしかなかった。
視界の端のカウントダウンが、最後の数十秒を冷徹に刻み始める。
モモンガは玉座の背もたれに深くその身を預け、骨の手でスタッフを握り締め、静かに目を閉じた。
23:59:50……
23:59:53……
23:59:57……
(みんな、今までありがとう。本当に……楽しかったよ……)
秒針が頂点を打つ。終わりの時。
0:00:00――。
……、……。
一秒。二秒。三秒。
頭の中で刻むカウントは、とうに十秒を過ぎようとしていた。
だが、網膜を覆うはずの強制ログアウトの暗転も、脳の奥を揺さぶる電気信号の遮断も、一向に訪れる気配がない。それどころか、安アパートの薄い壁越しに鳴り響いていた、あの不快なヘッドギアの生活音すらも、完全に消失していた。
(……あれ?)
おかしい。インターフェースの不具合だろうか。
そう疑問を抱いた瞬間、鈴木悟の鼻腔を突いたのは、機械油や古びた基盤が焦げる匂いではなかった。
――ひどく泥臭く、青臭い。
肺の最奥まで一気に染み渡るような、圧倒的で、濃厚な大自然の匂いだった。
「……おい、どうなって――っ!?」
弾かれたように目を開けたモモンガは、自身の口から放たれた声の質感に、思わず胸の骨を震わせた。
地響きのように重く、バリトンの効いた重低音。それは鈴木悟の、あの細く貧弱な、疲れ切った声などでは断じてなかった。
何より、視界に飛び込んできたのは、見慣れたナザリックの絢爛豪華な大理石の天井ではなかった。
見上げる夜空には、現実世界の公害で赤黒く濁った雲など、どこにも存在しなかった。暴力的なまでの解像度で、見たこともないほど鮮烈に瞬く星々。しかし、その星座の配置は、鈴木悟の知るどんな天体知識とも一致しない──もっとも彼にそこまでの学はないが、完全に未知の夜空だった。
視線を落とせば、そこは薄暗く、しかし見渡す限りの地平線が広がる、果てしない荒野だった。
風が吹くたびに、博物館の化石展示でしか見たことがないような、奇妙な形状の巨大なシダ植物が、ガサガサと音を立てて波打っている。さらに遠方の闇の中では、無数の脚と硬い甲殻を持った巨大な生物――まるでアノマロカリスが陸に上がったかのような異形――が、カサカサと不気味な音を立てて地を這っているのが見えた。
「な、なんだここは!? ログアウトミスか!? あのクソ運営の仕業か!?」
モモンガは猛烈なパニックに陥りかけた。
脳内でいつものようにシステムメニューを開こうとするが、指先をどれだけ虚空に滑らせても、見慣れた半透明のコンソール画面は一切出現しない。完全にゲームの仕様から逸脱していた。
(落ち着け! 落ち着くんだ、鈴木悟……いや、モモンガ! え、ええと、明日は朝から仕事……仕事があるんだ! こんなところで運営の不具合に付き合っている暇は――)
ドクン。
心臓が跳ね上がるような錯覚を覚えた、その瞬間だった。
モモンガの全身を、奇妙な、冷たい緑の光がなぞるように包み込んだ。
すると、あんなに激しく乱れていた動悸(そもそも、胸の中に心臓など存在しないはずだが)と、脳裏を焼き尽くさんばかりの焦燥が、嘘のようにスン……と引いていった。
驚くほど冷徹で、氷のように冴え渡る冷静な思考が、一瞬で戻ってくる。
――『強制的精神安定』。
感情の昂りが一定値を越えた瞬間、それを冷酷に切り捨てる、アンデッド特有のパッシブスキルだった。それが、システムログの表示すらなく、文字通り肉体の機能として機能していた。
モモンガはゆっくりと自分の右手を見つめた。
籠手を外したその腕には、肉も、皮も、神経も、何一つ残っていなかった。ただ白く、硬質な骨だけが、冷たい月光を反射して怪しく钝色に光っている。
(……身体が、本当に肉が削げ落ちて骨になっている? それに、この冷徹なまでの冷静さはどうだ。まさか、私は本当に……ユグドラシルのモモンガになってしまったのか?)
信じられない現実だった。しかし、肌を撫でる湿った夜風の冷たさ、草の匂い、五感に伝わる大気の質量。そのすべてが、これが仮想現実のデータなどではなく、肌で感じる「本物の現実」だと、容赦なく告げていた。
ナザリックは、どこにもない。
あの玉座の間に並べたはずの人形たちも、一人として存在しない。
文字通り、自分たった一人が、この未知の荒野に取り残されていた。
けれど、アンデッドの脳髄は、もう震えることすら拒絶していた。
「……まずは、情報収集だ」
重厚な声を大地に響かせ、モモンガは身体の奥底に眠る、魔力のシステムに意識を向けた。それはメニュー画面を開くような動作ではなく、自分の手足を動かすのと同じ、あまりにも自然な感覚だった。
「――『飛行(フライ)』」
社畜としての明日への不安と、この異常事態への困惑。それらがモモンガの頭の中をごちゃ混ぜにしながらも、彼は生き残るための、確実な第一歩を踏み出すために魔力を解き放った。
モモンガの巨大な躯体が、重力をあざ笑うかのようにゆっくりと地表を離れ、漆黒の夜空へと浮き上がっていく。
ローブの裾が風にたなびく中、彼はまだ知る由もなかった。
ここが、遥か未来に「幻想郷」と呼ばれることになる、神々と妖怪が生まれる前の、古代の地球であることを。
そして、孤独な魔王としての、長い生の幕が上がったことを――。