眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
第1話
西暦2138年、7月31日の深夜。
開発され尽くした無機質な未来都市の片隅、有害な酸性雨が窓を叩く安アパートの一室で、鈴木悟は長年愛用してきたヘッドギア型VRインターフェースを装着したまま、静かにその時を待っていた。
二酸化炭素で濁った現実を見る必要のない、電脳の仮想世界。そこで一大ブームを巻き起こした体感型オンラインゲーム『ユグドラシル』も、ついに終わりを迎える。そのサービス終了の瞬間が、刻一刻と迫っていた。画面の端に表示されたシステム時計の針は、すでに午後11時55分を回っている。
あと数分、たったの数百秒で、この広大な世界はすべてサーバーの藻屑となって消え失せる。
「……はぁ。ついに、終わりかぁ」
ディスプレイの向こう。誰もいない巨大なギルドホーム『ナザリック地下大墳墓』の最深部、玉座の間で、豪奢な最高級ローブを纏った巨大な骸骨の異形――モモンガは、ぽつりと呟いた。かつてこのギルド『アインズ・ウール・ゴウン』には、41人の仲間たちがいた。
毎日、現実世界の過酷な仕事の愚痴を言い合い、協力して未踏のダンジョンを攻略し、時に生産スキルの成果を見せ合って馬鹿騒ぎをした、かけがえのない仲間たち。だが、それも今や遠い過去の感傷だ。
一人、また一人と現実の忙しさや生活の崩壊に追われてゲームを去り、最後の数年間は、実質的に鈴木悟だけがこの巨大なギルドの灯を繋ぎ続けていた。玉座の周囲には、ギルドメンバーたちがかつてこだわり抜いて設定した、いくつかのモンスターデータが整然と並んでいる。メイドの姿をした戦闘ホムンクルス『プレアデス』や、悪魔、吸血鬼といった禍々しくも美しい造形。
しかし、それらはあくまでゲーム内の「戦闘用NPC」や「愛玩用データ」に過ぎない。サービスが終了するこの瞬間になっても、彼らが意志を持って話しかけてくることもなければ、鈴木悟に対して本物の忠誠を誓うようなプログラムも施されていない。ただの、静かな、動かない人形たち。鈴木悟は、このサービス終了の最終夜、それらの人形を玉座の間に綺麗に並べ、一人の寂しい「魔王ごっこ」という名のロールプレイをして過ごしていた。
(……誰もいないギルドで、一人で骸骨の王様の真似事なんて、我ながら何やってるんだろ。いい歳したおっさんがさ)
骨の指先で、世界に一つしか存在しない至高のギルド武器『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を弄びながら、鈴木悟は自嘲気味に笑った。
心を満たすのは、ただただ圧倒的な『寂寥感』だった。かつて仲間たちが残していった高価な家具、誰もいない静まり返ったチャットログ。それを一人で眺め続ける日々は、現実世界の孤独よりもずっと胸を締め付けるものがあった。けれど、それも今日で終わりだ。すべてはリセットされ、消えてなくなる。
(っていうか……明日、月曜日なんだよなぁ……)
サービス終了は24時丁度。そこからヘッドギアを外して、ベッドに入って、眠れるのは早くても24時半。明日――いや、あと数時間後には、いつも通り朝6時に起きて、公害防止マスクを着用して満員電車に揺られ、理不尽な上司の罵倒と過酷な労働が待っているディストピアな現実世界へと戻らなければならない。
(明日の朝一、営業の進捗会議があるんだっけ。あー、行きたくない。マジで仕事行きたくない。いっそこのまま、サービス終了が伸びてくれないかなぁ。……なんてね。そんなわけないか)
サラリーマンとしての諦観が、ため息となって漏れる。現実世界は何の希望もないディストピア。ゲームの世界は今日で消滅。どこにも救いなどない。鈴木悟という男の人生は、ただ会社にすり潰されるためだけに存在する歯車なのだと、自分自身で納得するしかなかった。時計のカウントダウンが、最後の数十秒を刻み始める。
23:59:50……
23:59:53……
モモンガは玉座の背もたれに深く身体を預け、骨の手でスタッフを強く握り締め、目を閉じた。
(みんな、今までありがとう。本当に……楽しかったよ……)
23:59:57……
23:59:59……
0:00:00――。
秒針が頂点を打った。宿命のゼロ。
……。
……、……。
(……あれ?)
いつまで経っても、ヘッドギアが強制ログアウトの信号を脳に送ってこない。視界が暗転することもなく、アパートの薄い壁越しに響くはずの、換気扇の不快な生活音もしなかった。それどころか、鼻腔を突いたのは、機械油や電子回路の匂いではなく
――これまで一度も嗅いだこともないような、ひどく泥臭く、青臭い、強烈な「大自然」の匂いだった。
「……おい、どうなって――っ!?」
慌てて目を開けたモモンガは、自分の口から漏れた声に驚愕した。バリトンの効いた、地響きのような重低音。鈴木悟の、あの細く貧弱な声ではない。そして、視界に飛び込んできたのは、見慣れたナザリックの絢爛豪華な天井ではなかった。薄暗い、しかし見渡す限りの地平線が広がる、果てしない荒野。
空を見上げれば、現実世界の公害で汚染された赤黒い夜空とは違う、不気味なほど鮮烈に星々が瞬く夜空。しかし、その星座の並びは鈴木悟の知る天体知識とは全く異なる、完全に未知の夜空が広がっていた。足元を見れば、見たこともない奇妙な形の、巨大なシダ植物のような緑が生い茂っている。さらに遠くの方では、博物館の化石展示でしか見たことがないような、無数の脚と硬い甲殻を持った巨大な生物――まるでアノマロカリスが陸に上がったかのような異形――が、カサカサと音を立てて地を這っているのが見えた。
「な、なんだここは!? ログアウトミスか!? あのクソ運営の仕業か!?」
モモンガはパニックになりかけた。脳内でいつものようにシステムメニューを開こうとするが、指を動かしてもコンソール画面は一切出現しない。完全にゲームの仕様から逸脱している。
(落ち着け! 落ち着くんだ、鈴木悟……いや、モモンガ! え、ええと、明日は朝から仕事……仕事があるんだ! こんなところで運営の不具合に付き合っている暇は――)
ドクン。その瞬間、モモンガの全身を奇妙な、冷たい緑の光が包み込んだ。すると、あんなに激しく乱れていた動悸(そもそも心臓がないはずだが)とパニックが、嘘のようにスン……と引き、驚くほど冷徹で冷静な思考が戻ってきた。――『強制的精神安定』。アンデッド特有の、感情の昂りを一定値で切り捨てるパッシブスキルだった。
(……なんだ今の光は? 身体が……本当に肉が削げ落ちて骨になっている? それに、この冷徹なまでの冷静さはどうだ。……まさか、私は本当に、ユグドラシルのモモンガになってしまったのか?)
信じられない現実。だが、肌を撫でる湿った風、草の匂い、五感に伝わるすべての情報が、これが仮想現実レベルを遥かに超えた「本物の現実」だと告げている。ナザリックも、あそこに並べたはずの人形たちもいない。文字通り、自分たった一人。社畜としての明日への不安と、この異常事態への困惑が、モモンガの頭の中をごちゃ混ぜにしながらも、彼は生き残るための第一歩を踏み出すことになる。
「……まずは、情報収集だ。――『飛行』」
モモンガの巨躯が、重力を無視してゆっくりと宙へ浮き上がった。誰もいない原始の世界。彼はまだ知らない。ここが、遥か未来に「幻想郷」と呼ばれることになる、神々と妖怪の生まれる前の、超古代ーーカンブリア紀の地球であることを