眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
外周の自動迎撃装置が壊滅させた侵入者たちの肉体が、デス・ナイトたちの触媒へと変えられた頃。
アインズは執務室を離れ、要塞の最も深い階層に位置する、柔らかな魔力の光に満ちた人工栽培室へと一人、静かに足を進めていた。
部屋の結晶扉を開ければ、そこには漆黒の結晶要塞の無機質で禍々しい外見からは想像もつかないほど、瑞々しく、青々とした美しい薬草の群生が、天井から降り注ぐ純粋な魔導の光を吸って優しく揺れていた。
それは、かつてユグドラシルに存在したどの植物データとも異なる、この大和の地に古くから自生する薬草の原種であった。
アインズはローブの裾を地面に擦らせながら、その結晶の苗床へと近づき、指先で一枚の葉をそっと撫でた。
指先から直接脳内へと伝わってくるのは、植物が持つ特有の、瑞々しく生命力に満ちた微小な熱量。
「……今月の発育状態も、極めて良好だな。君の残していった配合比率のデータは、やはり千年が経過した今でも、寸分の狂いもなく正しいということか」
ポツリと漏らした重厚な声音には、演技ではない、一人の男としての深い追憶が滲んでいた。
この栽培室にある植物のすべては、千年前、まだ少女だった八意があの庵に足繁く通っていた頃に、都市の研究室から大人の目を盗んで持ち込んできた精密な計測データの結晶だった。
彼女が月へ遷都したあの夜から、アインズは彼女との個人的な約束を果たすためだけに、この地上の生態系を、誰にも邪魔されない隠れ家のなかでコツコツと守り、育て続けてきた。
国家を築いて神々の上に君臨するつもりなど、彼にはない。彼をこの不条理な地上に繋ぎ止めているのは、かつての仲間たちが残してくれたアインズ・ウール・ゴウンという名前、それと、自分の恐ろしい正体を知ってなお、救世主として擁護してくれた、あの昔馴染みの少女との約束だけなのだから。
(彼女がいつかこの地上に舞い戻ってきたとき、帰るべきこの大和の自然が、あの騒がしい神々の国盗り合戦によって灰になっていては、あの時彼女の手を引いて月へ送り出した意味がなくなってしまうからな)
組織で動いた人間としての責任感、それと一人の人間としての頑固な情が、アインズの骨の身体を静かに突き動かしていた。
アインズは骨の指先で、薬草の栄養状態を均一に保つための生活魔法を調合器へと流し込み、淡々と日課の作業をこなしていた。
手元にある古い羊皮紙の束。そこには、彼女の流麗な筆致で、大気中の霊気の流動波形と共に、かつて彼女がアインズに語った言葉のメモが残されている。
――アインズさんの魔力は、私たちの科学がどうしても超えられない不変の熱力学法則を無視して、無から有の事象を直接構築しているわ。その術式を私の化学と掛け合わせれば、ほとんどの病を分子レベルで組み替えて消滅させる高ランクの万能薬の触媒として、私たちの科学を次の次元へ進めることができる…はずよ。
月の民の科学の粋を極めた彼女の頭脳にとって、アインズの放つ異質の力は不浄の穢れなどではなく、この世界の物理的な限界すら突破する究極の理として定義されていたのだ。
アインズはかつての彼女の貪欲な知性を思い返し、仮面のなき骨の口元をわずかに緩めた。
だが、その平穏な内省を破るように、彼が要塞全域に張り巡らせている探知魔術の網が、外の世界の不穏な大気の流動を、ダイレクトに彼の脳へと伝えてくる。
先日の、突如として攻め込んできたあの傲慢な神の消滅。あの連中がどこから送り込まれたのか、その関連性すらアインズはまだ見出していない。だが、地上の国盗り合戦がこの土地の周辺まで及んでいる以上、何らかのパワーバランスの変化が起きているのは間違いなかった。
(自軍の強力な戦力を一瞬で失うような事態になれば、どのような勢力であれ、次に打ってくる手は無謀な総進軍ではない。……より洗練された、こちらの戦力や出方を探るための、徹底的な斥候の隠密行動になるだろう)
アインズは最悪のトラブルを事前に想定する危機管理能力をフル回転させ、思考を研ぎ澄ませた。
もし隠密がこの要塞の深部、特にこの八意の科学の結晶である栽培室にまで侵入するような事態になれば、それはアインズにとって絶対に許容できない不利益であり、容赦のない敵対行動とみなすに十分だった。
「……搦め手でこちらの隙を窺いにくるというのであれば、こちらも相応の、より強力な防衛能力を以て迎え撃つまでだ」
アインズは調合器を静かに卓へと戻すと、スタッフを右手で固く握り直し、栽培室の重厚な結晶扉の方角へと、静かに歩み出した。
(これより、要塞の全エリアの防衛トラップの再配置を行う。……我が配下たちよ、私の呼び出しに応じ、執務室へと集まるがいい)
脳内に直接響く念話の魔法を使い、アインズは要塞の防衛を担う配下のアンデッドたちへと、静かに招集の命令を下すのだった。
◇
栽培室を後にし、結晶の廊下を静かに歩いて執務室へと戻ったアインズを待っていたのは、一切の呼吸音すら存在しない、完全なる静寂だった。
広大な部屋の左右には、アインズの命令を寸分の狂いもなく受信し、微動だにせず整列した数十体のデス・ナイト、そしてジャック・ザ・リッパーたちの姿がある。
彼らはアインズのスキルによって生み出された、この地上には存在し得ない最悪の不死者たち。
だが、千年という永劫の時間を主君の傍らで過ごそうとも、彼らに人間のような完全な知性が芽生えることはない。せいぜいが主人の命令を聞くことへの嬉しさをみせる程度で、喋る個体ですらごく稀だ。
「……よし。全員、問題なく配置についているな」
アインズの重厚な地響きのような声が部屋に響くが、アンデッドたちからは一切の返答はない。
ただ、主君への絶対的な隷属の証明として、彼らの頭部が一斉に、機械的な速度でカチリとアインズの方角へ向けられただけだった。
中身の鈴木悟としての内心は、この意思を持たない冷徹な人形たちの沈黙に、かすかな寂寥感を覚えていた。
もしここに、かつてのギルドの仲間たちがいたなら。あるいは、かつてあの庵で対等に語り合った、あの賢げな少女がいたならば、どのような言葉を返してくれただろうか、と。
(……いや、感傷は無用だな。彼らに余計な人格がないからこそ、私の指示通りの防衛任務を、一秒のミスもなく完璧に遂行してくれる。隠れ家を守るための防衛システムとしては、これ以上ないほどに優秀なものだ)
脳内でパチパチと瞬く緑の光が、不要な感傷を冷徹に切り捨てる。
アインズはスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを玉座の前へと突き立て、静かにその魔力を解放した。
「外周の第一陣地から第三陣地までの、防衛トラップの完全再配置を開始する。……指示を聴け」
アインズの脳内から直接発せられる詳細な防衛プランに基づき、左右に並んでいたアンデッドたちが、音もなく一斉に動き出した。
彼らの動きには無駄が一切ない。
先刻、この要塞の防衛システムによって塵となったあの傲慢な神。ここ最近、近隣の地域で破竹の勢いで国盗りを成功させ、調子に乗って勢力を拡大していた厄介な神であったことは、アインズも調査報告書を通じて十分に把握していた。
(あのように周囲を驚かせるスピードで侵略を繰り返していた神が、何をトチ狂ったのか私の隠れ家にまでアポなしで攻め込んできやがった……。本当にいい迷惑だな。だが、あの規模の戦力が一瞬で全滅したのだ。裏に何があるかは分からんが、向こうの陣営も、次はこちらの戦力や出方を探るために、より洗練された徹底的な斥候の隠密行動を仕掛けてくるはずだ)
アインズは長年の経験を活かした危機管理能力のすべてを注ぎ込み、執拗な防衛の網を構築していく。
その中には、単純な攻撃だけではなく、極めて陰湿な構造が用意されていた。
侵入者の精神を内側から腐食させて方向感覚を完全に奪う、第8階位の認知阻害結界。それを要塞の外縁に三重に重ねて展開させ、さらにその結界に物理的な接触があった瞬間、その座標にセットされた第9階位の万雷の撃滅が、時間差で多重発動するよう罠を設置していく。
デス・ナイトたちは言葉を発することなく、アインズの指示した正確な座標へと巨大な盾を突き立て、魔力の楔となって地中に沈み込んでいく。
彼らは自らが壊されるその瞬間まで、要塞の絶対的な防壁として、ただ無機質に機能し続ける。
(どれほど統率された軍勢を持っていようとも、この世界の定石には存在しないユグドラシルの防衛システムの前には、初見殺しが通る。我が平穏を乱す侵入者には、それ相応の、絶対的な絶望の対価を支払ってもらう)
物言わぬアンデッドたちが機械的に持ち場へと散っていく。彼らには恐れもなければ、主君の命令に対する疑問もない。
ただ命じられた任務を、一ミリの狂いもなく淡々とこなすだけ。
「次は、中央広場から居住区へ至るルートの封鎖だ。――『空間隔離』」
アインズが短く呟くと、廊下の空間そのものがわずかに歪み、目に見えない位相のズレが生み出された。
正しい魔力のパスを持たない者がここを通ろうとすれば、どれほど真っ直ぐ進んでいるつもりでも、永遠に同じ場所をループし続ける。
(よし、これで内周の防衛ラインもできたな。これだけ多重トラップを仕掛けておけば、どのような隠密が搦め手で忍び込もうと、私の手を煩わせる前に自動で処理できるはずだ)
アインズの眼窩の奥で、ルビーのような赤光が満足げに小さく明滅する。
中身の鈴木悟の思考は、どこまでも冷静にリスクの芽を摘むことに集中していた。
あの国盗りで調子に乗っていた神を返り討ちにしたのはいいが、そのせいでこの隠れ家が周囲の神々の注目を集めてしまうのは、彼にとって最大の誤算であり、絶対に避けたい事態だ。
(あの神を裏で躍らせていた黒幕がいるのか、あるいは本当にただの単独犯なのかは分からん。だが、どちらにせよ私のやるべきことは変わらない。この平穏な拠点と、八意との思い出を、あの騒がしい神々の利権争いで汚させない。それだけだ)
ユグドラシルで長年培ってきた、最悪のトラブルを想定する自衛の回路。それが、異世界の骸骨の王の頭脳の中で、不気味なほど冷徹に機能し続けていた。
◇
すべての防衛トラップの敷設が完了し、要塞の全域に完璧な静寂が戻った頃、アインズは再び一人、静かに執務室の窓辺へと歩み寄った。
結晶の窓の向こう。遥か地平線の先では、大和の神々の軍勢が激しい国盗り合戦を繰り広げている戦火の煙が、魔力感知を通じて薄く伝わってくる。地上の覇権を巡る、神々と妖怪たちの血みどろの戦場。
しかし、アインズが静かに見上げたのは、その血臭の漂う戦場ではなく、夜空の彼方で青白く、そして清浄に輝く巨大な満月だった。
「……そちらの世界は、地上のような騒がしさとは無縁なのだろうな。八意」
誰もいない静まり返った部屋に、アインズの重厚な聲音がぽつりと寂しげに響く。
千年前、あの少女を乗せた宇宙船が月へと飛び立っていったあの夜の光軸。彼女が自分の愛したギルドの名前を大好きだと言って微笑んでくれた、あの温かい記憶。
それだけが、人間性を失っていく不死者の胸の奥に、深く、深く打ち込まれた消えない楔として、今もアインズを突き動かしている。
アインズは、骨の指先に嵌められたサファイアの指輪をそっと撫でた。
「私は、かつて愛した全ての名を背負い、この地上で君との約束を守り続ける。……誰にも、この場所を荒らさせはしない」
彼自身は、ただ一人の放浪の魔法使いとして、大切な昔馴染みとの絆を守るための防衛計画をこなしているだけだった。
だが、物言わぬアンデッドたちを使って要塞の全域に張り巡らされたその絶対的な死の檻は、敗走した先兵たちの恐怖の噂を通じて、大和の将・八坂神奈子や土着の祟り神・洩矢諏訪子の両陣営を激震させる最悪の爆弾として、地上の戦乱を誰も予想しない方向へと狂わせ始めていく。
誤字報告感謝です。