眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
メリメリのことか?…
メリメリのことか…
メリメリのことかーーっ!!!!
大和の進軍部隊が文字通り一瞬にして消滅した事件から、十数年の歳月が流れていた。
その間、八坂神奈子率いる大和の軍勢は、あの漆黒の要塞を避けるようにして慎重に迂回し、周辺の土着神たちの小国を次々と呑み込み続けていた。しかし、地上の主権を賭けた洩矢の王国との決戦が近づくにつれ、後方に厳然と鎮座するあの正体不明の不確定要素を、いつまでも放置しておくわけにはいかなくなっていた。
「――拝命いたしました、神奈子様。我が一族の影の技、あの不浄の遺構を暴くためにすべてを捧げましょう」
大和の本陣の裏、月光すら届かぬ天幕の影で、一人の男が深く平伏していた。
彼の名は御射山。大和の神々のなかでも、気配を完全に絶つ隠蔽の神術と、大気中のわずかな因果を読み解く神格を持つ、神奈子の信頼の厚い極めて優秀な隠密であった。
彼の背後には、同じく何百もの隠密戦を生き抜いてきた精鋭の斥候たちが、物言わぬ影のように控えている。惰性で戦う兵士などいない。彼ら一人一人に、大和の国を拓き、新たな神の秩序をもたらすという、確固たる誇りの動機があった。
神奈子は、巨大な注連縄を背負った背中を向けたまま、冷徹な声音で御射山へ告げた。
「かつてあの場所へ攻め込んだ傲慢な神は、軍勢ごと跡形もなくやられた。他国の偵察隊も誰一人として帰ってこない。……おそらく、あの要塞の主は、こちらの想像を遥かに絶する異常な魔導の遣い手だ。まともに戦う必要はない。ただ、何が潜んでいるのか、その正体と出方だけを正確に持ち帰ってくれ」
「御意。大和の開拓の障害となるならば、どのような化け物であれ、その耳目を欺いてみせます」
御射山は力強く頷くと、次の瞬間には、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、風の音と共に姿を消した。
神奈子は天幕の隙間から不気味に佇む黒の要塞を睨み、その強大すぎる存在感に、内心で冷たい火花を散らしながら思案を巡らせていた。
◇
夜霧が深く立ち込める、要塞の外縁。
御射山率いる大和の斥候部隊は、息の根を止めるかのような完全な静寂を保ち、天に向かってそびえ立つ門の手前へと到達していた。
周囲の原生林は、不自然なほどに静まり返っている。虫の鳴き声も、夜鳥の羽ばたきもない。
そこにあるのは、ただ生命ある存在を根こそぎ拒絶するような、濃厚で、冷え切った死の波動だけだった。
「大将、この先の空気……。ただの古い遺構にはとても思えません。あの精鋭が全滅したというのも、あながち誇張ではなさそうです」
副官を務める若い斥候が、自らの動揺を抑え込みながら、御射山の耳元で低く囁いた。
御射山は細く鋭い瞳で、目の前の黒い空間をじっと凝視した。彼の持つ神術の目は、大気中に張り巡らされた、目に見えない無数の複雑な魔力の糸――アインズが執拗に敷設した認知阻害結界を、うっすらと捉えていた。
「フン、どれほど悍ましい罠が仕掛けられていようと、我が一族の隠蔽の神術を破ることはできん。大和の神々の目を舐めるなよ、不浄の化け物が」
御射山は自らのプライドを誇示するように口元を歪めると、懐から真鍮の特殊な呪符を取り出した。
触れた結界の魔力波動に一時的に自らの神気を完全に同調させ、罠を起動させることなくすり抜ける、大和の超高等な呪術の結晶であった。
「行くぞ。私の足跡を正確になぞれ。一歩でも座標を外せば、地獄を見るぞ」
御射山が呪符を虚空へ掲げると、アインズの認知阻害結界の糸が、ほんのわずかだけ、水面に波紋が広がるように緩んだ。
大和への忠義を胸に、彼らは自らの完璧な勝利を確信しながら、絶対的な死の檻の一歩目へと、静かに足を滑り込ませた。
◇
御射山の放った真鍮の呪符が微かに鳴り、漆黒の門を囲む空気の歪みが、ほんの一瞬だけ左右へと開かれた。
「よし、今だ。駆け抜けろ」
御射山の低く鋭い命令と共に、数人の斥候たちが影の如き手際でその隙間を潜り抜けていく。
彼らの動きは無駄がなく、流れるように要塞の内部――黒い結晶が剥き出しになった、恐ろしいほどに平坦な大回廊へと足を踏み入れた。
一見すると、罠を完全に無効化して侵入に成功したかのように思えた。
実際、周囲の空気に張り巡らされていた魔力の糸は、彼らの身体に触れても何の事象を発することなく、静かに背後で再び閉じ合わされている。
しかし、回廊を進み始めて数十歩が経過した頃、副官の若い斥候が、自らの神符のコンパスを見つめたまま、不意にその足を止めた。
「……大将、少し妙です。私たちは確かに、この直線の回廊を真っ直ぐに北へと進んでいるはずですよね?」
「何を当たり前のことを言っている。私の足跡を外すなと言ったはずだぞ」
「いえ、そうではなくて……。この神符の座標軸の針が、さっきから一歩進むたびに、まるで世界が反転しているかのように真逆の方角を指し示しているんです。それに、あの入り口の門が……」
副官が恐る恐る振り返った先を見て、御射山は目を見開いた。
今しがた潜り抜けたばかりの、あの巨大な結晶の入り口。それが、彼らの背後ではなく、なぜか彼らがこれから進もうとしているはずの、直線の回廊のはるか前方に、まったく同じ姿で忽然と佇んでいた。
「幻術か……!? いや、違う、これはただの視覚の欺瞞ではないぞ。大気中の霊気の位相そのものが、最初から完全に狂っている!」
御射山は自らの卓越した神術の目を極限まで見開き、周囲の空間の因果を読み解こうと試みた。
だが、その目が捉えたのは、彼らの周囲の空間そのものが、まるでパズルのピースのように切り離され、無限に同じ座標をループし続ける空間隔離の檻の正体だった。
彼らが完璧に出力を同調させてすり抜けたと思っていた最初の結界は、侵入者を拒むためのものではなかった。
それは、足を踏み入れた者をこの迷いの座標へと自動的に滑り込ませ、内側から完全にロックするための、アインズが敷設した、最も陰湿なハメ技の最初のステップだった。
「引き返せ! 罠だ! 最初から私たちは、この要塞の術式の手のひらの上で踊らされていたんだ!」
御射山が声を荒らげ、神速の身のこなしで退路へと反転しようとした、まさにその瞬間だった。
彼らが空間隔離の境界線に物理的に接触したことで、アインズが仕掛けておいた、第二の因果の罠が完全にロックを解除した。
パチパチ、と彼らの足元の結晶床から、不気味な黒い魔力の火花が弾ける。
世界そのものが彼らの存在を拒絶するような、圧倒的な死の波動が回廊を満たした。
「――な、何だ、この光は……っ!」
副官の斥候が叫んだ直後、彼らの直上の空間が真っ黒な雷雲へと一瞬で塗り替えられ、そこから一本一柱が神の肉体すら容易く融解させる『万雷の撃滅』が、数十、数百の雷の束となって容赦なく降り注いだ。
ドガガガガガガガガガガガンッッッッ!!!!!
白熱する破壊の閃光が、閉ざされた回廊のなかに凄絶に吹き荒れる。
何百もの死線を潜り抜けてきた大和の精鋭斥候たちは、自慢の隠蔽の神術を防御に回す暇さえ与えられず、その圧倒的な光の濁流のなかで、一瞬にして肉体を分子レベルで灼かれ、悲鳴をあげることすら叶わずに影すら残さず蒸発していった。
「ああ……あ、ああ……っ!」
御射山は自らの全神力を盾に変え、その極大の雷撃の直撃を辛うじて防ぎきったが、その黄金の鎧はボロボロに灼かれ、肌は黒く焦げて地面に膝をついていた。
周囲を見渡せば、共に大和の未来を拓くと誓い合った誇り高き部下たちの姿は、どこにもない。ただ、彼らだったものが一瞬で灰となり、風にさらわれていく白い塵だけが、不気味なほど無機質に回廊を舞っていた。
要塞の中を見るどころか、ただ張り巡らされていた自動の防衛計画に触れただけで、大和の誇る精鋭部隊が、文字通り塵の如く処理された。その絶対的な格の違い、なすすべのない絶望の事実に、御射山の心は完全に叩き折られようとしていたが、
(……まだだ。ここで私が倒れれば、この要塞の脅威を神奈子様へ伝える者がいなくなる。……せめて、敵の首魁の姿だけでも……!)
執念だけでボロボロの肉体を突き動かし、御射山は回廊のさらに奥、要塞の中心部へと繋がる巨大な結晶扉の隙間へと、這うようにして視線を滑り込ませた。
大和の最先端の隠密術を極めた男が、そこで目撃したのは、彼が想像していたような、勝利に沸き立つ化け物たちの姿では断じてなかった。
広大なホールの左右に、幾重にも重なって整然と整列している、数百、数千という圧倒的な数の不死の騎士――デス・ナイトの軍勢。
彼らは巨大な刃と盾を構えたまま、彫像の如く微動だにせず、ただ前方の闇を見つめていた。
呼吸の音もなければ、先ほど侵入者を屠ったことに対する歓喜の囁きもない。衣服を擦り合わせる微かな摩擦音すら存在しないその光景は、戦士たちの集まりなどではなく、ただそこに並べられている無機質な兵器の列だった。
「あ……、あ……」
御射山の口から、乾いた絶望の吐息が漏れた。
自分たちが命懸けで挑み、一瞬で全滅させられたあの理不尽な罠は、この要塞にとっては警備のほんの最外周、ただの自動処理のシステムに過ぎなかったのだ。
その奥には、神奈子率いる大和の全軍を正面から受け止め、なお余りあるほどの、物言わぬ悍ましい不浄の軍勢が、主の命令を一秒の狂いもなく遂行するために静かに待機している。
正面から挑めば、大和の国そのものが、何のリスクも介さずに無造作に踏み潰される。その圧倒的な格の違いを、彼は理解させられた。
これ以上の潜入はただの自殺でしかない。彼は恐怖に引き裂かれそうになる心を必死に繋ぎ止め、自身の神術の残滓をすべて速度へと変換すると、這うようにして要塞の外、夜霧の荒野へと敗走を開始した。
所変わって、夜明け前の静けさに包まれた大和の本陣。
天幕のなかで、八坂神奈子は卓上の地図を見つめながら、御射山たちからの報告を待っていた。
突如として、天幕の幕が乱暴に引き裂かれ、血塗れの生霊のような姿となった男が、滑り込むようにして床へと崩れ落ちた。
「――御射山!? 一体、何があったのだ!」
神奈子が思わず声を荒らげ、その巨大な注連縄を揺らして歩み寄る。
床に倒れ伏した御射山は、もはや神格としての威厳を完全に失い、子供のように涙と鼻水を流しながら、神奈子の衣服の裾へと必死に縋り付いた。
「神奈子様……! 違う!違います……! あの場所は、月の民が去った後の、ただの空き殻などでは断じてありません……っ!」
「落ち着け、御射山。他の斥候たちはどうした。何を見たのだ」
「全滅です……! 姿を見ることも、術を交わすことも叶わなかった……! 張り巡らされていた自動の罠に触れただけで、我が一族の精鋭は一瞬で、消しとばされたのです……! 奥には、数百の物言わぬ不浄の騎士たちが、ただ機械のように並んでいました……。あそこには、触れてはなりません……! あれは、この地上の覇権など歯牙にもかけない、絶対的な、死の魔王です……!!」
御射山は泣き叫ぶようにそう告げると、極限の恐怖と精神の崩壊に耐えかねたのか、そのまま白目を剥いて意識を失った。
静まり返る天幕のなか。
神奈子は、完全に心を叩き折られた懐刀の姿を見つめ、かつてないほどの深刻な沈黙に陥っていた。
(……自動の処理だけで、御射山の部隊を一瞬で消滅させたというのか。しかも、その奥には数百の不浄の軍勢を、一切の意思を持たせぬまま完璧に統率して配下に置いている……)
神奈子は自身の指先が、かすかに震えていることに気付いた。
彼女が完璧にコントロールしているはずの国盗りのチェス盤のすぐ後ろに、一歩でも踏み込めばすべてを無に還す、世界の法則そのものが異なるバケモノが潜んでいる。その事実が、大和の知将の胸に、致命的なリスクの楔を深く打ち込んでいた。
「……あの要塞の主。何物にも縛られぬ孤高の存在か。大和の未来を拓く上で、これほど悍ましい壁はないな」
神奈子は険しい表情で呟くと、地図の上の、あの漆黒の遺構の座標を、バツ印で激しく塗り潰した。
だが、彼らがどれほど警戒し、その不浄の主を避けようとも、後に勃発する神話の決戦――諏訪大戦の最前線は、皮肉にもその要塞の目の前へと設定され、魔王の中立を強制的に引き裂いていくことになるのだった
この作品で一番使われてる魔法が『心臓掌握』じゃなくて『万雷の撃滅』なのは破壊描写が書きやすすぎるから。いい感じの火力、正直『龍雷』でもよかったかもしれない。