眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
重力を完全に喪失した肉体が、夜の冷気を含んだ大気を切り裂きながら、ゆっくりと上空へと上昇していく。
視界が広がるにつれ、地平線の果てまで続く不毛の荒野が、墨を流したような闇の中に沈んでいくのが見えた。ビル群のネオンも、ハイウェイを走る車のライトもない。あるのは、暴力的とも言えるほど鮮烈に輝く星々と、地上を支配する圧倒的な静寂だけだった。
「……信じられんな」
モモンガは、月光を反射して怪しく光る自身の骨の手のひらを開閉した。
風を肌で受ける感覚、大気を通じて伝わる衣服の擦れる音。すべてが、ゲームの精巧な触覚フィードバックなどではなく、冷徹な「現実」の重みを持って五感に訴えかけてくる。
社会人としての明日への不安――朝6時に起き、満員電車に揺られ、上官の罵倒を浴びるという絶望のルーティン――が、未だ脳の片隅で泥のように澱んでいた。だが、それと同時に、この異常事態への困惑が思考をごちゃ混ぜにする。
索敵を開始しようと、さらに高度を上げ、上空を覆う薄い雲の層へと差し掛かった、その時だった。
――バリバリバリバリッ!
突如として、鼓膜を直接破らんばかりの、異質な咆哮が大気を震わせた。
あまりの音圧に、モモンガの神話級ローブが激しくはためく。
雲を割って姿を現したのは、凄まじい質量を持った影だった。
それは、恐竜の獰猛な骨格と、東洋の伝承にある龍のしなやかさを悪魔合体させ、さらに数倍に肥大化させたような、おぞましい鱗を持つ巨獣だった。広げられた翼は、上空の月光を完全に遮るほどに巨大で、その全身から放たれる圧倒的な熱量が、周囲の冷気を一瞬で蒸発させていく。
「チッ、野生のモンスターか――っ!?」
モモンガの眼窩の奥で、ルビーのような赤光が鋭く細められた。
彼はこの時、完全不可知化を維持させていたはずだった。しかし、巨獣の一対の血走った巨大な眼球は、迷いなくモモンガの座標を正確に捉え、剥き出しの凶暴な敵意を向けている。
(魔力を視覚的に捉える能力でもあるのか、あるいは……!)
巨獣が長い首を鎌のようにしならせ、次の瞬間、弾丸のような速度で肉薄してきた。巨大な顎が開き、鋭い牙の隙間から、大気を焼き尽くすほどの熱波が漏れ出す。
迎撃の判断は、思考よりも先に、十年間のゲーム体験によって培われた肉体の反射として下された。
モモンガは、スタッフを握る手とは反対の、左の骨の手を虚空に向けて真っ直ぐに突き出した。
放つべき術式の選択に、一瞬の迷いもない。肉体に染み付いた最高位プレイヤーとしての回路が、瞬時に最適解を導き出していた。
「――『心臓掌握』!」
重厚なバリトンの声が夜空に響くと同時に、モモンガは虚空で、目に見えない何かを力任せに握りつぶす仕草をした。
第九位階。即死系魔術の代表格。
次の瞬間、迫り来ていた巨獣の動きが、唐突に、完全に凍りついた。
巨獣は悲鳴をあげる暇さえ与えられなかった。その血走った眼球から一瞬にして光が消え去り、巨大な翼が力なく折れ曲がる。まるで、全身の操り糸を同時に断ち切られた人形のように、その巨躯は重力に従って、真っ逆さまに地上へと墜落していった。
ズシィィィィィンッッッッ!!
数瞬の遅れの後に、荒野の底から大地全体を揺るがすような、凄まじい地鳴りと衝撃波が上空まで伝わってきた。墜落の衝撃で舞い上がった土煙が、月光に照らされて巨大なキノコ雲のように広がっていく。
静寂が、再び夜の空間を支配した。
「……え?」
モモンガは突き出した骨の手を見つめたまま、呆然と呟いた。
中身である鈴木悟の意識は、そのあまりのあっけなさに、素で戦慄していた。
(即死……!? いや、嘘だろ。これほどの質量を持つモンスターが、即死耐性すら持っていないのか……!?)
ユグドラシルの感覚であれば、これほどの巨躯を誇る個体なら、何らかのパッシブ耐性を備えているのが当たり前だった。即死魔法など、ただのリソースの無駄遣いに終わるはずの相手だ。
この世界のレベル基準は一体どうなっているのか。まさか、自分の放つ最高位プレイヤーとしての魔法が、この世界においては絶対的な天災に匹敵するのではないか。
だが、その驚愕の思考を深める猶予は、世界が与えてくれなかった。
ガラガラガラ、と不吉な破砕音が、足元から連続して響いてきた。
巨獣が墜落した衝撃は、モモンガが想像していた以上に、その周囲の地盤を破壊していたらしい。元々、内部が空洞だったのか、あるいは極めて脆い地層だったのか、クレーター状に陥没した墜落地点を中心に、広大な大地がドミノ倒しのように崩落を始めたのだ。
「うおっ、とととっ!?」
モモンガは咄嗟に『飛行』の出力を調整しようとした。
しかし、現実の肉体として体感する初めての浮遊感に、急激な空間の歪みと視界の乱れが重なり、一瞬だけ身体のバランスを大きく崩してしまった。
運悪く、彼の真下で、地表がぽっかりと巨大な口を開けるようにして陥没した。
それは、地下へと深く続く、漆黒の暗い洞窟だった。
成す術なく、モモンガの巨躯は、崩落する無数の巨石や大量の土砂、そして巨獣の死体と共に、激しい重力の底へと巻き込まれる形で滑り落ちていった。
視界が、一瞬にして完全な暗黒に包まれる。
激しい落石の音が狭い空間に木霊し、凄まじい土煙が視界を遮った。
だが、レベル100の不死者であり、最高位の職業を重ねたオーバーロードの肉体にとって、この程度の物理的な落下ダメージや、巨石の直撃など、皆無に等しかった。ダメージを無効化したことを示す、かすかな魔力の火花が暗闇の中で散るだけだった。
やがて、落石の音が完全に収まり、地下の閉鎖空間に、ぽつん、ぽつんと、どこか遠くで水が滴り落ちる音だけが響き始めた。
モモンガはゆっくりと立ち上がり、神話級ローブに付着した泥や土砂を、骨の手で払った。
アンデッドの基本特性である『暗視』の視界が、漆黒の闇を、白日の下に晒すように鮮明に映し出し始める。
そこは、果てしなく深い、地下の巨大な洞窟の底だった。
(ふぅ……焦った。心臓に悪いわ、そもそも心臓なんてないけれど。……さて、ここはどこだ?)
周囲を索敵するために一歩を踏み出した、その時だった。
静まり返った地下の闇の奥から、かすかな、しかしあまりにも痛切な「異音」が聞こえてきた。
――小さな、小さな、子供の嗚咽だった。
ぽつん、ぽつんと、どこか遠くの岩肌から水滴が滴り落ちる音が、静まり返った地下の閉鎖空間に冷たく反響している。
その不快な水音に混じって聞こえてくるのは、子供の泣き声だった。
(……人間の、子供?)
不死者の基本特性である暗視の視界が、光なき漆黒の闇を見通し、数メートル先の巨大な落石の陰に丸まっている小さな影を鮮明に捉えた。
そこにいたのは、一人の小さな人間の女の子だった。年齢は十歳に満たないほどだろう。衣服は原始的な仕立てに見えるが、よく見ればどこか精緻な織物でできている。
何より特徴的だったのは、その頭部だった。中央に不気味な赤い十字の模様が描かれた、不思議な形状の帽子を被っている。彼女はその帽子を小さな両腕でぎゅっと抱え込み、冷たい地面に体育座りをしたまま、ガタガタと小刻みに肩を震わせていた。
(なんでこんな、恐竜がのし歩くような場所に子供が一人でいるんだ? 迷子か、それとも――)
モモンガの内心にいる鈴木悟は、激しく困惑していた。
もし、現実世界の鈴木悟であれば、間違いなく慌てて駆け寄り、心配そうに声をかけていただろう。
だが、それ以上に彼を驚かせ、背筋を凍らせたのは、自分の胸の奥が恐ろしいほど冷え切っているという冷徹な事実だった。
目の前で、可哀想な幼い子供が声を殺して泣いている。
それだというのに、今のモモンガの心には「可哀想だ」とも「助けなければ」ともいう感情が、一ミリたりとも湧き上がってこないのだ。ただの、地面に転がっている無機質なオブジェクトを見つめているかのように、心の針がピクリとも動かない。
(私は……本当に、人間じゃなくなってしまったのか? 心まで、完全に化け物に……)
人間性の喪失という恐るべき事実に、モモンガの思考が停止しかけた、その瞬間。
シュウゥゥ……。
またしても、自身の視界を冷たい緑の光が包み込んだ。
己への恐怖によって昂りかけたパニックが、強制的にフラットな凪の境地へと均されていく。
心が強制的に冷徹に戻されたことで、モモンガはかえって、サラリーマンとしての理性と良識を無理やり引きずり出した。
心が痛まないからといって、目の前の迷子の子供を見捨てるような真似は、鈴木悟としてのプライドが許さない。たとえ心はアンデッドでも、行動まで悪に染まる必要はないはずだ。
一歩、前へ踏み出す。
骨の足音が、コツリと静かに地下の闇に反響した。
「ひっ……!」
少女が弾かれたように顔を上げた。
涙で真っ赤に腫れた瞳が、モモンガの眼窩の奥で怪しく明滅する、赤光の魔力と真っ直ぐに交錯する。
「だ、だれ……?」
今にも消え去りそうな、かすれた震える声。
モモンガは声をかけるべきか、一瞬激しく躊躇した。自分のこの禍々しいバリトンボイスと骸骨の姿を見れば、間違いなくパニックを起こして逃げ出すか、ショック死してしまうかもしれないと思ったからだ。
だが、放っておくわけにもいかない。なるべく威圧感を与えないよう、営業職時代の営業スマイルを意識して(骨なので表情は一切変わらないが)、それでも必死に声音を落として尋ねたつもりだった。
「……怪我は、ないか」
しかし、その重低音は、暗い洞窟の中に不気味に響き渡るだけだった。
「あ、あなたは……う、うぅ……うわぁーん!」
少女はたどたどしく立ち上がると、恐怖のあまり完全に錯乱したのか、あるいは孤独の限界を超えて心が壊れかけていたのか、ふらふらとモモンガに向かって突っ込んできた。
そして、あろうことか、その巨大な骸骨の細い腰へと、小さな手でぎゅっと縋り付いたのだ。
「え、ちょ……おい!?」
モモンガは完全に棒立ちになった。内心の鈴木悟は大パニックだ。
(ちょ、ちょっと待て! なんで化け物の私に抱きついてくるんだ!? 暗くて私の顔が目に見えてないのか、それとも大人の人間と勘違いしてるのか!? 普通、叫んで逃げるだろ!?)
頭がパンクしそうになるたび、視界の端を冷たい緑の光が過る。
泣き続ける小さな背中を見つめながら、モモンガは存在しない息を吐き出すようにして、おずおずと、不器用でぎこちない骨の手を彼女の背中に添えた。どうやって子供をあやせばいいのか分からない、独身サラリーマンの必死の手つきで、ゆっくりと、とん、とんと叩く。
「うぅ……うえーんっ……ぐすっ、こわかった、こわかったよぅ……」
衣服からは、どこか優しい、薬草のような大自然の匂いがした。
(ああ、もう訳が分からない! 明日の朝には出社しなきゃいけないっていうのに、なんで私はこんな不気味な穴の底で、知らない子供に泣きつかれてるんだよ……!)
現実への未練と現状への困惑が脳裏をかすめるが、まずは目の前の現実に対処せねばならない。
「……もう、大丈夫だ。怪獣は、私がすべて処理した。……君、名前は?」
少女はモモンガの硬い胸の骨に小さな頭を押し付け、声を上げて泣きじゃくりながらも、モモンガの骨の手を、まるで世界で唯一の命綱であるかのようにぎゅっと握り返してきた。
その必死な力強さだけが、今の鈴木悟にとって、自分がここに存在しているという唯一の、現実的な感覚だった。
「な、なまえ……? 私、八意の氏族の……。でも、まだ子供だから、正式な名前なんて、なくて……」
「八意、か」
モモンガはその響きに、かすかな引っかかりを覚えた。どこかで聞いたことがあるような、知識の片隅にあるような名前。だが、今は深く追及する時ではない。
「名前がないなら、今はそう呼ばせてもらう。……とにかく、こんな暗い場所にいつまでもいるわけにはいかない。ここから出るぞ」
モモンガは彼女の小さな、泥に汚れた手をそっと握り、体内の魔力に意識を向けた。
「――『飛行』」
魔法を再び発動すると、足が冷たい地面を離れ、重力を無視してゆっくりと上昇していく不思議な浮遊感が二人を包み込んだ。
八意の少女は、生まれて初めて体験するであろう空中散歩に、驚きのあまり声を失って目を丸くし、小さな身体を硬直させていた。しかし、その手だけは、モモンガの無機質な骨の指を壊れそうなほど強く握りしめている。
やがて二人の身体が陥没した大穴から地表へと這い上がると、不毛な荒野の向こうに、青白く、そして不気味なほど巨大な満月が、忽然と夜空に浮かび上がった。
公害のない超古代の星空は、まるで暴力的なまでの解像度で瞬き、冷たい月光が二人の影を不毛の大地に長く引き延ばす。
「じゃあ、君の住む街まで送ろう。どちらの方向だ?」
モモンガが営業職の癖で、努めて穏やかなトーンで問いかけた、まさにその時だった。
――ゴォォォォォォンッッッッ!!!!
突如として、上空の歪んだ大気が悲鳴を上げた。