眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
大気を満たす、ユグドラシルには存在しなかった異質のエネルギーに眉をひそめ(骨なので動かないが)、混乱する頭を必死に抑えながら周囲の索敵を開始した、その時だった。
上空の雲を切り裂き、異形な咆哮が響き渡った。
見上げれば、恐竜と東洋の龍を悪魔合体し、さらに肥大化させたような、おぞましい鱗を持つ巨獣が翼を広げていた。それは、完全不可視化を維持しているはずのモモンガを、狂暴な血走った眼で正確に睨みつけている。この世界の生物は、魔力を視覚的に捉える能力でもあるのだろうか。
「チッ、野生のモンスターか!? ――『心臓掌握』」
パニックを強引に押し殺し、身体に染み付いたロールプレイの経験だけで放った第九位階の即死魔法。
モモンガが虚空で骨の手を「握りつぶす」仕草をした次の瞬間。巨獣は悲鳴をあげる暇さえなく、まるで操り糸を同時に切られた人形のように地上へと墜落し、そのままズシンと重い音を立てて事切れた。
「えっ……即死!? いや、嘘だろ、こんなに強そうなモンスターが即死耐性すら持っていないのか……!?」
あまりのあっけなさに、中身の鈴木悟は素で戦慄した。ユグドラシルの感覚であれば、これほどの巨躯を持つモンスターなら、何らかのパッシブ耐性を持っているのが当たり前だったからだ。この世界のレベル基準は一体どうなっているのか。だが、驚愕する間もなく、巨獣が墜落した衝撃によって、元々脆かった足元の地盤がガラガラと大きな音を立てて崩落を始める。
モモンガは咄嗟に『飛行』の出力を調整しようとしたが、現実の肉体として体感する初めての浮遊感に一瞬だけバランスを崩してしまった。
「うおっ、ととと!?」
運悪く、足元にぽっかりと開いた地下の暗い洞窟。その底へと、崩落する無数の巨石や土砂に巻き込まれる形で、モモンガは成す術なく滑り落ちてしまった。
◇
ぽつん、ぽつんと、どこからか水が滴り落ちる音が暗闇に響いている。どれほど落盤に巻き込まれようとも、レベル100のオーバーロードの肉体には、落下ダメージなど皆無に等しかった。
モモンガは高級なローブの土を払いながら、周囲を警戒した。
アンデッドの基本特性である『暗視』の視界が、漆黒の闇を見通し、数メートル先にある小さな影を鮮明に捉える。そこには、一人の小さな、人間の女の子がいた。年齢は十歳に満たないほどだろうか。衣服は原始的だがどこか精緻な織物でできており、絹のような白い髪が暗闇に浮かび上がっている。頭には、中央に赤い十字の模様が描かれた、不思議な形状の帽子。彼女はその帽子を小さな両腕でぎゅっと抱え込み、地面に体育座りをして、ガタガタと小刻みに肩を震わせていた。
時折、静まり返った地下に聞こえる小さな嗚咽。それは、鈴木悟がこれまでに味わってきた、サラリーマンとしての絶望や孤独よりも、ずっと生々しく、痛切な悲痛の響きを持っていた。
(……人間の、子供? なんでこんな、恐竜がのし歩くような場所に子供が一人でいるんだ?)
モモンガは激しく困惑した。だが、それ以上に彼を驚かせたのは、自分の胸の奥が恐ろしいほど冷え切っているという事実だった。目の前で、可哀想な幼い子供が泣いている。現実の鈴木悟であれば、間違いなく慌てて駆け寄り、声をかけていただろう。だが今の彼は、彼女を見ても「可哀想だ」とも「助けなければ」とも思わないのだ。
ただの、地面に転がっている無機質なオブジェクトを見ているかのように、心が微塵も動かない。
(私は……本当に、人間じゃなくなってしまったのか? 心まで、完全に化け物に……)
その圧倒的な「無感情」に対する恐怖。人間性の喪失という事実に、モモンガの思考が停止しかける。
シュウゥゥ……。
またしても身体を冷たい緑の光が包み込んだ。心が強制的にフラットに戻されたことで、モモンガはかえって、サラリーマンとしての理性と良識を無理やり引きずり出した。
心が痛まないからといって、迷子の子供を見捨てるような真似は、鈴木悟としてのプライドが許さない。たとえ心はアンデッドでも、行動まで悪に染まる必要はないはずだ。一歩、前へ踏み出す。骨の足音が、コツリと静かに反響した。
「ひっ……!」
少女が弾かれたように顔を上げた。二人の視線が真っ直ぐに交錯する。涙で真っ赤に腫れた瞳。モモンガの眼窩の奥で怪しく明滅する、赤光の魔力。彼女はそれを、ただただ圧倒的な恐怖に満ちた目で見つめていた。
「だ、だれ……?」
今にも消え去りそうな、かすれた震える声。モモンガは声をかけるべきか、一瞬激しく躊躇した。自分のこの禍々しいバリトンボイスと骸骨の姿を見れば、間違いなくパニックを起こして逃げ出すか、ショック死してしまうかもしれない。しかし、放っておくわけにもいかない。
「……怪我は、ないか」
なるべく威圧感を与えないよう、営業スマイルを意識して(骨なので表情は変わらないが)、これでも必死に声音を落として尋ねたつもりだった。だが、重低音は暗い洞窟の中に不気味に響き渡るだけだった。
「あ、あなたは……う、うぅ……うわぁーん!」
少女はたどたどしく立ち上がると、恐怖のあまり完全に錯乱したのか、あるいは孤独の限界を超えて心が壊れかけていたのか、ふらふらとモモンガに向かって突っ込んできた。そして、あろうことか、その骸骨の細い腰へと、小さな手でぎゅっと縋り付いたのだ。
「え、ちょ……おい!?」
モモンガは完全に棒立ちになった。内心の鈴木悟は大パニックだ。
(ちょ、ちょっと待て! なんで化け物の私に抱きついてくるんだ!? 暗くて私の顔が目に見えてないのか、それとも大人の人間と勘違いしてるのか!? 普通、叫んで逃げるだろ!?)
「うぅ……うえーんっ……ぐすっ、こわかった、こわかったよぅ……」
少女はモモンガの硬い胸の骨に小さな頭を押し付け、声を上げてワンワンと泣きじゃくっている。衣服からは、どこか優しい、薬草のような自然の匂いがした。何度も必死に考える。なぜこんな場所に子供が一人でいるのか。迷子か、それとも捨てられたのか。しかし、今の自分にはこの世界の地理も、文明のレベルも、何一つ分からない。
(ああ、もう訳が分からない! 明日の朝には出社しなきゃいけないっていうのに、なんで私はこんな不気味な穴の底で、知らない異世界の子供に泣きつかれてるんだよ……!)
頭がパンクしそうになるたび、冷たい緑の光が視界を過る。泣き続ける小さな背中を見つめながら、モモンガはため息をつくように、おずおずと、不器用でぎこちなく骨の手を彼女の背中に添えた。どうやって子供をあやせばいいのか分からない、独身サラリーマンの必死の手つき。ゆっくりと、とん、とんと叩く。
「……もう、大丈夫だ。怪獣は、私がすべて処理した。……君、名前は?」
「な、なまえ……? 私、八意の氏族の……。でも、まだ子供だから、正式な名前なんて、なくて……」
「八意、か」
モモンガはその響きに、かすかな引っかかりを覚えたが、深くは追及しなかった。
「名前がないなら、今はそう呼ばせてもらう。……とにかく、こんな暗い場所にいつまでもいるわけにはいかない。ここから出るぞ」
モモンガは彼女の小さな、泥に汚れた手をそっと握り、飛行の魔法を再び発動した。足が地面を離れ、重力を無視してゆっくりと上昇していく不思議な浮遊感。八意の少女は驚きのあまり声を失い、目を丸くしていたが、モモンガの骨の手を、まるで唯一の命綱であるかのようにぎゅっと握り返してきた。その必死な力強さだけが、今の鈴木悟にとって、自分がここに存在しているという唯一の、現実的な感覚だった。