眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
陥没した暗い大穴から、ゆっくりと重力を無視して上昇していく浮遊感。
八意の少女は、生まれて初めて体験するであろう空中散歩に、小さな身体を硬直させていた。しかし、その手だけはモモンガの無機質な骨の指を壊れそうなほど強く握りしめている。
やがて二人の身体が地表へと這い上がると、不毛な荒野の向こうに、青白く、そして不気味なほど巨大な満月が忽然と夜空に浮かんでいた。公害のない超古代の星空は、まるで暴力的なまでの解像度で瞬き、冷たい月光が二人の影を不毛の大地に長く引き延ばす。
「じゃあ、君の住む街まで送ろう。どちらの方向だ?」
モモンガが営業職の癖で、努めて穏やかなトーンで問いかけた、まさにその時だった。
ゴォォォォォォンッッッッ!!!!
突如として、上空の歪んだ大気が悲鳴を上げた。
前方の闇を切り裂き、直撃コースで降り注いだのは、直径数メートルはあろうかという超高熱の極大火炎球。それがモモンガたちの直近の地面へと激突し、凄まじい地響きと共に大爆発を起こした。
「きゃああああっ!」
激しい衝撃波と、地表を焼き尽くす熱風。
レベル100の不死者であるモモンガの肉体は微動だにしなかったが、爆風に煽られた八意の小さな身体が、モモンガの手を離れて後ろへと激しく吹き飛ばされた。
鋭いシダ植物の群生に背中を打ち付けられ、絶望に目をみはる少女。
もうもうと立ち込める赤黒い爆煙の向こう。そこから姿を現したのは、先ほどモモンガが『心臓掌握』の一撃で容易く仕留めた巨獣のつがい、あるいは同族と思われる、さらに二回りほど巨大な超巨大ドラゴンだった。仲間を殺された怒りに狂ったその眼窩は血走っており、鋭い牙の隙間から、次の破壊の炎をチロチロと漏らしながら咆哮している。
(ああ、あの不思議な優しい人も、私のせいで巻き込まれて消えてしまった……。私が、勝手に外に出たから。私は、やっぱりダメな子供だったんだ……)
燃え盛る周囲の炎を見つめながら、少女は自らの死を確信し、静かに恐怖に身をすくめて目をつぶった。
しかし、その瞬間。
周囲の熱気を一瞬で凍りつかせるような、冷徹で、地を這うような短い詠唱が、激しい炎の爆音を圧殺して響き渡った。
「――『三重最強化・爆裂』」
ドガァァァァァァァンッッッッ!!!!
次元の違う超大爆発が、ドラゴンの巨躯の直上で炸裂した。
それはただの火炎ではない。ユグドラシルの魔力そのものが、物質の構造を直接崩壊させる純粋な破壊の奔流。先ほどドラゴンが放った炎など、ただの子供の火遊びに思えるほどの極大の光と熱が、夜空を一瞬だけ昼間のように白く染め上げた。
衝撃が収まり、砂煙が吹きすさぶ風にさらわれて晴れていく戦場。
そこには、神話級のローブを僅かに焦がすこともなく、ただ圧倒的な絶対者としての威容で佇むモモンガの姿があった。
地上の絶対的な王であったはずの巨大なドラゴンは、肉片一つ、骨の一片すら残さず、文字通り塵となってこの世から消滅していた。
「え………な……んで……」
呆然と座り込む八意の前に、モモンガは静かに歩み寄った。
その足取りは重々しく、まさに魔王そのものの威厳に満ちていたが――その内心の鈴木悟は、
(うわあああ危なかった! 咄嗟に防御魔法が間に合ってよかったけど、もしこの子に当たってたら一発で消し飛んでたぞこれ!? マジで心臓に悪いわ、そもそも心臓ないけど!!)
と、全身から冷や汗を流さんばかりに大パニックを起こしていた。
ドクン、と感情が跳ね上がった瞬間、例の冷たい緑の光が視界をよぎる。
スン……とフラットになった頭脳で、モモンガは少女の前にしゃがみ込み、赤い眼窩の光を優しく落として目線を合わせた。
「……怪我はないな? しつこい野生動物だ、まったく。少し驚かせてしまったな」
「あ、あなたは……一体、何者なの……?」
怯え、そしてそれを遥かに上回る、神仏や世界の理を仰ぎ見るかのような圧倒的な『畏怖』を瞳に宿した八意の問い。
骸骨の王は、これからの自分の身の振り方、そして「明日仕事に行けない、クビになるかもしれない」というサラリーマンとしての致命的な現実への不安を必死に隠しながら、重々しく、芝居がかった口調で答えた。
「私はモモンガ。……ただの、旅の魔法使いだ」
(うわああああん! どうしよう! 格好つけて名前名乗っちゃったよ! でもこんなむき出しの骸骨の姿で、もしこの子の町になんて行ったら、それこそ一発で魔王襲来って騒ぎになって軍隊とかに囲まれるだろ!)
内心で盛大に頭を抱え、のたうち回る鈴木悟。しかし、そこは地獄のディストピア世界で、海千山千の取引先を相手に営業スマイルを張り付かせてきたベテランサラリーマンである。極限状態になればなるほど、そのハッタリと機転の回路が高速で回転を始める。
(落ち着け、鈴木悟。変身魔法を常時維持するのは魔力の無駄だ。それに、この世界にどんな探知魔法があるか分からない以上、幻術の類は見破られた時のリスクがデカすぎる。とにかく、この骨の顔さえ隠せば……そうだ、旅の途中で大怪我を負って、顔を包帯で隠している学者か何かのロールプレイでいこう。営業職で培ったハッタリと口八丁があれば、異世界の住人の目くらい乗り切れるはず……!)
モモンガは、周囲に転がっている先ほどの爆裂魔法で焦げた大木の、頑丈で厚みのある樹皮をベリベリと力任せにむしり取った。さらに、自身のストレージ(アイテムボックス)から、ユグドラシル時代に何かの素材として放り込んでいた素朴な端切れの布地を取り出す。
そして、必死の形相で、その焦げた樹皮を仮面のように顔に当て、上から端切れの布をぐるぐると巻きつけて固定した。さらに、最高級ローブの大きなフードをガサリと目深に被る。
八意の少女は、目の前で急に怪しい不審者、あるいは大怪我を負ったミイラ男のような姿に変貌していく命の恩人を、ただただ不思議そうに、丸い目で見つめていた。
「モモンガさん……? 何を、しているの……?」
「……ゴホン。気にするな、八意。少し、昔の古い傷がな……この大気の実りに反応して、突然激しく痛み出してね。私はわけあって、素顔を他人に晒せない呪いのような身なのだ。見苦しいものを見せてすまない」
「そうなの……? 素顔が見られないのは残念だけど、お傷が痛むなら、無理しちゃダメだよ……?」
少女はとても純粋な、そして心から気遣うような瞳で納得してくれた。
モモンガは心の中で(よし、騙されてくれた! サンキュー営業トーク!!)と盛大に安堵のため息をついたのだった。
こうして、余裕も自信も一切ない、明日への出社を諦めきれない一人の日本のサラリーマン(ただし、最強の魔法使い)と、まだ自分の本当の名前さえ持たない、後に月の頭脳と呼ばれる幼き天才少女の、奇妙な二人組は少しの信頼を勝ち取ったのだ。