眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
あの満月の夜から、数十年という時間が流れていた。
都市から遠く離れた、鬱蒼とした大樹の森の奥深く。
モモンガはユグドラシルの技術を使用し、外見をただの質素な岩窟の庵に偽装した拠点を築いていた。その内部は、最上位の隠蔽魔術と防衛トラップで病的なほどに固められている。
「……ふぅ。これで今月の報告書の整理は終わり、か」
仮面と布で顔を完全に隠した巨大な異形――モモンガは、存在しない息を吐きながら、羊皮紙を閉じた。
あの夜から数十年。
モモンガ――中身の鈴木悟は、この原始的でありながら、異常なテクノロジーを持つ奇妙な世界で生き抜く腹を括っていた。日課は、社会人時代の習慣を活かした周囲の生態系と人類の動向の観察である。誰に見せるでもない書類を積み上げることで、彼はかろうじて自身の人間性を繋ぎ止めていた。
コツ、コツ、と庵の入り口から、聞き慣れた足音が響いた。
「モモンガさん、いる? 八意よ。入るわね」
防衛結界のパスをすり抜けて入ってきたのは、数千年前のあの夜よりも背が伸び、白髪の髪を大人っぽく編み込んだ八意だった。
あの白い巨大都市から、大人の目を盗んで定期的にこの僻地まで足を運んでくる、モモンガにとっての唯一の話し相手だ。彼女は手にした籠から、見たこともない奇妙な発光する薬草や、計測機器のパーツを取り出して机に並べた。
「これ、都市の医療班からこっそり融通してもらった調剤。貴方の『顔の傷』に効くかは分からないけれど、少しは役立つはずよ」
「ああ、いつもすまないな、八意。本当に、君のその、深い優しさにはいつも感謝してばかりだよ」
モモンガは営業用の重厚な声で応じながら、内心では激しい冷や汗を流していた。彼の顔は傷ついているのではなく、ただの肉のない骸骨だ。この最高級の近未来の薬は、使わずにアイテムボックスに溜まっていく一方だった。アンデッドの精神安定の光が脳内で弾け、彼の焦燥を冷徹に凪がせていく。
「しかし、君の国のテクノロジーはやはり凄いな。私のいた。遠い異国の知識と照らし合わせても、まるで思想が違う」
「そう? 私は、モモンガさんの話してくれる異国の魔法の方がずっと合理的で、美しいと思うけれど」
八意は庵の椅子にちょこんと腰掛け、嬉しそうに目を輝かせた。彼女は都市の中でも突出した頭脳を持つがゆえに、周囲の大人たちからは一目置かれつつも、どこか腫れ物のように扱われていた。彼女にとって、自分の並外れた知性と対等に言葉を交わし、時に見たこともない深遠な魔法の理論を教えてくれる仮面のモモンガこそが、世界で唯一の理解者だったのだ。
二人の会話は、小難しい話題から、やがてとりとめのない雑談へと移っていく。その夜、ふとした拍子に、モモンガの口からかつての居場所の話が漏れた。
「……私のいた場所にはね、昔、たくさんの仲間がいたんだ。皆、それぞれに仕事が忙しくて、最後は私一人になってしまったのだがね。……賑やかで、馬鹿騒ぎをして、とても、温かい場所だった」
仮面の奥の眼窩が、遠い夜空を見るように寂しげに明滅する。守るべきナザリックのNPCがいないこの世界だからこそ、鈴木悟としての純粋な、仲間を思う気持ちが、八意の前でだけは、ぽろぽろと零れ落ちていた。
八意はその話を、静かに、一言も聞き漏らさないように見つめていた。
「モモンガさん。その仲間たちの集まりには、何か、名前があったの?」
「名前、か。……ああ。『アインズ・ウール・ゴウン』。それが、私たちのギルドの……いや、私の家の名前だったよ」
モモンガ、というプレイヤー名ではなく、彼が人生で最も愛した、41人の仲間たちの結晶。その響きを口にしただけで、彼のアンデッドの胸が、かすかに疼いたような気がした。
「『アインズ・ウール・ゴウン』……」
八意は、その未知の異国の響きを、口に出して確かめる。そして、等身大の少女としての、とても優しい微笑みを仮面の魔法使いに向ける。
「素敵な名前ね。貴方にとって、その『アインズ・ウール・ゴウン』という名前は、とても大切で、何があっても守りたかった、温かい場所の名前なのね。私は、その名前、とても好きよ」
「……っ」
モモンガは、形だけ息を呑んだ。アンデッドの肉体になってから、何を見ても心が驚くほど冷え切っていた。人間の死を見ても、自分の孤独を見つめても、システムが冷徹に心を平坦に均していった。
だが、今、この八意が、自分がかつて愛した全ての価値を、確かに認めてくれた。
その瞬間、モモンガの心の中に、強制的精神安定の光すら突き破るような、熱く、確かな人としての情が、楔のように深く打ち込まれたのだった。
(ああ、そうか。私は一人だけど、この名前を、私たちがいた証を、覚えていてくれる人が、この世界に一人だけ……増えたんだな)
「ありがとう、八意。そう言ってもらえると、救われるよ」
モモンガの声音に、演技ではない、一人の人間としての本物の優しさが滲む。八意は少し照れくさそうに笑い、庵の窓から見える、夜空の満月を見上げた。
「ねえ、モモンガさん。いま、都市の上層部で、地球を離れて月へ移住するっていう計画が動いているの。その計画の実行日になったら、その時は、モモンガさんも一緒に、月へ行きましょう?」
「月、か……。それは、随分と遠い場所だな」
「大丈夫、私の技術で、貴方の顔の傷だって完全に治してあげる。だから、ね?」
少女の純粋な、未来への約束。モモンガは、仮面の奥で静かに微笑んだ。
「ああ。考えておこう」
その約束が、やがて生存をかけた妖怪たちの大襲撃によって血と炎に塗れ、そしてアンデッドという己の肉体の穢れゆえに、あまりにも残酷な形で引き裂かれる結末になることを――この時の二人は、まだ知る由もなかった。