眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
「――やはり、私の知る術式とは根本的に構造が異なるな」
フードを目深に被ったモモンガは、卓上に浮かべた魔法言語の羅列を見つめながら、重厚な声を響かせた。
その視線の先では、八意が持ち込んだ結晶型のデータ端末が、大気中の微細な霊気の流れを青い折れ線グラフで示している。
「モモンガさんの魔法は、世界のシステムそのものに直接アクセスして、あらかじめ用意されたプログラムを呼び出しているように見えるわ。でも、この地球のエネルギーは、もっと流動的で……そう、古くからこの地に棲まう、生物や妖怪たちの原始的な感情、縄張り意識のような熱量を含んで息づいているの」
若き賢者としての相貌を見せるようになった八意は、細い指先で顎を支え、グラフの一箇所を鋭く指差した。彼女が記録していたのは、地上に広がる豊かな自然のエネルギーと、そこに潜む数多の妖怪たちの生々しい生態分布のデータだった。
モモンガは、そのグラフに刻まれた波形に、微かな嫌悪感を覚えていた。
人間性を失いつつある不死者の肉体が、そのエネルギーの本質を察知している。それは、ユグドラシルにおけるアンデッドの属性とは相反する、あまりにも濃厚で生々しい生の残滓であり、この地上を古くから支配する妖怪たちの、圧倒的な生命の胎動そのものだった。
(……いや、今はその調査よりも、彼女への報酬が先か)
モモンガはローブの袖から、骨の指先をそっと突き出した。その手のひらの上には、銀色の細い金属を編み込み、中央に小粒のサファイアを嵌め込んだ、質素ながらも洗練された意匠の指輪が乗っている。
「八意。君が毎回持ってきてくれる調剤や機材への、私からのささやかな返礼だ。受け取ってほしい」
「これは……指輪? マジックアイテム、なの?」
八意の瞳が、好奇心と微かな驚きに丸くなる。
「ああ。私の故郷の技術で作られた精神集中を補助するマジックマイテムだ。君が都市のラボで複雑な計算をするときなどは、この指輪の魔力が君の思考をクリアに保ち、疲労を大幅に軽減する。私のいた世界では、低レベルの生産職が好んで使っていた品に過ぎないが、君の役に立てばと思ってね」
実のところ、中身の鈴木悟としては、毎回高価な月の医薬品を無償で提供してくれる彼女に対して、ただで情報を貪るだけのクズにはなりたくないという、義理立てであった。せめて取引の対価として、すこしは実用的なアイテムを贈るのが、最低限のマナーだと考えていたのだ。
「低レベルのの生産職が……? モモンガさん、冗談でしょう?」
指輪を手に取った八意の顔つきが、一瞬にして冷徹な学者のそれへと変貌した。
彼女が都市の特殊な計測ゴーグルを瞳に装着した瞬間、指輪の周囲を取り囲む、目に見えないほど緻密な術式の多重構造が露わになったのだ。
「……信じられない。これ、金属の分子構造そのものに、幾何学的な命令文が何千行も直接刻み込まれているわ。それも、この指輪自体の質量や体積を一切無視して、空間の裏側にプログラムが折り畳まれている……。これがその程度の評価になるだなんて、貴方の国は、一体どれほど高度な場所だったの……?」
八意は指輪を胸元にぎゅっと抱きしめ、その白い髪を小さく揺らしながら、畏怖を通り越して、心からの感動にその瞳を潤ませていた。
「……そうか。喜んでくれたのなら、作った甲斐があったというものだ」
モモンガは重々しく頷いたが、脳内で緑の光が瞬き、努めて動揺を隠そうとしていた。
しかし、その思考の裏側で、鈴木悟としての孤独な心は、自分の贈った些細な物をこれほどまでに愛おしそうに見つめてくれる彼女の存在に、確かな救いを感じていたのだった。
◇
実験の合間、八意が持参した月の試作飲料を口にする(口の中でアイテムボックスにぶちこむ)静かな時間が流れていた。
だが、その平穏は、庵の最外周に配置された警戒結界の一柱が、音もなく消滅したことで破られた。
「……っ」
モモンガのフードの奥で、ルビーのような赤光が鋭く細められた。
ゲーム時代のようなシステムログの警告画面など、視界にはどこにも現れない。しかし、自身に紐づいた魔力の糸がプツリと切断された感覚と、最外周に仕掛けていたダメージ反撃用の罠が完全に不発に終わった冷たい手応えが、モモンガの脳へ直接伝表わってきた。
(私の隠蔽結界と、相応のダメージを与える罠を一瞬で無効化したな。どうやら、この地に古くから巣食う縄張り意識の強い妖怪が、私の纏う強大な負の魔力に引き寄せられて排除しにきたようだ……。実に野生の本能に忠実なことだ)
「モモンガさん? どうかしたの?」
机の上の機材を片付けていた八意が、モモンガの僅かな空気の変化を察知して顔を上げた。
「いや、何でもない。……八意、今日の話はここまでにしよう。少し、周囲の大気の流れが乱れているようだ。君はこれ以上夜が深まる前に、都市の防衛圏内へ戻るんだ」
「乱れている……? 私の端末には、異常な数値は出ていないけれど……」
「私の勘だ。長年、世界の境界を歩いてきた魔法使いの直感だよ。……さあ、行きなさい」
モモンガの有無を言わせぬ重厚な声音に、八意は一瞬だけ不満そうに唇を尖らせたが、先ほど贈られた指輪を愛おしそうに撫整えると、素直に頷いた。
「分かったわ。モモンガさんがそう言うなら、従う。……またしばらくしたら、新しいレポートを持ってくるから。無理はしないでね」
「ああ、君もな。八意」
彼女が庵の隠蔽障壁を抜け、都市の方向へと確実に離れていくのを、モモンガは広域探知魔術による魔力波の残滓で冷徹に監視し続けた。
彼女の反応が、完全に安全圏である地点へ到達したのを肌で感じ取った瞬間、モモンガはスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを右手で固く握り締めた。
「さて……。アポなしの不法侵入者への対応と行こうか。社会人時代ならば不審者通報が定石だが、この世界には警察もいないからな」
漆黒のローブを翻し、モモンガは庵の外、月光すら届かぬ暗黒の原生林へと、音もなく滑り出すように足を踏み出した。