冬の東京は、蓮が記憶していたよりもずっと寒かった。
空港の自動ドアを抜けた途端、乾いた冷気が頬を撫でる。銀城蓮はジャケットのポケットへ両手を突っ込み、白くなった息を眺めながら僅かに眉を寄せた。アメリカを発つ前に日本は寒いと聞かされてはいたが、実際に肌で感じるのとは話が違う。
「寒……」
【だからアメリカにいりゃよかったんだよ】
頭の奥から聞こえてきた声を、蓮は無視した。右手でキャリーケースを引きながら人の流れに沿って歩いていると、数秒も経たないうちに不機嫌そうな声がもう一度響く。
【おい。聞こえてんだろ】
『聞こえてるよ。いちいち返事しなくてもいいだろ』
【だったら最初から返せ。無視されんのムカつくんだよ】
『面倒くさいな……』
傍から見れば、銀色がかった髪の少年が一人で歩いているだけだった。口を開いているわけでもなければ、イヤホンをつけているわけでもない。二人分の言葉はすべて、蓮の頭の中だけで交わされている。
いつからこうだったのかは覚えていない。
気がついた頃には、自分の中にはもう一人いた。
理由を考えたことがないわけではない。ただ、答えの出ないことをいつまでも考え続けるほど、蓮は自分たちの状態を特別なものだとは思っていなかった。朝になれば目を覚まし、腹が減れば飯を食い、眠くなれば寝る。そこにもう一人分の声がある。それが銀城蓮にとっての日常だった。
【で、日本に帰ってきて何すんだよ】
『学校』
【それは知ってる】
『じゃあ聞かないでよ』
【……やっぱアメリカ帰るか】
『着いたばっかりだろ』
蓮は小さく息を吐き、人混みの向こうへ視線を向けた。
日本での生活が、始まった。
帰国して数日が経った。
三年生の冬という中途半端な時期に転入したところで、中学校生活に残された時間はそう長くない。クラスでは帰国子女というだけで最初こそ質問攻めに遭ったものの、それも数日で落ち着いた。授業を受け、昼休みになれば近くの席の生徒と飯を食い、放課後になれば家へ帰る。高校も既に正邦高校への進学が決まっている以上、受験に追われることもなかった。
【暇だな】
帰り道を歩いていると、予想していた通りの言葉が聞こえてきた。
『平和でいいじゃないか』
【どこがだよ。朝から学校行って、座って、帰るだけじゃねえか。何がおもしれえんだ】
『学校ってそういうところだろ』
【知らねえよ。俺は嫌いだ】
『僕だって好きとは言ってないよ』
蓮が呆れながら返したところで、乾いた音が耳に届いた。
足が止まる。
一定の間隔で繰り返される、聞き慣れた音だった。硬い地面へ叩きつけられたボールが跳ね返り、また誰かの手によって押し戻される。その音に混じって、男たちの声とシューズが地面を擦る音も聞こえてきた。
【……おい】
『分かってる』
道路から少し奥まった場所に、小さな公園があった。金網で囲まれたバスケットコートでは、大学生くらいに見える男たちが三対三をしている。整備された体育館とは違い、地面はアスファルト。リングもネットが少し傷んでいる。
それでも、蓮の足は自然とそちらへ向いた。
【やろうぜ】
『制服なんだけど』
【脱げばいいだろ】
『ここで?』
【なんで全部脱ぐ前提なんだよ。上着だよ】
『分かってるよ』
そんなやり取りをしながら金網の外まで来たところで、コートから放たれたシュートがリングに弾かれた。長く跳ねたボールはそのまま入口を抜け、転がりながら蓮の足元で止まる。
「悪い! 取ってくれ!」
コートの中から声を掛けられ、蓮は腰を屈めてボールを拾った。
指先に伝わるざらついた感触。掌に収まる重さ。久しぶりというほど間が空いていたわけでもないのに、それだけで妙に落ち着いた。
片手で投げ返すと、ボールを受け取った男が「サンキュー」と手を上げる。そのままゲームが再開されるかと思ったが、一人が膝へ手をついて大きく息を吐いた。
「無理。ちょっと休ませて」
「は? まだ全然やってねえだろ」
「昨日飲みすぎたんだって」
「知らねえよ、そんなもん」
笑い声が起こる。その中の一人が何気なく金網の外を見て、まだそこに立っていた蓮と目を合わせた。
「兄ちゃん、バスケできる?」
「僕ですか?」
「そうそう。人数合わせでいいから入んない?」
【やる】
『僕に聞いてるんだけど』
【俺もお前だろ】
『そういう時だけ都合よく一緒にしないでよ』
蓮は自分の制服を見下ろしてから、足元のスニーカーへ目を向けた。少し考えた末、キャリーケースを邪魔にならない場所へ移動させ、ジャケットをその上に置く。
「上手くないですけど、それでもよければ」
【……お前、よくそんな嘘を平然と言えるな】
『初対面で上手いですって言う方がおかしいだろ』
【俺なら言う】
『知ってる』
「全然いいって。遊びだから」
コートへ入ると、男からボールを渡された。蓮は右手で一度だけドリブルをつき、跳ね返ってきたボールを掌へ収める。もう一度。今度は左手へ移し、指先で感触を確かめるように低く弾ませた。
自然と口元が緩んだ。
「じゃあ、やろうぜ」
「はい」
顔を上げた蓮の灰銀色の瞳が、コートを見渡した。
ゲームが再開されてから、一分も経たないうちにコートの空気が変わった。
「……え?」
味方の男が間の抜けた声を漏らした。その手には、いつの間にか蓮から送られたボールが収まっている。しかもゴール下で、目の前には誰もいない。
「打ってください」
「あ、ああ!」
慌てて放ったシュートがリングを通る。得点した本人は首を傾げていたが、蓮はもう自陣へ戻り始めていた。
【下手くそ】
『入ったんだからいいだろ』
【あれ外したらヤバいだろ】
『そういうこと言わないの』
次の攻撃が始まると、蓮は腰を落としながらコートへ視線を広げた。
正面にボールを持った相手がいる。しかし、蓮が見ているのはその男だけではない。
右奥に一人。左に一人。背後には味方が二人。六人それぞれの位置が、頭の中で一つの図として繋がっていく。
正面の男の右足に力が入った。肩が僅かに落ち、視線が蓮の左側へ向く。
次の瞬間には、蓮が半歩だけ動いていた。
「っ……!」
右へ抜こうとしていた男が急停止する。行こうとした場所を先に塞がれ、仕方なく横へボールを逃がした。
パスを受けた別の男がリングを見る。その瞬間、蓮は自分のマークではなく味方へ声を飛ばした。
「右に一歩」
「え?」
「そのまま右です」
何を言われているのか分からないまま、味方が一歩ずれた。
直後、シュートフェイクからドライブへ切り替えた相手が、まるで自分から飛び込むようにその正面へ入る。
「うわっ」
接触を避けようとして体勢を崩した相手の手から、ボールがこぼれた。
「取れます」
言われるより一瞬遅れて、味方が床のボールに気づく。拾った瞬間には、蓮はもう前へ走り出していた。
「前!」
ボールを受ける。
正面には一人。右側を味方が走っているが、そこへ出せば守備に追いつかれる。左側にはまだ誰もいない。
それでも蓮は、迷うことなく左へボールを放った。
「は?」
誰かの声がした。
一見すれば、誰もいない場所へのパスだった。
しかしボールがそこへ届く直前、右を走っていたはずの味方が進路を変えて飛び込んでくる。
「うおっ!?」
パスを受けた本人が一番驚いていた。
勢いのままレイアップを決め、着地してから振り返る。
「いや、待って。なんで俺がこっち来るって分かった?」
「空いてたので」
「それは俺も途中で気づいたんだけどさ。お前、俺が気づく前に投げてただろ?」
蓮は少し考えてから、首を傾げた。
「来ると思ったから?」
「いや、だからなんで――」
【説明してやれよ】
『どう説明すればいいの』
【知らねえ】
『じゃあ黙っててよ』
質問への答えを諦めた蓮が守備へ戻ると、男は納得できない顔をしながらその背中を追った。
そこから数分もしないうちに、誰もが無意識に蓮へボールを預けるようになっていた。
蓮が大声で指示を出したわけではない。自分にボールを集めろと言ったわけでもなかった。ただ、一度その手を経由したボールは、不思議なくらい簡単に味方を楽にした。
今空いている場所ではない。数秒後に空く場所へ。
味方が欲しいと気づいた瞬間ではない。その少し前へ。
走っている本人さえまだ選んでいない進路の先へ、当たり前のようにボールが届く。
次第に味方の動きまで変わり始めた。最初は半信半疑だった男たちが、蓮なら見ていると信じて走るようになる。走ればボールが来る。ボールが来ると分かれば、さらに思い切って動ける。
一人が変われば、もう一人も動く。
気づけば、即席で組んだはずの三人が最初から一緒にプレーしていたかのようにボールを回していた。
蓮はそれが楽しかった。
【……くだらねえ】
だからこそ、頭の奥から聞こえた声に眉を寄せる。
『楽しいだろ』
【どこがだよ。さっきから人に打たせてばっかじゃねえか】
『入るならそれでいいじゃないか』
【お前が行った方が早い】
『三人いるんだから、三人でやった方がいいだろ』
【三人いることと三人使うことは別だ】
『そういう考え方だから嫌なんだよ』
【勝ちゃ同じだろ】
『違うよ』
そこだけは、蓮も譲らなかった。
正面から守備が寄ってくる。蓮は右手でボールを運びながら一度だけリングを見た。相手が僅かに後ろへ重心を置く。その瞬間に左へ切り返し、空いた中央へ入り込む。
ヘルプが来た。
もう一人も寄る。
二人に挟まれる直前、蓮は背中側からボールを外へ逃がした。視線はリングへ向けたまま。それでもパスは、フリーになった味方の胸元へ正確に届く。
「マジかよ……!」
受け取った男がシュートを決め、声を上げた。
蓮も笑う。
『ほら。これでいい』
しばらく返事がなかった。
珍しく諦めたのかと思ったところで、低い声が返ってきた。
【……代われ】
蓮の笑みが薄れる。
『嫌だ』
【まだ何も言ってねえだろ】
『言ったじゃないか』
【一分でいい】
『絶対一分で返さないだろ』
【細けえな】
『前もそれで――』
【蓮】
声の調子が変わった。
蓮は口を閉じる。
頭の中にいる以上、相手が今どんな気分なのかは嫌でも分かる。さっきまで退屈そうに眺めていただけだったもう一人が、いつの間にかコートへ興味を向けていた。
それが何を意味するのかも、蓮は知っている。
『駄目だよ』
【……チッ】
舌打ちを最後に、声が消えた。
蓮はプレーを続けながら、ほんの僅かに眉を寄せる。静かになったからといって、諦めたとは限らない。むしろ素直に引いた時ほど怪しい。
「次、ラスト一本な!」
誰かが声を上げた。
蓮は意識をコートへ戻し、「はい」と返事をする。
相手がボールを持つ。味方が動き出す。右、左、奥。六人分の位置と、その次の動きが頭の中で静かに繋がっていく。
灰銀色の瞳が、コート全体を捉えた。
その視界を共有しながら、もう一人の銀城蓮もまた同じ景色を見ている。
ただし、その目に映っているものは蓮とは違った。
蓮が五人の動きを見ている間。
もう一人は、目の前の一人だけを見ていた。