練習試合から数日が経った。
銀城の変化について、正邦の中で改めて問い詰める者はいなかった。津川だけは時折思い出したように「あの時のお前って何だったの」と聞いてきたが、そのたびに蓮が曖昧に笑って流しているうちに、少なくとも練習中に話題へ上がることは減っていった。ただし忘れられたわけではなく、春日は以前より蓮を見るようになり、松元も練習中の様子を注意深く観察している。
それでも二人が何も言わない以上、蓮からわざわざ説明する理由もなかった。もう一人の蓮に至っては、自分の存在を隠し通そうという緊張感すらほとんど持っていない。
【別にバレても俺は困らねえけどな】
『僕が困るんだよ』
【何が?】
『説明するの大変じゃん』
【物心ついた頃から頭ん中にもう一人います、で終わりだろ】
『それで納得してくれる人いると思う?』
【知らねえよ】
朝の教室でそんな会話をしながら、蓮は机の上へ教科書を出した。日本へ戻ってきたばかりの頃に比べれば学校生活にも少しずつ慣れ、正邦の制服を着て電車へ乗り、授業を受け、放課後になれば体育館へ向かうという繰り返しも、いつの間にか日常になり始めている。
放課後、蓮が体育館へ入ると、すでにコートでは上級生たちが準備を始めていた。少し遅れてやってきた津川が蓮の横へバッグを置き、シューズへ履き替えながら何気なく口を開く。
「今日、紅白戦やるらしいよ」
「そうなんですか?」
「春日さんが言ってた。インターハイ予選も近いし、そろそろメンバー決めるんじゃない?」
蓮はコートの奥にいる松元へ視線を向けた。高校へ入学してからまだそれほど時間は経っていないが、バスケット部にとっては新入生がチームへ馴染むのを悠長に待っていられる時期でもない。インターハイ予選が始まれば、負けた時点で夏への道が終わる。
正邦には昨年までの主力が多く残っている。岩村、春日、坂本、大室を中心にすでにチームの形があり、そこへ一年生の津川と蓮が入ってきた以上、新しい選手を使うためにそれまで積み上げてきたものを捨てるのではなく、誰をどこへ加えれば正邦が最も強くなるのかを見極める必要があった。
「集合!」
岩村の声が体育館へ響き、選手たちがコート中央へ集まった。全員を見渡した松元は、今日は後半を紅白戦へ充てること、予選に向けていくつかの組み合わせを試すため途中で何度もメンバーを変えることを説明し、出ていない選手にも自分がどこへ入るか考えながら見るよう指示した。
アップから基礎練習へ進み、その後に行われた五対五の確認では、蓮がボールを持つ時間が以前より明らかに増えていた。入部したばかりの頃は春日が正邦の攻撃を組み立て、その中へ蓮を加える形が多かったが、練習試合以降は蓮をPGへ置き、春日を別の組へ回す時間が増えている。
理由を説明されなくても、自分へゲームを作らせようとしていることくらい蓮にも分かった。
トップでボールを受ければ、視界の中に十人の位置が一つの配置として広がる。岩村が左のローポストへ入り、大室が反対側からハイポストへ上がろうとする一方で、坂本は右のウイングへ開き、津川はコーナーからベースライン沿いに動き始めていた。守備側もそれぞれへ反応しているが、蓮にとってそれらは別々の動きではなく、一つの配置が次の形へ変わっていく過程として見えている。
大室についていた守備がハイポストへ一歩ついていった。その一歩によってゴール下に空間が生まれるより早く、蓮の右手からボールが押し出される。
「津川」
「うおっ」
まだベースラインへ一歩目を踏み出したばかりだった津川の前へボールが通り抜け、受け取った時にはすでに守備の背後へ出ていた。そのままレイアップを沈めた津川は、戻りながら少し不満そうに蓮を見る。
「相変わらず早いんだよ、パス」
「入ったからいいじゃないですか」
「取れなかったら俺のせいみたいになるじゃん」
「取れるところに出してますよ」
「それが怖いって言ってんの」
文句を言いながら自陣へ戻っていく津川の背中を見ていると、蓮の内側から声が聞こえた。
【あいつ、前より動くの早くなったな】
『津川?』
【お前が出す場所、分かってきてんだろ】
言われてみれば、以前の津川は蓮から飛んでくるパスを見てから慌てて合わせることが多かった。それが今は、蓮がどこを見ているのか完全には分からなくても、空間が生まれそうな場所へ先に動こうとしている。
『ちゃんと見てるんだ』
【俺じゃなくてお前のバスケだろ。お前が気づけよ】
『意外とよく見てるよね』
【殺すぞ】
『褒めたのに』
そんなやり取りを続けながら練習は進み、休憩を挟んで紅白戦が始まった。発表された最初の組み合わせを見た蓮が僅かに眉を上げたのは、同じチームに春日の名前があったからだった。
PGの春日と蓮を同時に入れる形は、練習試合の第3Qでも一度使われている。ただし、あの時にコートへ出ていたのはもう一人の蓮であり、春日がゲームを作ることで銀城を得点役へ専念させるための配置だった。今は表の蓮が出ているにもかかわらず、松元は二人を同じチームへ入れている。
「春日さん、僕がPGでいいんですか?」
「監督に聞けよ」
「いや、春日さん嫌じゃないのかなって」
春日は一瞬だけ蓮を見たあと、呆れたように笑った。
「何で俺がお前とPGの取り合いしなきゃいけねえんだよ。お前がゲーム作った方がいいならお前がやればいいだろ。俺がコートから消えるわけじゃねえんだから」
蓮が返事を探している間に、春日はそのまま自分の位置へ歩いていった。少し離れた場所から二人を見ていた松元も特に口を挟まず、やがて紅白戦開始の合図が出る。
蓮がトップでボールを持ち、春日は右サイドへ回った。守備側はすでに《天瞰眼》の厄介さを知っているため、単純にパスコースを消すのではなく、蓮自身へプレッシャーをかけて自由にコートを見せないよう距離を詰めてくる。
【抜けよ】
『まだいいよ』
【目の前空いてんだろ】
『分かってる』
守備がさらに半歩近づいたところで、蓮は左手から右手へドリブルを切り替え、一歩だけ右へ踏み込んだ。それだけで正面の守備の重心が動き、隣にいた選手も突破を警戒して中央へ意識を向ける。蓮にとっては一人目を完全に抜き切る必要などなく、その一瞬に生まれた空間へ春日が入った時には、すでにパスが届いていた。
春日は受け取ってもすぐにはシュートへ行かず、自分へ寄ってきた守備をさらに引きつけて左の岩村へボールを落とした。岩村がゴール下で決めると、春日は戻りながら蓮へ声をかける。
「今の、俺じゃなくてもよかっただろ」
「春日さんが一番早かったんで」
「そういうとこだよ」
「何がですか?」
「別に」
春日は笑ったまま自陣へ戻っていった。
次の攻撃では、蓮が左へ展開したあと、そのままボールから離れた。パスを受けた坂本が守備に詰められると春日が近くへ寄り、ボールが渡った瞬間には蓮の視界の中で次の配置が完成しかけている。
「春日さん!」
「分かってる!」
春日は逆サイドへボールを振った。その先へすでに走り込んでいた津川が受け取り、迷わずシュートを沈める。
蓮が直接アシストした得点ではない。それでも、自分が最初に動かした配置の続きを春日が読み、さらにその先で津川が得点する感覚は蓮にとって新鮮だった。
『すごい』
【何が】
『春日さん。僕が全部やらなくても、続きを作ってくれる』
【そりゃPGなんだからできんだろ】
『そうなんだけどさ』
自分の《天瞰眼》は、コート全体を見て最適な場所へボールを送る。それが強力な武器であることは蓮自身も分かっていたが、だからといって正邦の攻撃すべてを自分一人で組み立てなければならないわけではない。自分が一つ目を作った先を春日が作り、春日が相手を動かした変化を今度は自分が拾えばいい。
二人が交互にボールへ触れるたび、守備側はどちらを基準に配置を整えればいいのか分からなくなっていった。
ベンチからその様子を見ていた松元は、銀城をPGへ置くこと自体にはもう迷う必要がないと考えていた。問題は、その時にこれまで正邦のPGを務めてきた春日をどう使うかであり、一年生と三年生をそのまま入れ替えるのが最も単純な方法ではある。
しかし、単純であることと最も強いことは同じではない。
春日は銀城ほど広く先を見られるわけではなく、《天瞰眼》のように十人の次の動きを捉えることもできない。それでも正邦というチームを長く知っており、岩村がどこで身体を張りたがるのか、大室がどの位置なら動きやすいのか、坂本がどのタイミングでシュートへ入るのかを経験として理解している。それは一年生の銀城が、入部して数週間ですべて置き換えられるものではなかった。
何より、春日は銀城のパスを受ける側にも回れる。銀城が作った最初のズレを春日が次へ繋げられるのなら、二人を同時に使う意味は十分にあった。
「なるほどな」
松元は小さく呟き、紅白戦の途中で一度メンバーを入れ替えた。
今度は春日がPGへ入り、蓮はボールを持たない位置へ回される。
「銀城」
松元がコートの外から声を飛ばした。
「自分がPGじゃない時に何ができるか見せろ」
「はい!」
蓮は右ウイングへ立ち、春日がボールを運ぶのを見ながら、自分がどこへ動けば守備の配置を変えられるかへ意識を向けた。自分で最初の判断をする必要がない分、今度は一人の選手として《天瞰眼》で見えている空間の中へ入り込めばいい。
春日が右へドリブルすると、蓮は一度コーナーへ下がるように動いた。守備の視線がボールへ向いた瞬間に中央へ切り返せば、ほとんど同時に春日からパスが飛んでくる。
受けた瞬間、リングまでの道が開いていた。
【行け】
『うん』
蓮は一人目の外側へドリブルを入れ、ヘルプが完全に出るより早く身体をリングへ向けた。裏の蓮ほど暴力的な加速でもなければ、接触の中で姿勢を自在に作り直せるわけでもないが、表の蓮自身の個人技も決して低い水準ではない。守備の肩を抜き、遅れて伸びてきたヘルプの手を避けながら、ボールをバックボードへ置いた。
「できるじゃん」
得点を終えて戻ってきた蓮へ、春日が声をかけた。
「何がですか?」
「人に使われるの」
「僕だってできますよ、それぐらい」
「お前、自分で全部見えるから勝手に動かしたがるだろ」
「そんなことないです」
【あるだろ】
『うるさい』
頭の中へ反射的に言い返したところで、春日が不思議そうにこちらを見ていることに気づいた。
「どうした?」
「何でもないです」
「最近それ多いな、お前」
蓮は苦笑しながら守備へ戻った。
紅白戦が終わる頃には、体育館の窓から差し込んでいた夕方の光もかなり弱くなっていた。選手たちを集めた松元は、今日試した形をこれからも続けると告げ、銀城を1番へ置く形、春日を1番にして銀城を外へ出す形、そして二人を並べる形のどれか一つへ決めるつもりはないと説明した。
「相手によって変える。試合の流れでも変える。正邦には正邦のやり方があるが、新しく使えるものをわざわざ捨てる必要もない」
松元の視線が蓮へ向く。
「銀城」
「はい」
「お前はPGだ。ただし、PGだからボールを持たなきゃ何もできない選手にはなるな。《天瞰眼》がなくても、お前自身にできることはある。そこは忘れるな」
「……はい」
続いて松元は春日へ視線を移した。
「春日。銀城が入ったからって、お前の仕事がなくなったと思うなよ」
「思ってないっすよ」
「ならいい」
春日は少し笑って答えた。
練習が終わり、選手たちが片づけを始める中、蓮はボールを籠へ戻しながら松元に言われた言葉を思い返していた。アメリカでもPGとしてプレーすることは多かったが、日本へ戻って初めて入った高校で、チームの監督から「お前はPGだ」とはっきり認められることには少し違う意味があった。
【嬉しそうだな】
『まあね』
【たかがポジションだろ】
『蓮はどこでもいいもんね』
【勝てるならな】
『僕はPGがいい』
【知ってる】
即答され、蓮は少しだけ笑った。
『だから4番ずっとやるの嫌だったんだよ』
【うるせえな。もうやらねえよ】
『ほんと?』
【必要ならやる】
『どっちなの』
頭の中で言い合いながら体育館の出口へ向かうと、その少し前を春日と津川が歩いている。正邦へ入った時には、自分がこのチームでどこに立つのか分からなかったが、今は少しだけ分かるようになっていた。
銀城蓮は、正邦のPGになる。
それは春日から何かを奪って座る場所ではない。春日がいて、津川がいて、岩村たちがいる正邦の中へ自分のバスケットを加え、このチームをもっと強くするために立つ場所だった。
【結局、お前も勝たせたいんじゃねえか】
『違うよ』
【何が】
『僕は、みんなで勝ちたいんだって』
【同じだろ】
『全然違う』
いつものやり取りを続けながら、蓮は体育館を出た。
インターハイ予選は、もうすぐそこまで近づいていた。
次も見てね。