インターハイ東京都予選が始まった。
会場となった体育館には朝からいくつもの高校が集まり、入口からコートへ続く通路にもユニフォーム姿の選手が行き交っていた。観客席ではすでに始まっている試合を他校の部員たちが見下ろし、体育館の中にはボールが床を叩く音とホイッスル、応援の声が絶えず響いている。アメリカで大会へ出た経験なら何度もある蓮にとっても、日本の高校へ入って初めて迎える公式戦の空気は新鮮だった。
その中を歩く正邦の選手たちに、浮き足立った様子はない。岩村や春日たち上級生にとっては何度も経験してきた大会であり、一年生の津川も緊張しているようには見えなかった。
「銀城、初公式戦で緊張してる?」
隣を歩いていた津川に聞かれ、蓮は周囲から視線を戻した。
「別にしてないですよ」
「ほんとに?」
「津川こそ一年生でしょ」
「俺はこういうの平気」
「僕も平気です」
「お前ら、一年の初公式戦でもうちょい可愛げ出せよ」
前を歩いていた坂本が振り返り、大室もその横から蓮を見る。
「銀城はアメリカで試合してたんだろ?」
「はい。でも、日本の高校の大会は初めてです」
「ならちょっとぐらい緊張してもいいだろ」
「無理にするものなんですか?」
蓮が笑うと、大室は呆れたように肩をすくめた。そんな会話をしながら控室へ向かう間にも、周囲から何度か視線が向けられている。最初は銀色がかった髪が珍しいだけかと思ったが、岩村や春日を見ながら何かを話している選手もいることに気づき、どうやら自分ではなく正邦という学校そのものが見られているらしいと分かった。
昨年までの実績を持つ強豪として、正邦高校の名前は蓮が思っていた以上に知られていた。対戦相手でなくとも、同じ東京都予選へ出場している以上は勝ち上がればぶつかる可能性があり、岩村たちの顔を知っている選手も少なくない。
ただし、その中で銀城蓮だけは知られていなかった。
「誰だ、あの一年」
「去年いなかったよな」
「新入生じゃね?」
すれ違った選手たちの声が聞こえてきたが、蓮は振り返らずに歩き続けた。
【誰もお前のこと知らねえな】
『そりゃそうでしょ。日本で中学バスケやってないんだから』
【楽でいいじゃねえか。最初だけ好きにやれる】
『出てくるつもり?』
【今のところねえよ。お前で勝てるなら、俺がやる意味ねえだろ】
『そういうところは意外と大人しいよね』
【喧嘩売ってんのか?】
『褒めてるんだけど』
返事の代わりに舌打ちが聞こえ、蓮は小さく笑いそうになった。
控室へ入って準備を済ませると、松元から今日の先発が告げられた。PGに銀城、SGに津川、SFに坂本、PFに大室、Cに岩村。春日はベンチスタートとなり、練習の中で何度も試してきた新しい形が、公式戦でも最初から使われることになった。
蓮がゲームを作り、津川が相手の外を潰す。岩村たちが正邦本来の守備を支えながら、攻撃には《天瞰眼》という新しい武器を加える。ただし松元が銀城へ求めているのは、コートの後ろからパスを配るだけの役割ではなかった。
「銀城」
「はい」
「公式戦だからって変なことする必要はない。いつも通りやれ」
「分かりました」
「パスだけじゃないぞ。自分で行けるなら行け。相手が何を捨ててるのか見ろ」
「はい」
続いて津川へ「まず相手の得点源を潰せ」と指示すると、津川の返事だけが妙に大きく控室へ響き、坂本が横で笑った。
春日はベンチから二人を見ていたが、自分が先発から外れたことを気にしている様子はない。蓮と目が合うと顎を少し上げ、コートの方を示した。
「ちゃんと作れよ、PG」
「はい」
「詰まったら代われ」
「詰まりませんよ」
「言うようになったな」
春日が笑い、蓮もそのままコートへ向かった。
選手入場を終え、センターサークルを挟んで相手と向き合う。観客席から聞こえる声も、試合開始を待つ審判の姿も練習試合とは少し違って見えたが、ボールが中央へ投げ上げられれば、蓮の意識はすぐにコートの中だけへ切り替わった。
岩村が競り合ったボールを坂本が拾い、そのまま蓮へ渡す。相手がハーフコートへ戻り、それぞれのマークを探し始める中で、蓮の視界には十人の位置と動きが一つの配置として広がっていた。
左を走る坂本に守備がつき、大室を見ていたフォワードは中央へ戻ろうとしている。岩村についていくセンターの後ろでは、右サイドを走る津川と相手SGの間が僅かに開き始めていた。相手SGがボールを持つ蓮へ一度だけ視線を向けたことで、津川の次の一歩へ反応するのが遅れたのだ。
守備が完全に整うのを待つ理由はなかった。
「津川」
名前を呼んだ時には、すでにボールが蓮の右手を離れていた。
「おっ……!」
津川がベースラインへ向かって踏み出した先へパスが通り、追っていた守備が反応した時にはすでにボールを受けている。そのままレイアップを沈めた津川が「ナイス、銀城!」と声を上げながら戻ってくると、相手側のベンチから蓮へ向けられる視線が早くも少し変わった。
「今日はちゃんと取れた」
「いつも取ってるじゃないですか」
「公式戦一発目だから一応ね」
軽く言い合いながら自陣へ戻り、今度は正邦が守る番になる。
蓮が加入したからといって、正邦がそれまで持っていた強さまで別物になったわけではない。相手の得点源には津川がつき、ドライブへ入ろうとする進路へしつこく身体を入れていく。嫌がった相手が一度ボールを逃がして別の場所から攻め直そうとしても、中には岩村が構え、大室と坂本も簡単には正邦の形を崩さなかった。
「うわ、しつこ……!」
「まだ何もしてないじゃん」
相手の嫌そうな声にも津川は楽しそうに笑っている。無理に打たされたシュートがリングを外れ、大室がリバウンドを確保した瞬間には、坂本が左を走り、津川が右へ上がり、岩村も中央を追っていた。
大室からボールを受けた蓮は、相手が先ほど津川に走られたことを警戒して右側へ早く戻っているのを見ていた。左の坂本にも一人がついたことで中央へ戻る守備の位置が僅かにずれ、その空間へ岩村が入ってくる。
少し遅れて走り込んできた岩村の前へボールを通すと、相手センターが戻るより先にゴール下へ入った岩村がそのまま得点する。二本続けて守備が整う前に崩されたことで、相手ベンチから「まず戻れ」と声が飛んだ。
次の攻撃では、蓮は逆に速度を落とした。
相手が全員戻ったことを確認してトップへ入り、岩村をローポスト、大室をハイポストへ置き、坂本と津川を左右へ広げる。速攻を警戒していた相手は今度こそ守備を整えたが、蓮にとっては整った配置もまた次の形へ変化する途中に過ぎない。
右へ視線を向ければ相手PGの意識もそちらへ寄り、その反対側へ坂本が動く。蓮は坂本へ送り、そこから大室へボールが渡る間に岩村が位置を変えた。岩村へ入ったボールに守備が寄り、外へ戻された時には最初に右へ広がっていた津川の前から守備が消えている。
「津川!」
「また俺!?」
「打って!」
津川が迷わず放ったシュートはリングへ一度当たり、そのまま中へ落ちた。
最初の三本を、津川、岩村、そしてまた津川が決めた。蓮自身はまだ一度もシュートを打っていないが、三つの得点すべてに違う形で関わっている。
ベンチから見ていた春日は、その様子に小さく笑った。
「嫌だろうな、あれ」
「何がですか?」
「誰止めりゃいいか分かんねえだろ。銀城見たら先に出されるし、受ける奴見たら別のとこ空くし」
そして相手は、そこで最初の間違いを犯した。
銀城が三本続けて味方を使ったことで、パスを最優先する選手だと考えたのだろう。次に蓮がトップでボールを持った時、正面のPGはドライブへ対応する距離ではなく、少しでも広くパスコースを見られる位置へ下がった。
【舐められてんぞ】
『別に舐めてるわけじゃないでしょ。僕がまだパスしかしてないから』
【同じだろ】
『じゃあ、行こうか』
蓮は右手で一度だけボールを強く床へ叩いた。
守備が腰を落とすより早く、最初の一歩でその間合いを消す。右へ入ると見せた肩の向きに相手が反応した瞬間にはドリブルが左へ切り替わり、次の一歩で身体が横を抜けていた。
「なっ……!」
置き去りにされたPGが振り返った時には、蓮はすでにペイントエリアへ入っている。ヘルプのフォワードが正面へ出たが、蓮は左へ逃げるように見せて相手の足を動かし、その外側からもう一度リングへ角度を作った。
二人目まで抜かれたことでセンターがゴール下から前へ出てくる。それでも蓮は接触する直前に踏み切り、伸びてきた腕より先に右手からボールを放つと、バックボードへ高く当てられたシュートがリングへ落ちた。
相手PGは、まだゴール下まで戻れていなかった。
蓮は得点そのものには大きく反応せず、すぐに守備へ戻ろうと身体を反転させる。その横を通った津川が、少し笑いながら声をかけた。
「普通に自分でも行けるじゃん」
「普通には余計じゃない?」
「だってずっとパスしてたし」
「空いてたから出してただけだよ」
会話を聞いていた相手PGの表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。パスを止めるために距離を取った結果、一対一で簡単に破られただけでなく、ヘルプに入った二人目まで処理され、その先のセンターを避けて得点まで終えられた。
銀城蓮は、優れたパサーだから危険なのではない。個人で守れば、それだけでも十分に守備を崩せる選手が、最初から自分で決めることへ固執せず、コート全体を見てより確率の高い選択肢を使っている。その違いを理解した時には、相手にとって守らなければならないものそのものが増えていた。
【最初からやりゃいいんだよ】
『なんで? 津川たちが空いてたのに』
【お前、自分で行った方が早い時もパスするだろ】
『それは蓮でしょ』
【俺は自分で行った方が早けりゃ行く】
『僕だってそうだよ』
【嘘つけ】
『ほんとだって』
内側で言い返しながら、蓮は守備へ入った。
次の相手の攻撃では、今度は蓮自身がボールへついた。相手PGは先ほど抜かれたことを取り返すようにドリブルを仕掛け、スクリーンを使って右へ抜けようとする。
蓮はスクリーナーとの間を抜けるのではなく、身体の向きから次にボールが出る位置を読み、先に進路を変えた。相手がスクリーンを越えて前を向いた時には再び正面へ入り直しており、切り返そうとしたところへ右手を伸ばす。
弾かれたボールを津川が拾い、そのまま前へ走る。蓮も横を駆け上がり、戻ってきた守備が津川を止める一人と蓮の前へ戻る一人、さらに中央からもう一人を寄せてきたところで、津川からボールが返ってきた。
二人の守備が蓮へ向かって狭まる。
それを見た蓮はリングへ向かう速度を落とさないまま、左手からボールを外側へ押し出した。
「坂本さん!」
「ナイス!」
後ろから走ってきた坂本が受け取り、そのままゴールまで持ち込む。相手にしてみれば、一人では抜かれたから二人を寄せたはずだったが、蓮は無理に二人を相手にせず、空いた選手へ出しただけだった。
春日はベンチでその一連の流れを見ながら、練習の時にも感じていたことを改めて理解していた。
銀城の厄介さは《天瞰眼》だけではない。パスを警戒すれば本人に破られ、本人を止めようとすれば《天瞰眼》によって空いた場所へ送られる。それだけでも十分に面倒だが、さらに厄介なのは、銀城自身がどちらか一方へ固執していないことだった。
自分で抜けるから抜くのではなく、パスが好きだから必ずパスをするのでもない。その時、正邦が最も簡単に点を取れる方を選んでいる。
「……そりゃPGやらせるよな」
春日が小さく呟いた。
その後も正邦の攻撃は止まらなかった。相手が蓮へ強く出れば、その背後へボールが通り、受け手を先に消そうとすれば蓮自身が一対一を仕掛ける。ヘルプが早くなれば、その動きまで《天瞰眼》の中へ組み込まれ、次に空く場所が変わるだけだった。
守備では津川が相手の得点源を追い続け、岩村が中を締め、大室と坂本が正邦の形を崩さない。入部した直後なら蓮が先に見つけた場所へボールを送っても受け手が反応し切れないことがあったが、練習を重ねた今では、正邦の選手たちも銀城ならどこへ出してくるのかを少しずつ理解し始めている。
銀城にしか見えていない景色を、全員が同じように見る必要はない。銀城が先を見るのなら、その先へ動けばいい。
そうして《天瞰眼》が正邦の中へ馴染み始めたことで、銀城蓮というPGは入部した直後よりもさらに厄介な存在になっていた。
第1Qを終えた時、スコアボードには正邦 31-12 相手校と表示されていた。
初めて公式戦のコートへ立った銀城と、今年から先発へ入った津川を含む正邦の主力は、最初の10分だけで19点の差を作っていた。
ベンチへ戻ってきた蓮に春日がタオルを投げると、蓮は片手で受け取りながら隣へ腰を下ろした。
「楽そうだな」
「そう見えます?」
「見える。お前、練習の方が困ってるだろ」
「正邦の人たち、僕のパス知ってますからね」
「相手もそのうち知るぞ。ていうか、もうパスだけ見てりゃいい奴じゃないってバレたけどな」
「隠してたわけじゃないですよ」
「知ってるよ」
春日が笑っている横で、松元はスコアボードを一度確認してから立ち上がった。
「2Qからメンバーを落とす。岩村、坂本、大室、銀城、津川は一旦下がれ。春日、お前だけ入って控えを回せ」
「はい」
蓮は少し意外に思って松元を見たが、すぐに意図を理解した。東京都予選は今日だけで終わる大会ではない。すでに19点のリードを作っている初戦で主力を長く使い続ける必要はなく、同時に控えの選手たちへ公式戦の時間を与えることもできる。
「銀城」
「はい」
「不満か?」
「全然。勝てるなら大丈夫です」
「なら座っとけ。必要になったら呼ぶ」
「はい」
春日が控えの選手たちを連れてコートへ向かい、蓮たち五人はベンチに残った。第1Qまでとはほとんど別のメンバーになった正邦を見て、相手側にも少し空気が変わる。
【舐められてんぞ、あれ】
『今度は僕じゃなくて控えの人たちが?』
【主力下がったから行けると思ってんだろ】
『普通じゃない?』
【だから潰せばいい】
『蓮がベンチからどうやって潰すの』
【知らねえよ】
呆れながらコートへ視線を戻すと、春日がボールを運び始めていた。
主力がほとんど下がれば、第1Qと同じようにはいかない。《天瞰眼》もなければ、津川のように相手の得点源へ張りつく選手もいない。それでも正邦の控えは、強豪校の練習を毎日こなしてきた選手たちだった。
春日がゲームを整え、無理に速い展開へ持ち込まず、一つずつ正邦の形を作っていく。相手も第1Qよりは得点できるようになったが、だからといって19点の差が簡単に消えるほど正邦の層は薄くなかった。
「春日さん、やっぱ上手いな」
津川がベンチから呟く。
「そりゃそうでしょ」
「銀城が言うと何か腹立つ」
「なんで?」
「知らない」
蓮は笑いながらコートを見続けた。
第2Qを終えても正邦のリードは大きく残り、ハーフタイムを挟んだ後も松元は主力をすぐには戻さなかった。点差が危険なところまで縮まればいつでも出られるよう準備だけは続けていたが、春日を中心に控えが試合を維持している以上、その必要はなかった。
後半に入ると松元は春日も休ませ、さらに別の選手へ公式戦の時間を与えていった。銀城たちが作った差を控えが守り、派手に広げ続けるわけではなくても、相手に大きな連続得点を許さず、点差を詰められればこちらも一本を返す。主力だけで勝つのではなく、ベンチにいる選手まで含めて一試合を終わらせることもまた、正邦という強豪校の力だった。
蓮は後半、コートへ戻らなかった。それでも退屈には感じず、自分が出ていない時間に正邦がどう戦うのかを見ることも、このチームへ入ったばかりの蓮にとっては意味があると思っていた。春日が下がった後にはベンチから声を出し、津川と一緒になって控えの得点を喜んだ。
【ほんとに出たくならねえのか?】
『ならないよ。勝ってるじゃん』
【俺なら出りゃもっと差つけられる】
『今日はその必要ないでしょ』
【つまんねえ】
『じゃあ寝てたら?』
【お前が起きてんのにどうやって寝るんだよ】
『知らないよ』
最後までそんなやり取りを続けながら、蓮は試合終了のブザーをベンチで聞いた。
スコアボードに残った数字は、正邦 96-54 相手校。第1Qで19点のリードを作った主力を早々に下げ、その後は控えを中心に三つのクォーターを戦いながら、それでも最終的には42点差がついた。
整列を済ませ、選手たちがベンチへ戻っていく。その途中で、蓮は試合前と同じように他校の選手たちから視線を向けられていることに気づいた。ただし、今度は銀色がかった髪だけを見られているわけではない。
「正邦の一年、誰だ?」
「PGの奴だろ?」
「パスだけじゃなくね? 普通に一対一もやばかったぞ」
「てか、あいつ1Qしか出てなかったよな」
そんな声が観客席の近くから聞こえてくる。
【やっと見られ始めたな】
『別に目立ちたいわけじゃないけど』
【俺は嫌いじゃねえよ】
『知ってる』
蓮は振り返らず、正邦の選手たちと一緒に控室へ向かった。
日本へ戻ってきた時、銀城蓮という名前を知る者はほとんどいなかった。《キセキの世代》のように中学時代から全国へ名を轟かせたわけでもなく、日本の強豪校から追われていた選手でもない。アメリカから戻り、正邦高校へ入学した一年生。それが日本の高校バスケットにおける銀城のすべてだった。
けれど、公式戦のコートへ立てば、いつまでも知られないままではいられない。正邦に、見たことのない一年生がいる。わずか一つのクォーターで試合の流れを握り、《天瞰眼》で味方を動かしながら、自分でも守備を破れるPGがいる。
まだ、それだけでいい。
銀城蓮。
正邦高校の新しい司令塔の名前が、東京都の高校バスケットへ知られていく最初の一日は、96-54というスコアとともに終わった。
次も見てね。