初戦を終えたあとも、正邦は順当に勝ち上がっていった。
銀城蓮という新しいPGが加わったことで攻撃の選択肢は増えたが、それまで積み上げてきた正邦の強さまで別物になったわけではない。相手の中心選手には津川が執拗について自由を奪い、岩村を中心とした守備が中を締め、その前で蓮が試合全体を動かしていく。早い段階で点差を作れば松元は無理に主力を使い続けず、春日や控えの選手を送り込みながら次の試合へ向けて体力を残した。
日本の高校へ入って初めて経験する公式戦にも、蓮はすぐに馴染んだ。試合を重ねるほど変わっていったのは緊張ではなく、正邦の選手たちとの呼吸だった。
入部した頃は《天瞰眼》で先を読んでパスを送っても、受け手が自分の動きより先に飛んできたボールへ驚くことがあった。それが今では、津川は自分が空くと信じて先へ踏み出し、岩村や坂本、大室も蓮が見逃さないことを前提に動き始めている。全員が蓮と同じ景色を見る必要はなく、蓮が一歩先を見るのなら、味方はそこへ向かえばいいという関係が少しずつ出来上がっていた。
もちろん、相手も何もせずにやられ続けるわけではない。銀城はパスが危険なPGだという情報が広がり始めれば、受け手を先に消そうとするチームも現れたが、その程度で蓮の攻撃が止まることはなかった。
パスコースを優先して本人への間合いを空ければ、蓮自身がドリブルで守備を破る。一人目を抜いた先へヘルプが出れば、そのまま個人技で得点まで持ち込むこともあれば、寄ってきた守備によって空いた味方へボールを送ることもある。《天瞰眼》と予測パスが突出しているだけで、ドリブルもシュートもディフェンスも並の高校生と比べるような水準ではなく、それを理解した時には相手の守るべき選択肢がさらに増えていた。
【つまんねえな】
ある試合を終え、控室へ戻る廊下を歩いていた時だった。ここ数試合ほとんど表へ出ようともしなかったもう一人の蓮が、久しぶりに自分から声をかけてきた。
『何が?』
【どいつもこいつも途中から同じ顔しやがる】
『どんな顔?』
【どう守りゃいいんだ、って顔】
『ちゃんと見てるんだね』
【見てりゃ分かるだろ】
返事に混じった退屈そうな響きに、蓮は少しだけ笑った。
『そういえば最近、全然出てこないね』
【出る必要がねえ】
『暇じゃない?』
【クソ暇だよ】
『じゃあ代わろうか?』
【いらねえ。こんな試合で俺が出てもつまんねえだろ】
勝手なことを言っているが、裏の蓮らしいとも思った。試合に出て自分で相手を叩き潰すことを好んではいても、ただ暴れたいから表へ出てくるわけではなく、表の蓮で問題なく勝てているなら無理に身体を奪う理由もないらしい。
『意外と我慢できるんだ』
【お前、マジで喧嘩売ってんだろ】
「銀城、何笑ってんの?」
不意に外から声をかけられ、蓮は顔を上げた。隣を歩いていた津川が不思議そうにこちらを見ており、少し前を歩いていた春日も振り返っている。
「別に何も」
「最近、一人で笑ってる時あるよね」
「そう?」
「ある。急に黙ったと思ったら笑ってる」
「変かな?」
「ちょっと」
「ひどいな」
蓮と津川がそのまま話し始める横で、春日は一度だけ蓮の顔を見てから前へ向き直った。
練習試合で見た、まるで別人のように変わった銀城。あの時に口から漏れた「あいつ」という言葉と、普段から時折見せる一人で何かを考えているような間。春日の中ではまだ何一つ答えになっていなかったが、気になる材料だけは少しずつ増えていた。
予選が進むにつれて、会場の空気も変わっていった。
勝ち残っている学校が減れば、自分たちの試合がない時間に他校を偵察する選手も増える。初戦では「正邦の知らない一年」だった蓮も、何試合か終える頃には通路ですれ違う選手から名前を聞かれるようになっていた。
「銀城ってあいつ?」
「正邦の一年のPGだろ」
「アメリカ帰りらしいぞ」
「パスがヤバいって聞いたけど、普通に一対一も強いらしい」
どこから伝わったのか分からない情報まで混ざり始めており、蓮は聞こえてきても特に反応せずに歩いていた。
【有名人じゃねえか】
『まだ全然でしょ』
【名前知られてんだから同じだろ】
『《キセキの世代》なんて中学の頃から全国で知られてたんでしょ? それと比べたら全然だよ』
【別にあいつらと同じになる必要ねえだろ】
『そういう意味じゃないって』
そんなやり取りをしながら、蓮は津川たちと観客席へ続く階段を上がった。次の試合まで時間があり、松元から勝ち上がれば当たる可能性のある学校を見ておけと言われていた。
「春日さん、どこ見ます?」
「こっち。勝った方と準決勝で当たる可能性がある」
春日が空いている席を見つけて腰を下ろし、蓮と津川もその近くへ座った。少し離れたところには岩村、坂本、大室もおり、蓮はパンフレットとコートを見比べながら試合をしている二校の名前を確認した。
「誠凛……?」
その名前を口にしたのは津川だった。
何気ない一言だったが、春日たち上級生の反応が僅かに変わったことに蓮は気づいた。岩村は腕を組んだままコートを見下ろし、坂本と大室も先ほどまでより少し真剣な顔になっている。
「知ってるんですか?」
蓮が尋ねると、春日はコートから目を離さないまま答えた。
「去年やった」
「公式戦で?」
「ああ」
「勝ったんですか?」
「勝ったよ。ただ、楽な相手じゃなかった」
それなら先輩たちの反応にも納得できる。昨年一度戦った相手なら、今年の状態を確認しておく意味も大きいのだろうと考えながら、蓮も改めて誠凛の選手たちへ視線を向けた。
最初に目を引いたのは、赤い髪の一年生だった。
身長だけなら岩村ほどではないが、一年生としては十分に大きく、ユニフォーム越しにも身体の強さが分かる。走り方にも力があり、他の選手と並んだ時点ですでに身体能力の高さは伝わってきたが、その印象は直後のプレーでさらに強くなった。
味方からボールを受けた赤髪の選手がリングへ向かい、守備を引きつけながら踏み切る。跳び上がった身体は蓮が予想した位置を越えて上昇し、そのまま力強くボールをリングへ叩き込んだ。
「……高いな」
「すげえ跳ぶな、あいつ」
蓮の隣で津川も身を乗り出していた。
春日がパンフレットへ目を落とし、名前を確認する。
「火神大我。一年だな」
「一年?」
津川の表情が楽しそうに変わった。
「俺らと同じじゃん。守ってみたい」
「お前は相手が強そうだと全部それだな」
「だって面白そうじゃないですか」
春日が呆れている横で、蓮は火神の動きを追っていた。単純な跳躍力だけではなく、助走から踏み切りまでの勢いと、空中へ出たあとの身体の強さもこれまで予選で見てきた選手とは違う。
【あいつ、いいな】
『気に入った?』
【ちょっとな。今までの奴らよりは面白そうだ】
『蓮がそう言うなら、かなりだね』
【何で上からなんだよ】
声に退屈さがなくなっている。裏の蓮が火神を追い始めたことを感じながら、表の蓮はコート全体へ視線を広げた。
その時だった。
誠凛がハーフコートで攻撃を組み立て、火神が中へ入ろうとしたことで守備が僅かに収縮する。蓮はボールを持つ選手だけではなく、その周囲にいる全員の位置と次の動きを追っていたはずだったが、ボールが外へ展開された瞬間、予想していなかった角度からさらにパスが通った。
パスを出した選手も視界には入っていた。それなのに、その選手がボールへ触れる直前の動きだけが、周囲へ向けていた意識の中から不自然なほど薄く抜け落ちていた。
『……ん?』
【どうした】
蓮は返事をせず、次の攻撃を待った。
今度は意識して十人を追う。ボールを運ぶ選手、左右へ広がる選手、ゴール下へ向かう火神と、それぞれにつく守備。その中に薄い水色の髪をした選手がいることも、蓮は最初から認識していた。
見失わないようにする必要すらないはずだった。
《天瞰眼》は一人だけを見る能力ではない。コート全体を一つの空間として捉え、十人の位置関係から次に生まれる形を読む。誰か一人の姿が派手か地味かなど、本来なら大きな問題にはならない。
ところが、火神がボールを受けようと前へ出た瞬間、守備だけでなく蓮の意識までそちらへ僅かに引かれた。そのほんの短い間に水色の髪の選手の存在感が全体の中へ溶け込み、次に意識を戻した時には、すでに彼の手から別の場所へボールが飛んでいた。
蓮は目を細めた。
【お前、今あいつ見失ったのか?】
『違う。ずっと見えてた』
【じゃあ何だよ】
『見えてたのに、意識から外れた』
自分で口にしてから、その違いを整理する。
姿が消えたわけではなく、速度で振り切られたわけでもない。視界の中には確かに存在しているのに、ボールや火神といったより強く意識を引く対象が動いた瞬間、その選手だけが自然に認識の外へ滑り落ちる。
偶然なら一度で終わる。しかし、同じことが二度起きたため、蓮はそこから水色の髪の選手を意識的に観察した。どこへ立つかだけではなく、誰の近くを通り、どの瞬間に速度を変え、周囲の視線がどこへ向いた時に動いているのかまで追っていく。
しばらく見ているうちに、一つだけ分かったことがあった。単に存在感が薄いだけではなく、薄い自分をさらに見られにくい場所へ置いている。火神が動けば火神を使い、ボールが大きく動けばボールを使い、守備の視線が切り替わる瞬間へ自分の動きを重ねることで、元々持っている影の薄さを偶然のままではなく、バスケットの中で武器として扱っていた。
「……面白いな」
蓮が小さく呟くと、津川がこちらを見る。
「何が?」
「あの水色の髪の人」
「水色?」
津川がコートを探し、少ししてからようやく見つけた。
「ああ、あいつ? 何かした?」
「さっきからパス出してるよ」
「そうだっけ?」
津川が本気で分かっていない様子なのを見て、蓮は少し笑った。
「やっぱり見えにくいんだ」
「何が?」
「いや、こっちの話」
その会話を聞いていた春日が、今度は蓮へ顔を向けた。
「銀城。お前が見えにくいって言ったのか?」
「はい。ただ、見えないわけじゃないです」
「どういう意味だよ」
「ちゃんとコートにはいるし、位置も追えます。でも他の人に意識を向けた瞬間、あの人だけ認識から抜けやすいんです。多分、それを自分でも分かってて使ってます」
春日はすぐには返さなかった。《天瞰眼》がどれほど広くコートを捉えているかは練習で何度も見ており、その銀城が「見えにくい」と評する選手がいるという事実だけで、誠凛の水色の一年生を見る目が変わった。
「止められそうか?」
春日に聞かれ、蓮は少し考えた。
「今なら多分」
「今なら?」
「もういるって分かったから。普通に見るより、全体の中でどのタイミングに消えようとしてるかを見た方が追いやすいと思います。ただ、実際に同じコートへ入ったら今より難しいかもしれないです。外から見てるのと、自分もプレーしながら十人を見るのは違うから」
春日はその答えに頷いた。
「なら覚えとけ」
「はい」
「当たるなら、あいつも対策いるな」
蓮も頷きながら、水色の髪の選手を追い続けた。
【お前はそっちか】
『何が?』
【俺は赤い方がいい】
『知ってるよ』
【あいつ、もっと本気で跳べそうだな】
『水色の人も、まだ何かありそうだけどね』
【興味ねえ】
『極端だなあ』
同じ試合を見ながら、二人の蓮が興味を向けている相手は綺麗に分かれていた。表の蓮は自分の《天瞰眼》からすら意識を外そうとする水色の選手を追い、裏の蓮はこれまでの予選では見なかった身体能力を持つ火神から目を離さない。
やがて試合終了のブザーが鳴り、誠凛の勝利が決まった。選手たちが整列する中、春日はパンフレットでトーナメントの先を確認している。少し離れていた岩村たちもこちらへ集まり、昨年戦った誠凛について話し始めた。
「去年とはだいぶ違うな」
坂本が言うと、大室も頷いた。
「一年二人が特にな。赤いのと、銀城が言ってた水色の奴」
「火神ってのは分かりやすくヤバそうだけどな」
「津川、嬉しそうにすんな」
「だって守ってみたいじゃないですか」
大室に言われても、津川は笑っている。
岩村はそんな一年生たちを横目に見てから、蓮へ視線を向けた。
「銀城はどう見た?」
「強いと思います。今まで予選で見た相手とは違いますね」
「怖いか?」
「まさか」
蓮が笑うと、内側から鼻で笑う音が聞こえた。
【怖いわけねえだろ】
『僕が答えたんだけど』
【同じだ】
岩村も蓮の返事に僅かに笑ったあと、コートへ視線を戻した。
「去年は俺らが勝った。だが、去年勝ったから今年も勝てるなんて話にはならん。向こうも俺らを知ってるし、負けた分だけ研究してくるだろう」
「しかも向こうだけじゃなく、こっちも去年とは違うけどな」
春日がそう言って蓮を見る。
「僕ですか?」
「お前と津川。特にお前だよ。去年の誠凛は銀城蓮なんて知らねえからな」
「こっちも火神って人と、水色の人は知らなかったですよ」
「だから面白いんだろ」
春日はそう言って笑った。
昨年一度戦った正邦と誠凛が、今年は互いに新しい一年生を加えて再び近づいている。片方には火神大我と、まだ名前も知らない水色の選手がいて、もう片方には津川智紀と銀城蓮がいる。
もっとも、対戦が決まったわけではない。正邦にも誠凛にも、その前に勝たなければならない試合が残っていた。
松元からも「先を見るのは勝ってからにしろ」と釘を刺され、正邦は次の試合へ向かった。蓮も誠凛のことを頭の隅へ置きながら目の前の相手へ集中し、《天瞰眼》で試合を組み立てていった。
結果として、正邦はそこで躓かなかった。
試合終了後、控室へ戻ってきた選手たちの前で松元が次の対戦相手を告げる。すでに別のコートの結果も届いており、その名前を聞いた瞬間、岩村たち上級生の表情が少しだけ引き締まった。
「次、準決勝。相手は誠凛だ」
蓮はタオルで汗を拭いていた手を止めた。観客席から見た赤い髪の一年生と、水色の髪をした選手が自分の認識から滑り落ちた瞬間を思い出す。
【やっとか】
『嬉しそうだね』
【お前もだろ】
『まあ、ちょっとね』
否定はしなかった。
昨年、正邦が倒した誠凛高校。今年は火神大我という圧倒的な身体能力を持つ一年生と、《天瞰眼》を持つ蓮ですら初見では認識を外された水色の選手を加え、再び正邦の前まで勝ち上がってきた。そして誠凛にとっても、今年の正邦は昨年と同じではない。
銀城蓮は日本の中学バスケットには存在せず、アメリカから帰ってきたことで誰にも知られていなかった一年生だった。その選手が今は正邦のPGとしてコートに立ち、互いに去年はいなかった一年生を加えた二校が、準決勝でぶつかることになった。
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